F-10 個別機体解説 JA5045
伊豆下田沖の悲劇 航空政策の転換点
JA5045
c/n 7336 C-53-DO → DC3A-S1C3G
19
USAAF 42-15541
19
PanAm Latain American Division NC44786
1956/03/27
Air Carrier Service
1957/11/27
JA5045登録 ▼極東航空 (関谷産業からリース)
1957/12/01
合併により全日空
1958/08/12
静岡県伊豆下田沖で墜落
1958/09/16
抹消登録
C-53スカイトルーパーはDC-3A型を兵員(一部落下傘兵)輸送専用にしたもので、C-47の特徴である大型貨物扉や天測ドームはなく、床面の補強もされていません。JA5045となったC-53-DOは前向きの28席シートのタイプ、JA5050となったC-53D-DOは空挺隊員用ベンチシートのタイプでした。
撮影日不明 JAHS
合併間際の契約のため極東航空の塗装はなかったと思われます
伊豆下田沖の悲劇 航空政策の転換点
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大分空港でダブJA5007の出発を見送るJA5045 この2ヵ月後に下田沖に墜落しました
1958/06/14 出展:門上俊夫
消息を絶つ
1958(昭和33)年8月12日乗員3名乗客30名の満席で羽田空港を飛び立った全日空JA5045機は、大島〜焼津〜浜松のルートで名古屋空港へ向かう途中、午後7時53分「第一エンジン不調、フェザリングにして右エンジンだけで羽田へ引き返す」と連絡したのを最後に消息を絶ちました。
海上で破片や遺体を発見
遭難機は、翌13日正午前に伊豆七島の利島北北西17kmの海上で機体の一部が発見され、18遺体が収容されましたが、15名は不明のまま捜索は打ち切られました。
羽田離陸後、木更津から大島ポイントを経て、浜松ポイントへ向かっていた途中にアクシデントが発生し、旋回して東京国際空港へ引き返す途中で海上へ墜落しました。
事故原因の推定
JUMP
第1エンジ不調という事実から、事故原因は次のように推定されています。水平儀を回す真空ポンプは二つあって左右エンジンで駆動しますが、bPエンジン不調で水平儀も作動しなくなったため、2エンジン側のポンプに切り替えようとしたが、スイッチの不備で切り替わらず、盲目飛行になって海面へ激突したのではないかというわけです。
スイッチの不備とは、パイロットが記憶していた位置にスイッチがなかったという意味も含むと言われています。
推定の域をでないわけですが、今回、文献を調べなおし、当時の関係者にも接触した結果、当時、全日空が持っていた9機のダグラスDC-3のなかで、本機のみが真空ポンプが切替え方式になっていたことが判明しました。これは、今まで明らかにされていない新事実です。下記を参照してください
安全政策の転換
この事故は、1952(昭和27)年の日本航空Martin2-0-2もく星号以来の全員死亡という大事故でした。マスコミはもちろん国会でも連日にわたって全日空と運輸省を追及しました。当時の新聞からその論点をしぼってみると、次の三つになります。
中古のダグラスDC-3の安全性
全日空の運行体制と整備体制
航法支援施設などの不備
1 政府の対応
国会では全日空社長も運輸省航空局長も謝罪のかたわらいろいろと答弁をしておりますが、私は、8月16日の衆議院運輸委員会における永野運輸大臣の答弁を最も注目しております。「予算がとれないのでこれまでは不十分であったが、これから航空路が発達すれば、無線などの航行援助施設などをもっと整備したい」
大蔵省の了解を取っての答弁であったかどうかはわかりませんが、まさに予算を十分につけてこなかった大蔵省に対する宣戦布告みたいなものです。
大臣も役人も我々が要求した予算を大蔵省が認めないからできなかったとは口が裂けてもいわないという不文律があります。うっかり言おうものなら来年度予算でもっと手厳しい仕返しを受けるからです。
ですから、この運輸大臣の答弁は、裏返せば大蔵省が正面から反論することができないほど世論が沸騰し、事態が切迫していた証拠ともいえるでしょう。
したがってその後、空港・管制・操縦士や整備士の技能・会社の経営などに対して相当の予算がついたことはまちがいありません。ちなみに、米空軍飛行検査隊(立川基地)から飛行検査業務を日本が引き継いで実施するための人員やDC-3の購入費が予算化されたのは、2年後の昭1960(和35)年度でした。
2 全日空の対応
事故について「仕様不統一による技術面での煩雑さが事故誘引のひとつになったのではないかという見方があり」(全日空社史から)、全日空は6ヶ月間の調査検討期間を経て、伊藤忠整備に委託して全8機の改修を行いました。1機あたりの改修費は700.〜800万円といわれ、運輸省はこれに対して5000万円の補助金を交付ました。
事故後の全日空は、乗客の激減というまさに会社存亡の危機に陥ったわけですが、美土路社長以下のねばり腰で見事に再建を果たします。私は結果論にすぎませんが、運輸省や大蔵省の豹変による環境の大きな変化も全日空近代化を後押ししたものと考えております。
こうした支援に社内も奮起して危機を乗り越え、翌1959年にはコンベアCV-440を幹線に投入するなどの積極策によって飛躍的再発展のスタートをきったのであります。
事故原因の考察 2003/09/30追加
JA5045事故機真空システムの考察 にがうり
JA5045墜落事故は機体が水没し引き揚げもできず、乗員乗客も全員死亡のため墜落原因は確定されません。判っているのは夜間飛行中No.1(左)エンジン停止連絡後に行方不明となったということだけです。
当時の全日空所有DC-3は中古機の寄せ集めのため仕様がバラバラで操縦室の計器板やスイッチ類の配置も機体によって違いがあるという状況でした。
推定原因のひとつとして夜間のNo.1エンジン停止でジャイロ計器が不作動になって墜落したのではないかと疑われました。この頃のANAのDC-3ジャイロ計器は水平儀、旋回計、定針儀がありましたが、特に緊急対応中に機体姿勢を見る水平儀、旋回計が不作動では夜間海面上の片肺飛行は非常に危険です。
また当時のANA所有DC-3には2種類の真空ポンプ・システムのタイプがありました。
ひとつは、No.1,No.2エンジン直結真空ポンプのサクション・ラインはマニフォールドにいったん合流してからジャイロ計器とパイピングされているタイプです。この場合は片発エンジンが停止しても切り替える必要はありません。
もうひとつの.タイプが本事故のJA5045機のみであったことがこのたび判明しました。
そのタイプは、No.1とNo.2がそれぞれ独立したパイプ・ラインになっていて切替ノブ(バルブ)によりどちらかを選択してジャイロ計器につなげるようになっていました。
通常はNo.1エンジン直結の真空ポンプから水平儀、旋回計、定針儀のジャイロ計器にサクションを取っているので、No.1エンジンが停止したら生きているNo.2エンジン直結真空ポンプに切り替えなければなりません。
その切替コック・ノブはコパイ(副操縦士)前の計器板下段にあります。
下田沖においてその切替をしなかったとすれば、なぜしなかったのか?
9機のうち、ただ1機だけの装置であるため、切り替えを不要とする機体に慣れていたパイロットが、あるいは、念頭になかったか? あるいは、切替ノブの位置がとっさに分からなかったか? その時コパイは?
・・・・・しかし今となっては謎です。次の元運輸省航空局技術部長大澤信一氏の記述も参考にしてください。
大澤信一著「航空機と共に歩んだ道ー航空局検査課の歴史」から
事故といえば昭和三三年八月一二日の全日空のDC-3が夜間伊豆下田沖に墜落したことがあった。全員三三名死亡で海中深く沈没して引揚調査もできなかったが、安全ベルトが鋭利なカミソリで切った如く切れていたことを見ても、相当の衝撃で墜落したと思われ、事故の原因は単純ミスであることが大体想像された。
それはその年の三月に日本ヘリコプター輸送と、大阪の極東航空が合併して全日本空輪が出来たのであったが、その際両社が夫々所有していたDC-3を持ち寄ったのである。勿論DC-3といえは総て中古 機で仕様もバラバラであり、人工水平儀に供給する真空圧を両方の発動機の真空ポンプから常時とっている機体と、切替えて使用発動機がきまる機体とがあった。
事故の起こる前にワン エソジン アウトという通信があり、この機体は後者に属するので、停止した発動機から真空圧をとっていたとすれば生きている発動機に切替えてやらねば人工水平儀は完全にアウトとなって、暗夜海上で自分の姿勢を全く失って真っ逆様に海面めがけて突進したものと思われた。
(資料は元航空局検査官岡田和彦さん提供)
問題の真空ポンプ切替ノブの位置について 佐伯邦昭
にがうりさんとの何十回にもわたる検討の過程で、事故当時の関係者のナマの証言も得られて、JA5045のみの特有装置が判明しましました。今後、これ以上の事故原因推定が行われることはないと思います。
なお、参考のため、真空ポンプ切替ノブの位置について説明しておきます。
昭和15年発行の宮本晃男著「ダグラスDC-3型旅客飛行機取扱解説」(育成社弘道閣発行)のなかに、発動機直結眞空喞筒左右選擇弇操作梃というものが出ております。
眞空喞筒とは、しんくうそくとう つまり真空ポンプ
左右選擇弇とは、さゆうせんたくかん つまり左右切替装置
操作梃とは、そうさてこ つまりノブ・レバー・スイッチの類いです。(「ダグラスDC-3型旅客飛行機取扱解説」は碧南市の板倉忠男さんから借用)
操作梃がどこにあったかというと、海軍零式輸送機の写真にあります。
1975年文林堂発行「世界の傑作機66 C-47スカイトレイン 昭和零式輸送機」より転載 転載許可済み
副操縦士席側の計器盤の一番下の列、燃料計と並んでおります。全日空使用のDC-3の中でたった一つの例であったJA5045も、当時の関係者の記憶では、この位置にあったようです。
その他の機体については全日空 機体メンテナンスセンターに展示されているノーズセクションで確認してください。矢印で示した○の箇所です。
切替の原理
インターネット航空雑誌ヒコーキ雲 2009/04/01の表紙絵から
今日は何の日 1959年4月1日 下田沖事故から全日空が再起した日 あれから50年
1958年8月JA5045の伊豆下田沖事故を受けて、全日空は残る10機のダグラスDC-3の計器統一など改修作業を進め 翌1959年4月1日を期して休止路線を復活させた。その再起にかけた時刻表には、時間と運賃を ライバルの国鉄と比較して一覧表にするというなりふり構わぬ闘争心がうかがえる。更に、この年にはコンベアCV-440を幹線に投入して日航にも戦いを挑んだ。現在窮乏 将来有望の旗印のもと、 国民総スカンの中で耐え抜いた社員たちがいまのANAを築いたのだ。
F-10 完