推
発行年の推定
新 1 OKUBOさんから
1957年5月の発行です
JALのRouteMap、発行年が分かりました。
最初に見たパソコンは画面が小さくて気が付かず、後で大きな画面を見たら、印刷年月と印刷部数が書かれていました。
「無線航法の莱」の下部欄外に102−R−00(資料番号?)とその右側に5/57 160,000と書かれています。これは5月/1957年(昭32)に16万部印刷したことを表すメモです。
16万枚とは大変な数ですが、当時JALは、千歳一羽田にこの夏から運航のオーロラ便を含め5往復10便、羽田一大阪は4往復8便、羽田一福岡には直行便、大阪経由合わせて3往復6便を運航、何れもDC−4で、登場客65程度なので全24便で提供座席は1,560席になります。
ただ、乗客全員がルートマップを持ち帰ったとは思えないので、20%位かなとして試算すると1560×20%で約350部程度毎日補給すことになります。
16万部÷350は、約460日で、1年半程度で消化です。この後「鶴丸」の入ったものになりますが、これは1966年以降のことで、1957年後半から、1967年前半の資料が不足です。
2 9C1さんから
自分なりに調べてみて、1957年以降ではないかと思われるのですが。理由として
1:日本航空の本社が丸の内2-3の東京ビルディングに移転したのは1955/04/05です。
2:地図に描かれた鉄道路線がどれくらい正確かは分かりませんが、長野県の松本と新潟県の糸魚川を結ぶ小糸線が開通したのは1957年8月です。
3 古谷眞之助さんから
改めて見ていて、日本航空 代表者 伊藤良平 という表現に疑問を持ちました。
伊藤氏の著書「航空賛歌五十年」には、氏の肩書きとして
1951 日本航空株式会社 取締役兼企画部長
1957 同 常務取締役
1966 同 顧問
と記してありますが、いわゆる「代表者」という肩書きはありません。しかし、この路線図には堂々と代表者と表記しています。どういうことでしょうか。氏は「代表権のある常務取締役」だったのでしょうか。氏が山口高商出身の大先輩であり、宇部航空輸送研究所、山口交高商航空研究会と大いに関係があったことで、氏の履歴はざっと知っているつもりでしたが、これには驚きました。
あるいは、このルートマップに関する責任者、という意味で「代表者」という言葉を使っているのでしょうか。
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