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航空歴史館 掲載11/08/12
追加11/08/21

 ミスビ−ドル号 復元機の飛行
 

1 復元ミスビードル号 三沢で初飛行 撮影 ダンブリ
2 オリジナル切手とうちわ  提供 寿( kotobuki)
 太平洋無着陸横断飛行80周年メモリアルフライト 撮影 にがうり
撮影 Twinbeech

 

撮影2011/08/15(月曜日) 三沢基地 ダンブリ


 8月18日のメモリアルフライトに先立ち、15日にミス・ビードル号(NR-796W)の予行飛行が行われました。

  飛行は10:30〜11:25で、正確にカウントしてませんが、10回程度の離着陸を行ってます。

 18日は仕事の都合で式典を見ることができない為、本日見学となりました。三沢航空科学館から見える範囲での撮影でした。










 

切手
 

切手とうちわ  実物提供 寿( kotobuki)


 8月8日 、ミス・ビードル号による世界初の太平洋無着陸横断飛行80周年を記念したオリジナルのフレーム切手が、青森県南地方の各郵便局で発売されました。(1シート1200円で1000部発行)

  八戸では午前中に売れ切れとなり、夕方行きましたら、三沢から取り寄せてくれるとのことで12日に受け取りました。郵便局のサービスもよくなりました。

 
  
    

 去年の三沢基地航空祭で飛行するはずだった復元機の実行委員会が配ったミス・ビードル号のうちわを送ります。あまり出回っていないのではないかと思います。(直径20cm)

    

 今年は、「ミス・ビードル号讃歌〜ドリーム・スカイ〜」なる歌も披露されるそうで、ともかく元気に飛んでくれることを祈っています。


 

 

   

  ミス ビードル号太平洋無着陸横断飛行80周年メモリアルフライト

     Memorial flight of the 80th anniversary of the Pacific Ocean crossing flight in Misawa on 18 August.

 

@ 撮影と文 にがうり

 ミス ビードル号は、基地側から地上滑走してきて航空科学博物館の式典会場横に停止しました。

08:56









 驚いたのはこの機体はドアがなく、操縦席左右のでかいスライデイング・ウインドーから身体を折り曲げて乗降する姿でした。私も、地上機体各部やTV局など報道のパイロット取材インタビューを近くで撮影しました。
 これら一連の撮影は報道以外では私しかいなかったようで私も報道の一員でした。

08:58











 今回の来日パイロットは3人で、本日の飛行は、SPIRIT OF WENATCHEE会長のScott Carterが機長席(左席)でJake Lodatoは副操席(右席)でした。向かって右がカーター、左がロダートです




 テレビが取材終了したあと、パイロット二人に近づいて挨拶しサインも貰いました。
 とっさのことでボールペンをポケットから出してから、さてなんに書いて貰うか考えてちょうど手にあったビードルのチラシを出したら、スコットが笑いながらどこに書こうか? たしかに色刷りで細いボールペンでは目立たない!そこで二人で探して航空科学館の屋根が白いのでここだ!と彼は笑いながらここにサインしてジェークに手渡してくれました。
 朝早く行ったご褒美になりました。




09:47






 

A 撮影と文 Twinbeech

 前夜からの雨にもかかわらず 昨年の三沢航空祭で飛行できなかった無念のおもいを この祭りの前夜祭当日に達成したいという三沢市長の情熱がこもっての飛行だったようです。


 














 朝10時から三沢市と米軍・自衛隊他関係者による式典が行はれ その後飛行が実施されました。







 ビードル号の飛行も当初11時半から12時頃と予定されていましたが 飛行が始まったのは30分はやく11時頃で、後になってみるとこの時間帯が最も土砂降りの状態でした。













 当日の飛行は 市内と式典会場の「大空ひろば」上空を数回飛行し、時間も30分足らずのものでしたが 悪天候のなか多数の人々が集まって偉業を成し遂げたビードル号の飛行を観覧しておりました。









    

感想  リンドバーグとの落差

 想えば1927年5月20日に大西洋横断に成功し、パリでは20万人の人々に出迎えられ 凱旋帰国したニューヨークでは400万人の歓迎を受けたリンドバーグに対し、その4年後の1931年10月に同様の偉業を成し遂げたにもかかわらず、その差はあまりにも大きすぎると前々から感じていました。
 
 少々調べましたところ、1960年代頃まではアメリカ側のウエナチ(発音にとってはワナッチ)の到着点にはモニュメントはおろか その足跡にかかわるものは全くなかった といわれています。

 これに関しては、当時この地をたまたま商用で訪れた日本人の方の本を読んで知りました。
 この方は、椿本チエン工業の2代目社長山中一郎氏で、学生時代からビードル号のことを知っており、この地を訪れた機会に着陸地を見たいと探していたところを現地の人に「怪しい日本人らしき 奴がうろうろしている」とポリスに捕まったそうです。

 しかし、事情を話したところ、ウエナチ市長の耳に入り、是非詳しいことを聞きたいということで市長主催の晩餐会によばれ、ここでアメリカ人の偉大な功績に 対して、日本ではその功績をたたえて出発点の淋代にはモニュメントはあるが・・・・・というようなことを述べられた。
 これに対してウエナチ市長は「このような偉大な実績にモニュメントはおろか資料館もない。アメリカ人としてウエナチ市民として恥ずかしいことだ。」と早速資料集めとモニュメント建設のための実行委員会を設立されたそうです。

 私は、この度の復元機の飛行に至った始まりはこのあたりにあったのではないかと思っております。
 今回「椿本HD」本社に出版物を確認しましたが見付かりませんでした。
 いずれにしても80年たった今、こうして隠れたような偉大な足跡が蘇ったことに感激しましたが、2泊3日の強行取材にはさすが疲れました。

 

淋代海岸 太平洋無着陸横断飛行の地 ミス・ビードル号記念碑とレプリカ撮影2002/7/30  にがうり

ミス・ビードル号の太平洋無着陸横断飛行については三沢市のホームページをご覧ください
http://www.net.Prefectureaomori.jp/misawa/Pages/inter_ex/_veedol.html 

   

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