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羽田空港 このページ 飛行場空撮 東京国際空港
東京国際空港旧ターミナルビル
全日空メンテナンスセンター
全日空P-3原動機工場
全日空原動機センター

 妙高号殉職記念碑

思い出

@ 日航スチュワーデス第11期生卒業の頃
A 全日空の思い出から  1960年代中ごろの羽田風景
B 1974年の羽田風景 東亜国内航空DC-9など
C 1982年の羽田タワーとフライトプランカード

 

:現地に展示または保存中のもの ×:過去のもの :現状不明

A3605 東京都 Tokyo Metropolitan 大田区羽田空港 全日空 機体メンテナンスセンター 
                                   全日空 P-3原動機工場
                                   全日空 原動機センター
  
全日空機体メンテナンスセンター

◎ ダグラスDC-3 ノーズセクション (2001/8原動機センター玄関から移転)

 19とありますが、もと全日空機のJA5019ではありません。ツーソンのジャンク屋で買ったノーズを伊丹の愛甲で全日空仕様に復元したものです。

撮影2002/12/19 出展:にがうり

◎ プラット アンド ホィットニー R-1830エンジン 

2002/12/1全日空創立50周年を記念して、Pratt & Whitney社から贈られました。

撮影2002/12/19 出展:にがうり

P-3原動機工場玄関

◎ ロールスロイス マーリン621型エンジン 加圧液冷60度V 12気筒 歯車駆動過給機付4サイクル

 不朽の名エンジン ロールスロイスマーリンの621型でアブロ・チューダー旅客機に搭載されていたものです。
 マーリン61型と呼ばれるこのタイプは、機械式2段2速過給機の冷却の問題を、1段と2段の間にインターステージ空気通路中間冷却機(説明板の表示)を置いて解決したことで有名です。
 このため30000ftでの最大出力が500hpから1000hpへと劇的に向上し、スピットファイアのMk.7以降とノースアメリカンP-51戦闘機がドイツ空軍機に優位に立てるようになりました。

 (戦後、旅客機に転用されたものの、この過給機の高周波騒音が嫌われて成功はしませんでした。)

撮影2002/7/1 出展:佐伯邦昭  

右上にインターステージ空気通路中間冷却機(水冷)が見えます。61型以前のマーリンにはありません。下にコップがありますが、オイルを受けています。

原動機センター玄関

◎ ジェネラルエレクトリック CT58 エンジン 1500馬力 全日空S-61に搭載

撮影003/03/05 出展:佐伯邦昭


 
A3654 東京都 Tokyo Metropolitan 大田区 東京国際空港
   
   

     羽田整備場 毎日新聞社格納庫 撮影2007/05/27 出展:YS45
 
飛行場空撮 東京国際空港 滑走路(16L/34R)(16R/34L)3000m (04/22)2500m

 国立科学博物館所有のYS-11量産1号機 JA8610



 3か月ごとに点検及び6か月ごとにエンジンのモータリング(セルモーターによる回転のみ)とジャッキアップによるタイヤの下面変更を実施

 

× 東京国際空港の旧ターミナルビルに展示してあったYS-11 試作1号機 出展:KUPANBA

詳細説明は、航空歴史館 後・53 国産旅客機YS-11 その3 をご覧ください 

羽田開港60年史編集委員会は既に解散し、同誌への提供者も不明のためとりあえず無断借用です。心当りの
方の申し出を待ちます

 左主翼はビルのエプロン側へ張り出し、右主翼は発動機ナセルの外側で切断し、機内は路線使用機と同じような内装にして、アナウンスも流していました。観覧料は大人20円、小人学生10円でした。 機体右側は試作1号機JA8611に似せて塗装し、左側は次図のように日本国内航空の宣伝であったようです。

 

 
 
 胴体と垂直尾翼のライン及び社章の色は赤

  この写真はJA8776「しれとこ」号の塗装です。本物の機体は1971年4月15日にロールアウトし、5月7日にJA8776として登録されています。 その1週間後の5月15日に日本国内航空と東亜航空が合併して東亜国内航空が発足していますので、最新鋭機のカラーとして宣伝塔になったということでしょうか。
 したがって、この写真の撮影時期は少なくとも1971年5月以降です。 左側の塗装については、試作1号機のカラーのままであったのかどうか不明です。 この展示がいつまであったのかも不明です。

 

 
 
 
A3635 東京都 Tokyo Metropolitan 大田区羽田空港 
 
大田区羽田空港  妙高号殉職記念碑 出展:にがうり

 三菱MC-20妙高号の殉難祈念碑(慰霊碑)は、羽田整備場の三菱の<YS−11部品倉庫>隣りにある<JCAB合同庁舎>脇の道路沿いにあります。この道路はモノレール下に見える各新聞社格納庫に行く道路です。 

妙高号の事故

 MC-20は陸軍の三菱100式輸送機を民間旅客機としたもので、大日本航空と朝日新聞社が使用しました。航空局による民間型の検査は大日本航空の妙高号J-BGON(100式輸送機の4号機)を使って行われました。

 1940(昭和15)年12月20日に陸軍側も同乗して検査飛行を行っていたところ千葉県姉ヶ崎沖合いに墜落し、搭乗者13人全員死亡という大事故を起こしました。

 航空局では、残骸の調査や同型機による試験飛行、風洞試験などを行いましたが、確実な事故原因は不明でした。

 事故の教訓から、検査基準の制定や自動計測装置の重用、搭乗員を最小限にすることなどの改善が行われ、民間航空における本格的な事故調査体制が確立される第一歩となりました。

 妙高号殉職記念碑は、はじめは川崎市にあった航空局航空試験所構内に建立されましたが、終戦後羽田空港の検査官事務所そばに移され、1979年に現在の地に納まりました。写真のように立派な台座の良好な環境にありますが、碑裏面の事故状況と13人の殉職者氏名の銅板は腐食が進んでいます。

 参考文献 航空技術325号 村林淳吉筆「航空局検査行政の推移(1)」
 三菱MC-20 J-BAAP 朝日新聞朝雲号の写真は、JAHS発行「Jナンバー登録記号集1」から転載