碑文
昭和五年、航空機搭乗員の養成は若き俊才の特別教育によるとの方針により少年航空兵制度が設けられ、全国の十六歳前後の志願者より厳選うえ採用されて以来、昭和二十年八月の終戦に至るまで鉄石の予科練訓練を受けて巣立った二十万騎の若鷲たちは、名実共に日本海軍航空戦力の主軸として世界にその名を馳せたが、太平洋戦争後期には戦力利あらず、その多くが祖国の危急を救おうとの一念に燃えて自ら身命を惜しまず、愛機もろとも体当り攻撃を敢行して尊い命を国に捧げていったのである。かかる戦局の中、敵機は連日わが国の主要都市を爆撃し、戦雲更に急を告げる昭和二十年春、三重、土浦、鹿児島、松山、浦戸、美保、滋賀、小松の八航空隊より選抜され、三重海軍航空隊特一部として編成された乙二十期及び甲十四期の予科練千百九十六名と教官を含む基地要員約百名は、当時迎撃用に開発された新鋭ロケット式局地戦闘機秋水の搭乗員となるため、秀峰八ヶ岳を仰ぐ野辺山基地に派遣され、丸山を中心として連日グライダーによる操縦訓練を行いついには鎮目教官の殉職を招くほどに訓練は激烈を極めたが、教科修了を目前に八月十五日の終戦により解除されるに至った。顧みれば予科練の歴史は僅か十五年余りにすぎないが戦いを好むに非ずひたすら愛国心に燃え未曾有の国難に殉じようと決意して精進を重ねる若人たちの至誠と犠牲的精神は、わが国の繁栄と世界の恒久平和への礎となることを衷心より祈念し、地元南牧村当局のご厚意を得て旧訓練所の地野辺山にこの碑を建つ。
平成元年八月 三重空野辺山若草会
撰文 右代表 溝口源三郎 |