伝説の時代から現代まで 航空史抜き書き 静岡県

航空歴史館

女性パイロット第1号朴敬元飛行士の郷土訪問飛行

 航空史探検博物館静岡県 いしぶみ 思いは遥か故郷の大空 朴敬元記念碑

韓国映画“青燕”について

 

A4522-01 静岡県熱海市梅園 韓国庭園
               Korian Park, Atami City, Shizuoka Prefecture

                                
いしぶみ  思いは遥か故郷の大空 朴敬元記念碑 撮影2006/01/15 出展:にがうり

 朝鮮人女性として初めて操縦士免許を取ったパクキョンゴン嬢が、1933年8月7日に故郷の朝鮮京城訪問飛行(大刀洗〜京城間は女性初の海峡横断飛行)のため、羽田で盛大な見送りを受けて飛び立ったものの箱根上空の密雲のため玄岳(静岡県高方郡多賀村、現熱海市)に墜落し、翌8日に村民により発見されました。

 この記念碑は熱海市が日韓首脳会談の開催場所になったことを機縁として熱海梅園内に建立したものです。墜落現地には慰霊碑があるようです。

 使用機は、陸軍払い下げのサルムソン2A2 記号J-BFYB 青燕号 碑文の墜落時間午前11時25分というのは時計の停止時間からとったものです。

朴敬元(パクキョンゴン)嬢レリーフ
ヒコーキ野郎 1974(昭和49)年10月号の航空トピックスから  FUKU

 女性パイロットの先駆者朴敬元女史の慰霊祭

 40年前,郷土韓国へ訪問飛行の途中事故死した女性パイロットの先駆者,朴敬元さん(当時33歳)の慰霊祭が8月7日、遭難地である静岡県熱海市の医王寺においてしめやかに行なわれました。
 朴さんは韓国・大邸の出身で、大正14年東京立川市の飛行学校入校、飛行時間11時間で単独飛行をしたという優秀な女性パイロットでした。
 そして、昭和8年8月7日、単発機サルムソン2A型「青燕号」で韓国に向け、羽田を出発しましたが、50分後雲に視界をさえぎられ熱海市の玄ケ岳山系大山山腹に激突死亡。当時、この激突事故は新聞紙上に大きく取り上げられ、また、女性パイロットということもあり、多くの人々の悲しみを呼んだ事故でした。
 慰霊祭には日本婦人航空協会(及位野衣会長)、韓国女性航空協会(金環梧会長)のメンバーをはじめ、川口美雄熱海市長、蘇明沃韓国大使館空軍武官ら多数が参列、文字通り日韓航空界のかけ橋となった朴さんの遺徳をしのびました。
 

 

韓国映画“青燕”塗装のボーイング ケイデット

撮影2004 カリフオルニア州 Camarillo Airport MASAO




韓国映画“青燕”について

 韓国映画「青燕」は、韓国籍の女性パイロット朴敬元をモデルに制作され、飛行シーンの撮影と編集は米国で行われ ました。制作はKOREA PICTURES 監督ユン ジョンチャン 主演チャン ジニョンです。韓国での封切りは2005年12月でした。韓国映画では最大級の制作費が投入されたそうです。

日本での公式紹介サイトhttp://www.hf.rim.or.jp/~t-sanjin/yunjonchan_seien.html

 MASAOさんが写した津田沼飛行校の機体については、はっきりとは確認できませんでしたが、J-記号を書いたケイデットが何機も登場します。

 来日後のパクさんは、蒲田の日本飛行学校自動車部へ入学し、のち同校立川分校操縦科へ移り、ここで2等操縦士免状をとるまで学んだとされています。映画では立川飛行校というのが出てきます。

 それで、なぜ津田沼なのかもうひとつ分からないのですが、フラッシュを見る限りでは当時の日本人や風物はよく研究されていて、あまり違和感がありません。また、米国での飛行や操縦風景撮影も迫真的で面白いです。

 パクさんが日鮮満親善飛行のために飛び立ったサルムソン2A2 J-BFYB青燕号は、小泉総理の祖父小泉又次郎逓信大臣が彼女に払い下げたものだそうです。親善飛行は無念の墜落で成就しませんでしたが、靖国参拝をめぐる小泉総理と韓国のごたごたの最中に、この映画が作られたというのも因縁めきます。

 映画は、すでに昨年末に韓国で封切られましたが、残念ながら不人気で2週間あまりで上映は打ち切られました。 その理由は 

 @ 朴敬元は“日帝”の手先であり、“反日”を貫いていない。
  A 制作に日本の出資があり、そのために反日色が薄まったと噂された。
 B 日本語のシーンが多く、字幕が嫌われた。
などだということです。

日替わりメモ20100128

・  岐阜県のWさんから「青燕」のDVDが今月発売されたとの連絡を受けました。

 主演女優(チャン ジニョン)は、昨年、結婚したヵ月後に胃がんで生涯を閉じたそうです。35歳の若さでした。この映画では、立派な演技でした。また、監督は、全体に立川の飛行学校や飛行シーンや当時の日本の生活様式などを細かに考証して撮影しており、航空映画としては上等の部類に入ると思うのです。

 ところが、韓国でも日本でもあまりうけませんでした。韓国民がそっぽを向いた理由はお察しのとおりですが、日本人には、政治的なフィクションを入れ過ぎてしまったために、目をそむけるようなシーンがあり後味がわるいものになりました。DVDには、そのあたりもノーカットで入っているのですかね。

 

参考資料 2006/04/12 佐伯邦昭調

津田沼飛行校について
 胴体には、鳥が羽を広げた見事なデザインに達筆で津田沼飛行校が描かれています。すくなくともアメリカ人の筆跡とは考えられません。
 しかし、史書によりますと千葉の稲毛から津田沼一帯には、民間飛行練習所、伊藤飛行機研究所、白戸飛行機練習所などの名前はありますが、「津田沼飛行校」なる名称の学校はないようです。

J-BCDLについて
 この記号に該当する飛行機は不明です。また、J-記号時代にKAYDETが日本へ輸入された記録はありません。

 以上から、ドラマか何かの制作のためにアメリカでKAYDETを借り上げて、塗装したものと推定されます。
 

KAYDETシリーズ

 Stearman Aircraft Company(1934年ボーイング社が子会社化 1939年同社ウイチタ工場となる)の手になるKAYDETシリーズは、1933年から1945年までに10,346機製造され、主に米陸軍のPT-13、PT-17、米海軍のN2S初級練習機として使用され、戦後は農業用などにに幅広く活躍しました。

 シリーズとしては、ライカミングR-680(220馬力)を搭載したのが、PT-13、PT-13A〜DとN2S-2、5。コンチネンタルR-670(220馬力)を搭載したのが、PT-17、PT-17A、N2S-1、3、4と呼ばれます。戦後民間に払い下げられた機体の多くは、P&W R-985(450馬力)に換装されました。

 

 日本に輸入されたPT-13改 ボーイングA75(JA3641)もP&W R-985(450馬力)エンジン付きでした。

日本のKAYDET経歴 

1941 ロールアウト C/N75-6890 USNAVY 07286
  N68403
1971/12/07 登録 JA3641 所有者 ピロビタン総本舗 
1976 NHK連続ドラマ 雲のじゅうたんに出演
1976/09/15 所有者 山田英治 定置場南紀白浜
1978/05/14 撮影1978/04/09 佐伯邦昭
現在 栃木県那須戦争博物館に陸軍98式一型練習機という名称で低翼単葉機として展示中 抹消登録手続き未済