山口県柳井市出身の佐村福槌は1902年に渡米し、かなりの紆余曲折はありましたが、1914年に万国飛行免状第225号を取得しました。
よね夫人は、和歌山県から渡米して裁縫の勉強をしていましたが、飛行熱にもとりつかれ佐村の指導を受けているうちに仲良くなってロサンゼルスで結婚しました。しかし結婚を機に操縦を中断して、ライセンスまでには至っていません。彼女の渡航目的はあくまで洋装習得でした。
帰国後は、夫妻で下関に洋裁学校を開いており、福槌は下関航空協会会長となったり、身内を操縦士に育てたりしていますが、大きく名を為すような活躍は記録されていません。しかし1973(昭和48)年には福槌が民間航空に貢献したという理由で運輸大臣表彰をうけています。
この高さ2メートル40センチの立派な石碑は、1953(昭和28)年に高杉晋作奇兵隊挙兵で有名な下関市長府町の功山寺境内に建立されました。
裏面の碑文 徳富蘇峰
佐村氏ハ周防柳井 夫人は南紀串本ノ人 弱冠海ヲ渉リ北米ニ至ル 時ニ我航空界漸ク多事 夫妻挺身切磋其技ヲ練ル 蓋シ我先覚タリ 夫君猶操觚ヲ嗜ミ聲名アリ 閨室更に渡佛洋装技術ノ研鑽ヲ積ミ 大正十二年相携ヘテ帰朝下関ニ関門洋裁学校ヲ開設 経営己ニ三十歳 是亦斯界ノ濫觴ニシテ其文化ニ貢献シタル又没ス可カラズ 洵ニ稀ニ覯ル逸材也 辱友長陜妄撰
同窓生航空関係者並有志建立
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航空界 洋装界 佐村福槌君夫妻乃碑
高杉晋作が長州藩の俗論派打倒を掲げて、京都からの5落卿がひそむ功山寺に挙兵したその境内に立つ2.4メートルの石碑をみて、他県人の佐伯は違和感をもちました。訪れた日は休日で、144年前の和洋折衷の軍服姿の人々が、馬上の高杉晋作像の前で実演や紙芝居で高杉のクーデターを見せておりました。それはまあ的を得ているように感じましたが、佐村福槌君夫妻乃碑がなぜ同じところにあるのかという疑念は、今でも抜けていません。
奇兵隊わずか84人で下関の藩役所を襲撃占拠し、防府で軍艦3隻を奪い、以後続々と入隊者が増えて遂には藩論を倒幕に変えさせて明治維新の幕を開けた高杉晋作と、アメリカ帰りで万国飛行免状をもつとはいえさしたる活躍の記録が残っていない佐村福槌との比較においてです。
その疑問は、碑の上部に並べて彫ってある航空界・洋装界という文字で解けるのかもしれません。つまり、よね夫人とともに設立した関門高等洋裁学院での活動が、下関市において洋行帰りの名士に列せられ、友人知己の尊敬を受けたのではないかと。
碑の建立9年後に、民間航空功労者として運輸大臣表彰を受けているのも不思議です。
時の運輸大臣は山口県出身の徳永政利参議院議員でした。また佐藤栄作氏はその前年に首相の座を降りたばかり、岸信介氏は統一教会と組んで日韓政治連盟をつくるなど、山口閥の隠然たる力が見え隠れします。そんなバックグラウンドも見渡しておく必要があるでしょうね。