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航空歴史館

日本に来た2機のエルクーペについて N93586とN93588 改題

日本に来たエルクーペN93586について
 

A8402-3 大分県別府市餅が浜町 セスナ薬局
          Cessna Pharmacy, Beppu City, Oita Prefecture
      
1 セスナ薬局までの経緯

◎ セスナ薬局のエルクーペ  N93586? 

別府市 セスナ薬局 撮影2009/11/23 HAWK

経緯など 門上俊夫

A 店長の野上氏は双発機の操縦免許をもっており、赤十字飛行隊のメンバーでもあります。飛行機の好きな方は歓迎されますので、通りかかったときは立ち寄ってください。場所は、別府港から大分市寄りに約1キロの国道10号線沿いです。

 このエルクーペは、別府市の富士見病院(現別府中央病院)の故内田院長が取得し、後にセスナ薬局へ移ったものです。内田氏も操縦免許を持ち、青少年の航空思想の普及のために 会員を集め、各種の飛行機を集めていました。
A8404-2参照

 エルクーペについては、古い話ではっきりしたことは分かりませんが、奥田という商社員が南米スリナム共和国で飛ばしていたようです。日本に持ち帰ったのですが、耐空検査などの関係で登録できなかったようです。  

B 私が1958年3月上京したとき、藤沢飛行場に行ったのですが、そのとき偶然にも、このエルクーペを見ました。着陸後、二人の大きな男性が降りて来て、格納庫に入っていたRC−3シーピー水陸両用機に乗り換えて飛んで行きました。

 その後、関東司令部飛行クラブに属し、宮田三郎という人の所有 を経て、今治市の越智という人が買い取りましたが、飛ばすことができず、結局1976年4月、内田院長が展示、教材用にするため取得したものです。 したがって、残念ながら、航空機として日本籍の登録はされていません。

 

 (以上CONTRAIL No.160(1994年秋号)の記事から要約しましたが、Bについては下記写真による経緯の通りN93586に間違いありません。セスナ薬局の機体が、これと同一か別の物かは確定するにいたっていません。佐伯)

 

輸入からの経緯

1954年

撮影1954/11/05  世界の航空機1955年6月号 尾翼のナンバーはN83586
1958年

東京国際空港 撮影1958/04/05 戸田保紀 
1959年

藤沢飛行場 東洋航空格納庫 撮影1959/04 戸田保紀  
ナンバーはN93586



藤沢飛行場 撮影
門上俊夫



東京国際空港 撮影1959/11/22 戸田保紀

ナンバーはN93586







 
1965

 撮影1965/04/14 名古屋空港  撮影 森脇啓忠  提供 丹羽八十


1978

大分県の理研病院保管場所 撮影日不詳 JAHS


大分県の理研病院保管場所 撮影1978/05/04 門上俊夫
1989年頃
 屋上に設置された機体は別の機体と思われる。
 機種が判る方がいましたらお知らせください。(2023/7/23 編集)
  

 別府市セスナ薬局 撮影1989頃  avion



 別府市セスナ薬局 撮影1989頃  avion


 上記写真 機体拡大写真



 
1994
別府市セスナ薬局 撮影1994/12 門上俊夫 場所の都合で右翼はとりはずし

 
2 エルクーペとは  門上俊夫

 エルクーペとは、どのような飛行機なのか資料をまとめてみました。

 アメリカの軽飛行機産業の人たちは、オートバイや自動車に乗る人でも飛行機を簡単に操縦できるようになれば、飛行機がもっと売れるに違いないと考えました。当然のことでしょう。

 コーナーでバンクするという点ではオートバイと飛行機は共通していますが、オーパイでは左に曲がるときハンドルも左に切るのに対して、飛行機は左のペダルを踏むようになっています。すなわち、左右反対の操作です。

 しかも、飛行機は旋回のときにはバランス保持上、補助翼と方向舵の共同の動作を必要とするところに初心者が困難を感じます。オートバイに慣れた人は、新しく飛行機の操縦を始める前にその習慣を払拭しなければなりません。これが軽飛行機売り込みの大きな壁になります。

 設計者の多くは、補助翼と方向舵を連動させて、方向舵ベタルを廃止しようと考えました。すなわち、自動車と同じように、ハンドルを左に回すだけで飛行機も左に曲がるようにするわけで、こうすれば操縦はずっと簡単にできるでしょう。

 それで
 ▼ 速度が低下すると、機首が下がって失速しないようにする。
 ▼ 上反角を大きくして、パンクしても大きく傾かず、危険なスピンに入らないようにする。
 ▼ エルクーペのように垂直尾翼を2枚にすれば、プロペラの後流の圏外にあるので、エンジン全開の時も、アイドリング状態の時も、何の調整も必要がない。

というような構造を考案しました。

 ただし、方向舵と補助翼の動きには、微妙な調整が必要ですが、数年に及ぶ実験と研究の結果、簡易な飛行機操縦の実用化にこぎつけたのです。

3 エルクーペの製造

 エルクーペを製造したのはエンジニアリングリサーチ(エルコ)社という1930年に設立されて、航空機向けに部品や装備品を製造していた会社です。

 本格的な航空機の設計開始は、1937年に入社したフレツド
イツクによるモデル310という二人乗りの単葉機です。
 この初号機(c/nl、NX19148)は1937年10月に初飛行し、これが415Cエルクーペの原型となったのです。全金属製、翼は羽布張りでエンジンはエルコ社自身のIL−116 55馬力を装備しました。なお生産型ではコンチネンタルA−65−8、65馬力エンジンに換装しました。

 また、前述のように、より安全で操縦の簡単な小型飛行機をめざして、自動車のステアリングのように1本の軸でコントロールできるようにしました。
 方向舵ペダルは無く、自動車の運転感覚で、新米パイロットにとってエルクーペの操縦は容易にできるように思われました。

 しかし、実際には、このコントロールシステムは、ベテランパイロットに混乱を生じさせることが多く、また、天侯不良の時は制約がありました。結果的に、多くのエルクーペは普通の操縦システムに改められているということです。

 エルクーペ415Cの生産第1号(c/n、NG−15692)は1940年に完成しました。しかし、1941年12月に戦争が始まって、アルミニュウムは緊急な用途にのみ供給されることになったために、112機作られたところで製造が中断しました。
 軍は、エルクーペを観測機(YO−55)、標的曳航機(YPQ−13)として3機だけテストしたましが採用はされませんでした。

 1945年8月に終戦とともにエルクーぺの生産が再開されました。エルコ社は1946年から1951年の間に、戦争前のも含めて5081棲を製造しています。

型式別の生産数は次のとおりです。
エルクーペ415C コンチネンタルA-65-8戦前型         112機
エルクーペ 415C コンチネンタルC−75−12戦後型      4408機
エルクーペ 441CD415Cに操縦系統、前脚、小改造
エルクーぺ 415D 415CDに燃料10Gal増設            352機
エルクーぺ 415E 415DにコンチネンタルC−85−12      139機
エルクーペ 415F 415DにコンチネンタルC−90
エルクーペ 415G 415Eに風防改造と後部座席
エルクーペ 415fi 415GにコンチネンタルC−75−12       70機
                                    計 5081機

4 製造権の譲渡

 1951年になるとエルクーぺの需要が減り、また、朝鮮戦争関連の仕事が急増してエルクーペの生産に手が回らなくなったため、エルコ社は製造を停止して製造権をユニエア社に売却しました。

 更に、1955年4月にフォーニイ社が製造権を買い取り、コロラド州フォートコリンズでフォーニイF−1として製造を始めました。エンジンはコンチネンタルC−90−12F、90馬力に強化され、カウリング、計器板、座席、内装などが改装され、1959年までに115機の F-1が生産されています。

 1959年にフォーニイ社の航空機部門はエアプロダクツ社に売却され、その生産設備はそっくりニューメキシコ州カールスバッド市に移され、今度はエアクーペF−1Aと改称して生産が続けられました。

 エアプロダクツ社では、操縦系統、後桁、前脚などが改修され50ポンドの重量増加になりました。ここでは1962年までに50機製造されています。

 次にエルクーペの生産を引き継いだのはアロン社でした。1963年12月31日にアレンとハイドンのこ人でカンサス州ウイチタ市に設立した会社で、1964年3月16日に製造権を買うとアロンA−2と名付け、同社のマクファーソン工場で生産を開始、10月24日には初飛行しました。
 A−2はコンチネンタルC−93−16Fにエンジンを強化し、スライド式バブルキャノピー、燃料タンクを改良、計器類も改良されました。このA−2は244機生産され、その後、主脚をスプリング鋼にしたA−2Aが64機つくられています。

 アロン社はA−2Aを更に発展させて、130馬力フランクリンエンジンにしたA−3を1機(c/nN5401F)開発したましたが量産には至りませんでした。

 また、A−2を4座席にし後退角付き1枚垂直尾翼でカウリングや主翼も再設計し、150馬力ライカミング0−320Aを装備した]A−4( c/nOOl、N6399V)も試作しました。

 しかし1号機のテスト飛行が進行する間にアロン社の経営状態が悪化し、1967年10月10日にはテキサス州ケリビルのムーニー航空機会社と合併をしたので、A−2Aの生産自体もムーニー社に移っていきました。

 ムーニー社ではこれをM−10 Cadetと名付けて生産を継続しましたが、特徴だった2枚の垂直尾翼をムーニー独特の前傾垂直尾翼の1枚とし、その他エンジンカウリング、座席周辺などにも変更が加えられましたので、ムーニーの起源がエルクーペにあることを知る人も少なくなりました。

ムーニーM20E 撮影1980/02/22 広島空港 佐伯邦昭

 

 

 

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