カナダのトロントにお住まいの伊達のり子様(
日経新聞を読まれてご拙書「年表 山口県航空史 1910〜2010」を購入いただいた方 )より送られてきたシミュレーターに乗る伊達さまのお父様の写真を紹介します。
のり子様はカナダ在住が長く、現在は空から送電線のチェックを仕事にされているプロのパイロットだそうです。乗機はセスナ172とのこと。
以下はお父様、ご本人による経歴、軍歴の記事です。お名前は伊達兼三郎氏(
故人
)です。帝国海軍でこのようなシミュレーターを使用していたというのにびっくりしました。
のり子様にはネット上での公開の許可を得ています。周辺情報が入れば、彼女に連絡してあげたいと思っています。
伊達兼三郎
府立第一商業学校 東京渋谷 卒業
日本大学芸術科 (特待生 月謝免除) 卒業
関西学院大学心理学科 繰り上げ卒業 (2学年終了時 学徒動員の為)
軍隊
第一期大阪時代(最初の大阪)は学徒動員で、海軍の三重航空隊に入隊。横須賀海兵団では操縦士に選抜されなかったので、予備学生として海兵団で訓練を受け、土浦海軍予科練航空隊の航空適性部に派遣される。
その後、横須賀海兵隊へ移り、基礎訓練をたたき込まれた。一年後に振り分けがあり、心理学を学んでいたため、土浦海軍予科練航空隊の心理適性部へ配属される。そこでは予科練航空隊の心理検査を担当することになる。飛行士の操縦と整備とに分ける心理テスト(クレペリンテストなど)を行なった。操縦訓練の模型機でパイロットの判断テストをした。
操縦訓練の模型機 シミュレーター
下に機械が付いていて、傾きや動きをみて特攻隊員としての適性検査をしてた由。前席が伊達兼三郎氏とのこと。記述から土浦海軍航空隊で使用されていたものと思われます。
テストに合格し、特攻機に選ばれていった者が何人かいただろう。土浦に在任中、適正検査を行なうため、台北、台南、上海、松江に行った。*片山津航空隊にサトウハチロー氏の息子がいた。後に私がサトウハチロー氏にかわいがられることになったのはそれが縁だったと思う。
土浦適性部から各地に予科練航空隊担当士官を配属することになり、私は小松予科練航空隊に士官として配属された。東京への空襲が始まったのはこの頃からだ。広島、長崎に原爆が投下され終戦。ソビエト軍が満州に侵入して来たニュースはそこにいるときに知った。
終戦直前、飛行場を作る為に、片山津航空隊から予科練生を連れて能登半島の七尾の農村に特攻機の飛行場を作るため移動した。終戦は小松の予科練航空隊に戻り、そこで軍隊を解散させられる。
士官だったため、従兵という身の回りの世話をする役の人(召集された私よりも年寄りの兵)から戦争の将来がどうなるかと聞かれたが、もうすでに日本の敗北は避けられないと答えざるを得なかった。
戦時中、海軍士官は航空隊以外に、住居を持ち、外泊が許されていたので、石川県小松市内の中等学校の教師、本任粂次郎宅に下宿をしていた。そこの家族は学校の先生夫婦と老婆、そして男の子と女の子の二人の子供がいて、家庭的な雰囲気を味あわせてもらえた。(後に氏は校長になられ、叙勲を受けるために上京されたときに再会した。当時私はNHK映画部長)。
終戦に伴って、航空隊より炭火、米、缶詰等が配給になったので、その物資を裏の片山津の海から伝馬船に乗せ,予科練生が船を漕ぎ、小松の川を下って小松の下宿近くの橋の下まで運んだ。橋の上から軍刀を投げ入れ、軍隊と決別した。(アメリカ占領軍により武器を摘発され始めたので。)