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航空歴史館 掲載16/09/05
追加18/05/10

 

東亜航空コンベアCV240 JA5130の生涯

 

ライアン ナビオンJA3057の生涯を併せてご覧ください

コンベアCV240 JA5130の略歴

1948/09/10 c/n97 タイプ240-3 N90848 Continental Airlines
1953/05/08 CF-CUY Canadian Pacific Airlines "Fleet No. 395"
1964/06/25 写真1 JA5130登録 東亜航空 定置場広島空港  
1969/03 東亜航空定期路線から引退 広島空港に留置
1971/04 東亜航空格納庫で再整備
1971/04 富山空港へフエリー
1971/07/02 抹消登録
不明 写真2 富山市のボーリング場に展示 
1976〜1991 写真3〜5 岐阜県中津川市福岡町 ドライブイン蘇水に展示 
不明 写真6 静岡県三ヶ日町 浜名湖レイクサイドホテルに展示 
1993頃 写真7〜9 三重県鈴鹿市横山商店が引き取り、資材置場に保管  
2016  写真10〜12 横山商店が資材置場で復元展示 
2018/05/05 写真13 変化なし (ライアンナビオンは撤去?)

 コンベアCV240製造番号97は、1948年にアメリカのコンチネンタル航空機としてロールアウトし、カナデアンパシフィック航空を経て、1964年に広島の東亜航空が輸入しました 。しかし、既にYS-11の時代が始まっており、約5年で路線から引退せざるを得ませんでした。

 引退後は、最後に富山県へ飛んで登録を抹消し、ボーリング場の展示機になり、以後、岐阜県、静岡県、三重県と遍歴し、一時はスクラップ同然の姿になっていましたが、2016年引退から47年を経て立柱架台の上に据え付けられ、ここに蘇りました。

 その修理や塗装に、何かと異論があるかもしれませんが、
・ 日本の空を飛んでいた20機のコンベアライナーで、残る1機の現存物であること
・ 退役後に、元旅客機としては異例の長期間の遍歴を重ねていること
・ 旅客機が立柱架台の上に載せられたのは、わが国の空前の出来事であること

等を踏まえ、その生涯を写真で記録しておきたいと存じます。そして、個人の力で保存展示を成し遂げ られた鈴鹿市横山商店の社長ご夫妻に心からお礼を申し上げるものです。  

 

写真1 東亜航空現役時     sy

JA5130登録の1ヵ月後 撮影1964/07/26 広島空港 佐伯邦昭

撮影日(木造県営住宅の状況から1964年と思われる) 広島空港 幸田恒弘


撮影1967年頃 広島空港 中井アルバム

 

写真2 抹消登録後富山市に展示    2

 場所は富山空港東方の国道41号沿いボーリング場でした

撮影1973/07/12 高橋 豊 提供丹羽八十  



       国土交通省ウエブマッピングシステム1975年撮影より 情報提供:TRON
       

 

写真3 岐阜県中津川市福岡町 ドライブイン蘇水に展示   3

航空ジャーナル1979年12月号


撮影1979/09/01 丹羽八十






国土交通省ウエブマッピングシステム1977年撮影より 情報提供:TRON

 場所は国道257号線沿い、福岡町の南端付近、福岡町関戸あたりで、座標は北緯35度32分44秒,東経137度26分48秒です。  ただ、空中写真の縮尺が15000分の1なので、若干不鮮明で、エンジンも判別できず、「飛行機らしい」としか言えない状態です。

 しかしながら、周囲の状況は丹羽八十さん撮影の写真と合致する部分があることから、間違いは無いかと思います。
  なお、この空中写真の撮影年は1977年なので、JA5130は富山に75〜76年まで置かれた後、岐阜県に来たことになるようです。

 

写真4 ドライブイン蘇水 外装を更新

撮影1988/06/05 丹羽八十




 この説明板から察するに、レストランの経営者は連合軍総司令官マッカーサー元帥の乗機(ダグラスC-54)を想定したかったようです。そのために画かれたと思われる胴体の黒い米軍マークは、このあと浜名湖レイクサイドホテルを経て三重県鈴鹿市で発見された時にも残っています。


手記 JA5130の想い出


 佐伯さんのホームページを覗くようになった昨年以来感じることは、現在日本の航空の有様を見るにつけ、戦後「航空再開」切望から独り立ちしていく姿を同時並行で見聞して来た人共通の飛行機に対する熱い思いが底辺にあることを強く感じている。

 その現れがDC−3の研究成果になっていると思う。そのDC−3に「追い付け追い越せ」で各種輸送機が世界中で開発、実用化されてきた緯緯がある。⊂の点からも氏の研究心は日本に現れた「DC−3対抗飛馬」にも心意かれるものがあるのではないかと推察する。

 かく言う自分も実際に間近でDC−3を見たり、触ったり機内にコツリリ入ったりした若年時代を体験し、郷愁を覚える機体である。しかし、CV−240の実際に飛んでいる姿を名古屋で見るチャンスは巡ってこなかった。もっとも新幹線など走っていない時代の羽田、名古屋間に就航していたCV−340/440は飽きるほど小さな空港ピル屋上から眺めていた。

 いわゆる飛ばなくなった飛行機に巡りあえるチャンスは口コミでの情報が全ての当時、いかにその情報をいち早く入手でさるかはまさに「運」しかないが、経験から言えることは自分の飛行機好きをより多くの周囲の人達が認識していてくれるかによる。幸い職場は全国各地から働きに来た人で成り立っていたお陰もあり、帰郷時にどこどこで置いてある飛行機を見たと知らせてくれる幾人かが居たことが幸いしたと思っている。

 今回、資材置場こ無造作に放置してあるCV−240の画像を見せ付けられた時は佐伯さんならずとも胸のつぶれる思いがした。

 自分がこのJA5130に初めて会ったのは79年9月1日の休日だった。先述の様に、職場の同僚が冬季スキーヘ出かける折、その脇を通った時に見かけたと知らせてくれたのがきつかけで、展示してあればめったに動かないと判断し、夏まで現物を見に行かなかった事を思い出す。

 中央道を中津川ICで降りて付知峡へ向かう途中にその機体は機首を若干空に向けて基礎の上に置かれていた。しかも喫茶店として営業していた。同行した職場の同僚たらは付属階段を登り、機内へと消えた。自分は早速周囲を歩さ回って外観撮影を始めるが無粋な避雷針のコン柱が2本立っているのがどうにも邪魔で仕方がない。東亜航空時代の塗装は既に白ちゃけていたが、よく事故報道に登場した「東亜航空」の実物塗装を見るのは初めてだった。

 仲間がくつろいでいる機内へ自分も入ってみて飲み物を注文、見回すとテーフルと対面シートが設置されていたが、操縦席は完全な計器類保存状態だったし、オリジナルの座席もついていた。喫茶調理は後方ギャレーを使用して給仕していた。驚いた事に夏場であったせいかもしれないが、非常脱出用窓が外されて、主翼上面へ出ることが出来る。早速翼上に出てそこからの情景も撮影した。

 この後、すっかり忘れてしまっていたこの機体の存在を再び思い出させてくれたのは最初に訪問してから9年後の6月5日で、高山市内の学校校庭に自家用ヘリコフターが集合する情報を聞きつけ、撮影に出かけるにあたって他のルートでも行けるのにワザワザこのCV−240の近況を知りたくて寄り道した。

 その時の写真は既に提供した通りであるが、確かに機体は無事もとの通りあったが、なんとも悲しい塗装姿でがっかりした。あのオリジナル塗装は変わり果てた素人塗装でのチンドン屋化粧でしかない。傍らの食事処へ入ってみて更に驚いたのは⊂の不思議な塗装になる前に実は二回ほど化粧直しをしていた様子が写真パネルで紹介してあった。その 一つは派手なレインボーカラーにしていた時期も有った事がわかった。喫茶の営業はしていなかったし、前脚のところには間違った解説文があり一層がっかりさせられた。気を取り直して再度機体各部の撮影をした後、高山へと向かった。

 最後に当地を訪問したのは91年6月15日で⊂の時も高山への旅行途中だったが、この時は先回より更に驚きを持って見た。まさに解体作業中であった。エンジンも機首もコロンと路上に置かれ、翼をはずす作業中だった。作業員に所業を尋ねると、浜名湖のホテルヘ運ぶとのコメントだがそのホテル名までは聞き出せなかった。

 自分がJA5130の痛ましい姿を見たのはこれが最後だった。

 しかし、話はこれで終わらないから世の中面白い。

 ソリッドモデル製作から始まった自分の飛行機熱。フラモデルがまだ無い頃、3面図を読み取り削りだしていく過程の面白さを経験した事のある中年は多いと思う。広島の上昇クラフも含め全国ソリッドモデルクラフ合同例会が昨年も愛知県犬山を会場場こ盛大に開かれた。その自分が名古屋を中心に活躍している「名古屋三点クラフ」の門をたたいて仲間入りさせてもらい、先輩の高橋 豊氏と出違った頃、クラフの月例会で件のCV−240が話題になった時、破はたしか1973年7月12日富山のポウリンク場駐車場で撮影した機体だと言い出し、翌月の例会で証拠写真を見せてくれた。その富山へほ新潟の三条ヘスーパーコンステレーションでレストランを開設した経営者への面会の帰路だった。このコニーの話は後日又。

 つまり、彼が富山で見てから6年後に福岡町へ引っ越して来た事になる。
 
 佐伯氏のホームページを多くの人達が覗さに来ている証拠だと感じたのは富山での展示情報が零せられた事でも良く判る。この情報を目にして、そう言えばと思いあたり、高橋氏と連結を取り合い、ネガの貸与と写真公開承諾を得る事が出来たので同封、提供するものです(上段E-2)

 今後この機体の動向が気になる所だが、いずれ殖え続ける「飛行機ファン」に見つけられる事だろう。どんな姿を佐伯さんのホームページで見られるか楽しみにしている。
                                            2004.2.2.記

       Nagoya  Aviation Enthusiasts Society    丹羽八十

 

 

写真5 ドライブイン蘇水 解体作業

撮影1991/06/15 丹羽八十



        

 

写真6 浜名湖レイクサイドホテルに展示   6

絵はがき 撮影日不詳 提供RENAT

 

写真7 三重県鈴鹿市横山商店資材置き場   7

撮影2004/01/19 浦田 慎


    


写真8  三重県鈴鹿市横山商店資材置き場   8

撮影2005/03/20 F-BLHQ

 

写真9  三重県鈴鹿市横山商店資材置き場

 機体関係は、以前の浦田さんとF-BLHQさんの確認時から若干移動し、資材置き場の外れにありました。入り口付近のエンジンはそのままの位置にありました。移動したおかげでCV240の観察は容易です。部材も特に処分された様子はありませんでした。

撮影2008/11/02 KM

写真10 修復塗装  (吊り上げ中に胴体後部破断) 10

撮影2016/06/17 HAWK

写真11 架台に設置

撮影2016/08/04 大神 隆


写真12 最新状況と横山社長ご夫妻への取材 Twin beech  

撮影2016/08/31 Twinbeech


 横山商店ご夫妻より展示機のいきさつについてコメントを伺って参りました。
 CV240は、約23年前静岡県の三ケ日のホテルより買い取り 運送業者に依頼するも断られ 仕方なく搬送台車を自作し 自分で運転して鈴鹿に運んだとのことです。

 再生については 今年3月に皇居内の花見参観があり 夫婦で車で行き靖国神社の駐車場に止めた。神社の歴史に感激するとともに就遊館の零戦の展示を見て興奮。帰ってから早速 ライアンとCV240の復元に乗り出すことに。 

 復元作業はご夫妻が全て軸となり 5〜6名の応援を得て約4ヶ月がかりで完成させた。CV240を架台にセットするのが大変で、130トンのクレーンを使ったが、1本目のボルトが なかなか入らず苦労した とのことです。

 架台に乗せる前に後部胴体と本体がはずれていしまい 結局60本の補強板を作って内部より補強した。このときついでに機内を全て清掃できてよかったとのことです。

 ライアンは零戦と同じ旧海軍のグリーン色に、CV240はシルバーの政府専用機色と決めた。 塗料は四日市市の塗料屋に調合してもらい、ライアン CV240 架台等全てを奥様が主体で ローラで手塗りされたそうです。

 ライアンは架台に載せる前にエンジンスターターを回したところ スターターは回ったとのことで、エンジンまわりはまだ良好のようです。 もったいないですね。

 横山さんご夫妻には 10時半頃から1時半すぎまで昼食時間を 過ぎたにも拘らず快く対応していただき感謝しております。本当に有難うございました。 Twinbeech

写真13 最新状況 CV240に変化なし写真13

撮影2018/05/05 ジョーズ






社長さんのご自宅前にプロペラがありました