京都府目次  伝説の時代から現代まで 航空史抜き書き

航空歴史館

日本海航空株式会社について

参考 2010年山陰の2便空港の現状


中国航空協会 古谷眞之助

 

   


三菱式MC1型旅客機「城崎第一号」 白服男性は長岡外史
  
                            西村屋資料・「改訂 城崎物語」より転載

                   

はじめに

  兵庫県の空港といえば、但馬コウノトリ空港と神戸空港だが、長い歴史を誇り多くの文人に愛された城崎温泉にも今から約80年前に、れっきとした航空輸送会社が存在していたことを知る人は多くないだろう。私はたまたま友人から、彼の祖父がこれを利用して鳥取から城崎まで飛んだ模様を記録した8ミリビデオを見せてもらって知ったのだが、今回山陰小旅行をした際に何か残っていないかと、気になっていた城崎と但馬空港を訪れてみた。

  宿泊した城崎の宿のご主人によれば、残念ながら当時を物語る記念碑などは残っていないとのことだったが、宿の蔵書の中から神戸新聞但馬総局が編纂した「改訂版 城崎物語」を調べてくれた。そこには2ページの簡単な記事が記載してあり、さっそくコピーしていただいた。しかし、あまりに資料としては貧弱である。もっと詳しい資料はないかと市立図書館も訪れてみたが、あいにくとその日は休館日に当たっていて、調査できなかった。以下の一文は、帰宅後あらためて資料に当たってまとめたものである。

 

設立の立役者

  この航空会社は、西村佐兵衛元町長が他の有力者2人と城崎町を中心に東は天の橋立、西は出雲大社への航空路を開設することを目論んで設立したもので、すでに昭和3年頃にはその構想は暖められていたという。西村佐兵衛は北但大震災から城崎復興を成し遂げた立役者で、名物町長。市内には復興に奔走する彼の記念像がある。同時になかなかのアイデアマン、事業家でもあった。明治15115日に城崎町生まれ、昭和15年「民間航空事業功労者」表彰、昭和3410月「交通文化賞」受賞、昭和3510月には「藍綬褒章」を受賞している。想像するに彼は、田舎の有力者にありがちな、よかれと思い立ったら強引に物事を進めるタイプで、なおかつ名誉心旺盛、町のためなら全財産を投げ出してしまうような地方政治家だったのではないか。

 

会社設立経緯

  昭和6328日、逓信省航空局に認可申請し、同年71日、側面からこれを援助した三菱航空機常務渋谷米太郎氏によりこの会社は「日本海航空会社」と命名された。ただし、この時点ではまだ株式会社ではなく、発起人3名による同族的経営だった。

721日付で「遊覧飛行営業」が「空監783号」をもって許可された。当初その採算性に難色を示した航空局も、発起人3名が「二号を持ったつもりで欠損を補充していったら経営が挫折することはありません」と言い切ったために許可した、という逸話が残っている。しかし、たぶんこれは西村の性格を思えば、単なる逸話ではなく、事実だろうと筆者は思っている。

 

城崎水上飛行場

使用航空機は陸上飛行機ではなく水上飛行機であり、同町円山川水面を水上飛行場として利用するもので、城崎駅前の川堤には格納庫が設けられた。宿のご主人に教えていただいて、その付近を歩いてみた。城崎は円山川河口から約4キロ上った所に位置し、この付近で川幅は約200mで、城崎駅前には長さ約1,000mの中洲(川堤)が延びている。おそらくここに格納庫が設けられたのだと思う。地図をみても長さ1,000m、幅200mのシードロームは十分に取れたと思われるし、河口に近いこの辺りは川の流れも緩やかだ。

 川の流れから推測すると、滑走路は03/21になる。両側には100500mの山が連なっているので、おそらく河口側から城崎に入り、川幅が広くかつ山間が開けている城崎上空で風向きによっては旋回して着水していたのだろう。あるいは場周飛行が不可能ならば、円山川上流の豊岡市付近上空から高度を落としつつ、川沿いに城崎まで下ってそのままダイレクトに着水していたのではないだろうか。

 正直言って、有名な城崎温泉だから、もっと広い場所だと思っていた。しかし、城崎は円山川の支流大谿川沿いに小規模経営の温泉宿が並んでおり、宿の数は多いが、エリアは思いのほか狭かった。ロープウェイで標高200m強の展望台から町並みを見下ろしたのだが、前に穏やかな円山川の川面があるとはいえ、ここに水上飛行機を導入しようと思い立った西村佐兵衛には、やはり常人とかけ離れた進取の精神を感ぜずにはおれなかった。


格納庫があったと思われる城崎駅前の川堤


展望台から俯瞰する温泉街と円山川

 

遊覧飛行の開始

昭和6年7月22日午前1137分、発起人が待ちに待った航空機「三菱式MC1型旅客機」が飛行場に到着した。この機体はもともと逓信省が我が国民間航空の草分け「東西定期航空会社」に貸与していた陸上機で、三菱航空機において水上型に改造された。登録番号は「J-BAKG」。日本海航空会社は、その時すでに梶間、長島両飛行士、安江、露崎両機関士を確保しており、名古屋で改造された機体は、この4氏により空輸された。また、飛行場長には元浜松飛行機製作所技師浅見富蔵氏を充てることに決定していた。

  飛行機の到着と共に、関係者、招待客400人が列席して「開場式」が挙行されたが、この中には我が国航空界の父と言われた長岡外史もいた。この式典は町始まって以来のにぎやかなものになり、深夜に及んだという。この式において「三菱式MC1型旅客機」は、渋谷氏により正式に「城崎第一号」と命名された。同機の諸元は以下の通り。

  全幅     14.75 m
  
全長       11.59 m
 
 全高        4.26 m
  翼面積       59 u
  自重     1,550 kg
  搭載量     1,050 kg

全備重量   2,600 kg
  最大速度     190 km/h 
  巡航速度   150 km/
  航続力        6 時間
  乗員        2
  乗客        5

 
但馬コウノトリ空港に展示されている「城崎第一号」の大型模型   A5604参照

   昭和6728日より遊覧飛行が開始されたが、これは水上飛行場を離水後、日本海上に出て、城崎周辺を旋回してくるというもので、飛行距離約30km、飛行時間約10分だった。搭乗料は5円で、当初は満員状態が続いたため、一飛行当り25円の売上が確実に入ってきたという。また天の橋立への遊覧飛行も実施されている。地図上で円山川河口から天の橋立までは約30km、往復60kmとなり、約30分は要しただろう。この場合の飛行料金は片道10円だった。同年831日までの飛行実績は以下のように記録されている。

  総飛行時間  15時間56

  総飛行日数  23

  総飛行回数  57

  総乗客数  220

   このデータから、平均乗客数3.9名搭乗率78%、平均飛行時間 16.8分だったことが分かる。搭乗率78%は立派である。この当時の5円はかなりの高額だったに違いないが、もともと航空は太平洋岸を中心に発展していて、裏日本、特に山陰地方には縁遠かったため相当の話題性があったためだろう。平均飛行時間が16分を越えているのは、この中に天の橋立への遊覧飛行が含まれているためと思われる。

  この成功に意を強くした同社は、更なる遊覧飛行の開拓に乗り出す。97日には鳥取市郊外の湖山池に着水し、同地にて遊覧飛行を3日間実施して、商業的には十分な成功を修めた。

 

定期航空の開始

  さらに1010日には城崎−松江間の航空路開設に着手する。同日午前952分、城崎離水、午前1126分松江宍道湖着水。飛行時間1時間34分だった。地図上から距離を見ると、約175kmだから平均時速110kmとなる。この飛行には三菱渋谷氏、山陰新聞、大阪毎日新聞記者も同乗している。帰路は、午後255分離水、午後55分に城崎に帰着して飛行時間は1時間10分。往路と復路で飛行時間が異なるのは、おそらく風の影響だろう。また同年112日から3日間、松江宍道湖で遊覧飛行を実施している。

  この後、営業は順調に伸び、また1名の搭乗希望者にも応ずるために海軍一三式水上機が導入された。この機体の諸元は以下のようになっている。

全幅      10.20 m
  
全長           8.68 m
  全高          ?
  翼面積       32.65 u
  自重         872 kg
  搭載量         184 kg

 全備重量     1,056 kg
水平速度     129.6 km/h
航続力          3 時間
乗員          1 名 
乗客              1

 

  この機体は大正14年に完成したもので、陸上型と水上型があり、長く陸海軍で練習機として使用された。その後は民間に払い下げられている。資料にも実機の写真は掲載されておらず、登録番号は不明であるが、「城崎第二号」と命名された。

  昭和8629日に、城崎―松江間の「定期航空、一週一便」が認可され、その第1便は75日に飛行している。当時の石倉松江市長は航空路開発に熱心で、宍道湖湖畔の市有地に滑走台を建設してこれに応えた。712日には松江水上飛行場として開場式を挙行している。資料には、『当日は快晴で、滑走台の上には一三式「城崎第二号」が待機し、一方城崎を離水した「城崎第一号」が乗客を乗せて松江上空に姿を現すと、第二号は白波を蹴立てて離水し、二機が雁行して市上空を祝賀飛行した』とある。

 

日本海航空株式会社設立と機材の充実

  同年、1226日、公募していた株式応募が満株となり、創立総会が城崎町の西村屋旅館において開催された。その結果、翌昭和911日より社名を「日本海航空株式会社」とすることとなった。資本金は10万円、株主149名、社長に中島久太郎、西村は常務に選任された。翌年、乗客は順調に増加し、2機だけでの運航が難しくなり、さらに1機を追加発注した。これは海軍一四式水上偵察機を大幅に改造したものである。この機体はもともと3座の偵察機であったが、操縦席周りを改造して、4名の乗客を可能としたもの。登録番号J-BEHHで、以下はその諸元。

全幅      14.23 m
  
全長           10.74 m
  全高          ?
  翼面積       54.79 u
  自重        1,930 kg
  搭載量         870 kg

 全備重量     2,800 kg
最大速度     189 km/h
航続力          9 時間
乗員          1 名 
乗客              4

 


一四式水上偵察機 (注・松江号ではない)

 

この機体は「松江号」と命名され、その航続力を生かして日本海航空悲願の「松江―大阪」定期航空路に投入するものだった。松江―城崎―琵琶湖―淀川―大阪というのが飛行コースだったが、なぜこんなに迂回コースとなったか。それは飛行コース上に舞鶴という要塞地帯があったことと、水上機であるため、万一不時着の場合には、海、湖、ないしは河川が必要と考えられたためである。ただし、当の運航側が、むしろ水上機の方が陸上に不時着する場合は安全だと考えていたというから、愉快な話。事実、この一四式および一三式は、霞ヶ浦航空隊の草地に見事着陸(?)した実績を持っている。

昭和10320日付で、松江―大阪定期航空の準備二往復飛行許可が下りた。323日には、この松江号を駆って、松江発、城崎経由で大阪に飛び、27日にも同様の飛行が実施された。その結果、530日付で、678月の3ヶ月、毎週1往復の定期航空許可が降りた。さっそく66日には記念すべき松江―大阪定期航空第一便が飛んだ。パイロットは長島栄作で、乗客4名、260通の郵便物を搭載していた。その時の飛行コースと時刻は以下の通り。またこの年には、松江―隠岐の定期航空も実施している。

 

0850城崎発   1050大阪木津川尻水上飛行場着

1100木津川発  1230城崎着

1330城崎発   1430松江着

1530松江発   1630城崎着

    

会社解散

  順調に成長して行くかに見えた日本海航空株式会社に、突如「松江―大阪定期航空路放棄」の要請が逓信省から飛び込んで来たのは、昭和11年新年早々のことだった。この航空路は今年以降日本航空輸送株式会社が担うことになった、という非情な通達だった。日本海航空にとってこれは死活問題であり、会社幹部はあらゆるツテを頼って復活運動を開始し、代議士、果ては時の海軍航空本部長山本五十六中将まで嘆願するが、結局この通達が翻されることはなかった。日本航空輸送株式会社は純然たる国策会社であり、逓信省の航空運輸行政方針を変えることはできなかったのである。

  その後、細々と遊覧飛行を続けていた日本海航空だが、日支事変勃発を契機に、城崎温泉客が少なくなるとともに遊覧客は激減し、会社存続は不可能となった。結果的には、保有する機材を日本航空輸送に引き取らせ、またパイロット、整備員も転籍することで決着を見た。機材引取りの代金はそのまま株主に返却され、ついには会社清算への道を辿った。昭和15123日、臨時株主総会が開催されて解散が決議された。直ちに清算に入り、同年1220日に清算事務を修了して、10年間の山陰地方における航空事業は消滅した。西村佐兵衛の夢はここに潰えたのである。なお、小規模航空会社でありながら、この間人身事故は一切起していないのは立派という他ない。10年間の飛行実績は以下のようになっている。

    総飛行時間     938時間34

   総飛行距離  136,434 km

   総乗客数       2,963

                                

参考文献 

「日本航空史」 財団法人日本航空協会刊

 「日本民間航空史話」  同

 「日本航空機辞典・上」モデルアート社刊

 「改訂 城崎物語」 神戸新聞但馬総局編             (2010/7/9)


参考

 2010年7月はじめに舞鶴港、舞鶴航空基地、城崎、但馬コウノトリ空港、鳥取空港、(出雲空港は疲れてパス)、萩、石見空港と回ってきました。

 

・ 但馬コウノトリ空港 1015 伊丹行き出発
              1655 但馬行き到着 この間6時間40分

・ 萩・石見空港    0920 東京行き出発
              1650 石見行き到着 この間7時間30分

 いずれも一日2便運航の空港です。それぞれ、運航時間に約7時間もの空白があ
ります。

 但馬は冬季は 1便となっていますから、この時期には、夕刻1735まで、つまり一般的感覚で言えば終日運航がありません。事業主体が誰なのか知りませんが、仕分けの厳しい当節、よくぞ生き残っていると拍手してやりたくなります。同時に、運航の時間間隔が空いていることを利用してユニークなことをやっているのですね。

 但馬ではスカイレジャージャパンが何度となく開催されていますし、エアロック健在の時には毎年の空港フェスティバルの華でした。そして、今回訪れて知ったのですが、ここでは常時スカイダイビングも行っているのですね。

 定期便の飛ぶ空港でのスカイダイビングは、多分ここだけではないでしょうか。訪問当日、スカイダイビング専用のセスナTU206F(JA3669)が飛び立っていきました。



 一方、萩・石見ですが、こちらは日本で唯一、陸連公認の、滑走路を走る空港
マラソンを開催しています。今年(10/17)で3回目と言いますから、ちょっと驚き。
確かに7時間半もの間飛行機が飛ばなければ十分可能なイベントです。

       


 ただ、定期空港はあくまで定期空港としての生き残りをかけなければならない
わけで、定期便を飛ばすこと以外のイベントが多いということは、それだけ本来
の機能を果たしていないことになり、考えものです。航空各社が厳しい状況に置
かれ、減便の相次ぐ中、この二つの空港の今後が気になります。