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図書室 掲載2009/02/19

九州における航空戦争記録 二冊

評 佐伯邦昭

  
 

 福岡県大刀洗飛行場と長崎県大村第21海軍航空廠は、九州における陸軍航空と海軍航空の重要拠点として大きな役割を果たしながら、それ故に米軍の猛爆撃を受けてほぼ壊滅状態となりました。

 その悲惨な状況もさることながら、そこで何が行われ地域にどのような影響を与えたかを語り継ごうという使命感があふれた冊子を紹介します。もとより、空襲で犠牲になった民間人と軍人に対する鎮魂を一つの目的とする編集ではありますが、その土地の人でなければ尋ねあてられない主要施設から疎開先の小さな工場にいたるまでの徹底した調査、残存する遺物の撮影、旧軍文書の発掘、証言や手記の収集等々、航空史における学術的価値が非常に高いものであるといえます。

@ 証言 大刀洗飛行場

 改訂増版発行    平成12年12月
 発      行    福岡県朝倉郡三輪町 (現 朝倉郡筑前町)
 体      裁    A4判52ページ
 価      格    記載なし
 目      次
    
 

A 楠のある道から 第21海軍航空廠の記録

 第2版  発行    2005年3月20日
 資料   協力    第21海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会
 発      行    活き活き大村推進会議 大村青年会議所
 体      裁    A4判79ページ
 定      価    1000円
 目      次
    

 目次を見てもらえば、おおよその内容がつかめると思いますので、重複しての紹介は避けます。歴史派・記録派ヒコーキマニアとして特に注目すべき記述をあげるのは困難であり、全編これ重要な歴史記録であるということだけ申しあげておきます。(唯、ひとつだけ、Aの18 タクトシステム 筆者渡部三郎氏(元富士重工業航空機工場長)の記述は、戦後の日本工業界に与えた影響という点で関係者必読の資料でしょう。注)

 両書に共通するのは、中央のプロ作家に頼らず、地域の人たちが行政の支援を得て精力的に編集をしていることです。きれいにまとめようとせず、在ることを在るがままに紙に載せているのが、とても大切なことだと思います。

 注) タクトシステム  前進作業システムと訳します。大村海軍航空廠で零式水上観測機の効率的な生産を行うに当って、フォードが有名なT型の生産で開発したベルトコンベアー式流れ作業に準じた方式が検討されました。

 しかし、航空機はベルトコンベアーで流すという訳にはいかないので、一つの工程の作業者に時間を割り当てて、その時間内に作業を完了し、次の工程の作業者に引渡して、再び元の行程に戻ることにします。その工程時間を実際に計測してみて、部品供給などを見直して適正な工程にしていくというものです。熟練工が多くを手掛け、養成工などが見よう見まねで作業をしていたような生産現場に動員学徒が大量に入ってきた時代に必然するシステム開発であったといえましょうか。

 現在は、コンピューターシステムで精度が飛躍的に向上しているというだけで航空機生産は基本的に同じだと思いますが、違うでしょうか。

 

両書の入手については、下記にお問い合わせください。

@ 証言 大刀洗飛行場
  筑前町役場 〒838-0298 福岡県朝倉郡筑前町篠隈373番地  TEL(代表)(0946)42-3111 


A 楠のある道から 第21海軍航空廠の記録
  大村青年会議所 大村市東本町2-1 TEL(代表)(0957)52-6391 


日替わりメモ090220

○  タクトシステムについて

 昨日の書評”第21海軍航空廠の記録”で注目したタクトシステムについて、早速かつお.さんからメールを頂きました。 

 第21海軍航航空廠末尾注のタクトシステムは、当時のニュース映画でその状況を見た記憶があり、戦後何かの本に載っていたことを思い出し、捜してみました。
 「1億人の昭和史」別冊【日本ニュース映画史】に、昭和15年6月〜20年11月までのニュース映画が集録されています。1ページに8コマと内容は非常に豊富であり、その中に「海軍航空廠」というキャプションでこの映画が紹介されています。工場雰囲気から民間工場(三菱?)かなとも思いますが、よくわかりません。
 映画を見た記憶では、次の工程への移動合図は高い台の上からの「突撃ラッパ」(ナマ吹奏)を合図に一斉に手押し移動するというもので、バックには「次の突撃は○時○分」と大書した表示板がありました。この「突撃」とは言うまでも無く次工程への「移動」のことです。
 ニュース映画通し番号は「第219号・昭和19年8月10日」と記載されています。

 かつおさん、ありがとうございました。ニュース映画に写されたこと、あるいは作業開始10分前に突撃ラッパが吹奏されて一斉前進したことが”第21海軍航空廠の記録”にも書いてあります。映画の場所は民間工場ではなく、大村の第21海軍航空廠そのものです。

 「1億人の昭和史」を見ますと、映画冒頭表題には艤装工場内を俯瞰した写真をバックに「多量生産 海軍省検閲第69号」とあり、次に「いま飛行機を沢山つくるやり方にタクトシステムがある 海軍航空廠の例では―」とナレーションが続き、少年少女達が流れ作業台上の零式水上観測機の胴体に翼やエンジンが取り付けていく各工程の全体俯瞰あるいはクローズアップが写されます。

 子ども達の服装は夏姿のようなので19年8月の公開のすぐ前に撮影されたものと思います。(第21海軍航空廠のタクトシステムの開始は18年10月15日)
 さすがに7.7ミリ機銃などは写っていませんが、観測機とはいえここまで詳細な工場内風景を海軍省がよく許可したものだ思います。新しい生産システムを見せて国民に自信をもたせると同時に、一億総動員を鼓舞する狙いでしょうか。恐らく海軍省自らのプロデュースでありましょう。

 しかし、このニュースがアメリカで徹底的に分析され、2か月半後の大村大空襲につながっているものと想像します。映画には写っていない流星艦爆、紫電改の艤装工場も逃げ遅れた少年少女達の多くの犠牲とともに空襲で消滅してしまいました。つらい歴史です。


日替わりメモ090302

○ 太刀洗と大刀洗

  図書室を見た方が、福岡県筑前町役場へ注文して「証言 大刀洗飛行場」を取り寄せました。その読後感は別にしまして、この方から「太刀洗とばかり思っていたのに、大刀洗飛行場となっている、何故か? 鉄道の駅名は太刀洗ではないか?」という疑問が寄せられました。

 そうです。太刀洗が正しいのです。一夜漬けの勉強ですが、九州の地で後醍醐天皇の南朝を奉じた菊池武光が血糊のついた太刀(タチ)を川で洗ったから、その川が太刀洗川となり、その地が太刀洗と称されるようになったのです。

 下って明治の市制町村制公布にあたり、太刀洗村の申請を官報が大刀洗村と誤記してしまったために、公にこれが定着したということです。村・町名も学校までも大刀洗で統一していますから、地元で育った人には何ら違和感がないのでしょう。「証言 大刀洗飛行場」に収められている当時の昭和18年発行の身分証明書も大刀洗陸軍飛行学校となっています。当然ながら陸軍も従ったのです。

 しかし、この方のように「太刀洗とばかり思っていた」大人は多いいと思います。戦前戦後の書籍でも多くは太刀洗飛行場です。恐らく常識の範囲で使ってしまった誤りでしょう。ただ、軽便鉄道(今の甘木鉄道)の駅名が本来の太刀洗を名乗っていますから、どうも話しがややこしいです。

 辞書ではタチは太刀であり、大刀ではありません。大をタと読ませる単語はなく、唯一の例外が大刀洗として存在しているに過ぎないのです。官報編集者はダイトーアライ村とでも思ったのでしょうか、明治のお役人にしては非常に珍しい誤謬だと思いますね。

 その昔、飲んだくれの鼻つまみ新聞記者が輪転機の前で寝そべっていて、刷り上ってきた1枚目を目にしたら大見出しに「天丼から出火」となっていた、彼はだまって活版のの中の点をナイフで削って再び眠り込んだという小説がありました。げに、点があるのとないとでは大違いというお話しまで。