市販品ではないので、一般に入手することはできませんが、千歳市役所のホームページhttp://www.city.chitose.hokkaido.jp/ から「教育と文化」→「文化財・歴史」を開くと全文を読むことができます。
よって、内容紹介は避け、個人的感想だけ述べておきます。
○ 世界一周機「ニッポン」千歳出発‥‥‥‥‥‥守屋憲治
千歳市の職員であり、ヒコーキマニアである守屋さんにとって地元千歳を出発地とした世界一周機「ニッポン」の研究は畢生(ひっせい)の仕事のようです。読み進むと、冷静な筆致ながらその思いがひしひしと伝わってきます。
既に、語りつくされている感のあるニッポンですが、出発地として偽装された根室と札幌の飛行場、そして熱狂的な見送りという新聞記事とは裏腹な少数の見送りで飛び立った千歳海軍航空隊飛行場のこと、更には北海道からノームへの飛行内容などに、証言者を探し当てては新しい事実を見つけているみたいです。
あとがきに、佐藤信貞通信士の「ニッポンに『号』を付けるのは間違いです」との言葉が印象に残る、と記していますが、なるほど、そう言われてみると、東日・大毎の計画発表の時から『世界一周機ニッポン』であり、例えば航空ファン2007年8月号が表紙見出しに「神風号とニッポン号」などとしているのは間違いなのですね。(神風も正式には号がつかない)
しかし、ニッポンと呼び捨てにするよりもニッポン号という方が言いやすいのは確かで、例えば昭和18年に陸軍航空本部仁村俊少将が著わした航空五十年史でも堂々とニッポン號の世界一周と書いています。別に大したことではありませんが、固有名詞表示のデリケートなところでしょう。
なお、ニッポン号(ああ、やっぱり号をつけてしまった)の吉田操縦士は、横須賀海軍航空隊でテストパイロット補助みたいな仕事をしていたときに山本五十六大佐に眼を掛けられ、ニッポン号乗員としては山本海軍次官直々のお声掛りで選抜され、席を東日新聞社に移して参加したものです。山本大将の訃報を聞いてからは、悲しみで1週間も寝込んでしまったと未亡人から聞きました。守屋さん、ご存知でしたか。
○ 米軍文書にみる空襲目標としての千歳‥‥‥及川琢英
米軍が残している数多くの資料解題で、北海道各地が米海軍艦載機の攻撃目標として、徹底的に調査されていた事実と、千歳への攻撃の状況を日本側資料から調べています。
結論は、米軍は戦争終了後に千歳飛行場を我が基地として使う意図があって、攻撃を避けたらしいという従来の説を踏襲するに留まっています。
後のち、このようなことを調査する人のための参考資料リストといった趣きです。
地域史編纂というのは、たいへんに地味な仕事ながら、人類の足跡を知る重要な手掛かりの一端を形成していくものです。
しかしながら、それを航空マニアの目から見ますと、ここ百年の日本において、文学部の教授を編集委員長とする地域史の中にまともな航空史が載った試しはありません。空襲の詳細は書いてあっても、飛行場の歴史などはさらっと触れてあるだけというのが殆どでしょう。彼らが航空を冷遇するのは、完全なる無知だし、軍事飛行場など史資料がほぼ焼却処分されている歴史などは、面倒くさくて触りたくないのが本音でしょう。
私は、千歳市史編纂事業に守屋憲治というヒコーキに詳しい幹部職員が加わっていることの意義をことのほか心強く思っております。
願わくは、自治体のヒコーキマニアの諸君、歴史の編纂事業が行われるようなら、進んで志願して、地域の航空史に光を当ててくれんことを。