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図書室94

掲載19/10/05

 

「国枝 実著 わが回想の飛行機  ドキュメント民間パイロットの50年」

 

発行 1975年9月30日

著者 国枝 実

発行所 朝日ソノラマ

初版価格 700円

 

 (10月現在 ヤフオクに
 500〜1700円で出品されてい
 ます)

 

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「わが回想の飛行機」 国枝実著を読んで              古谷眞之助

 

 著者の国枝氏は航空局第一期委託生として陸軍航空学校を卒業したのち、川崎飛行機テストパイロット、日本航空輸送、満州航空に勤務後、戦後は航空大学校教授、校長を務めた人物であり、我が国民間定期航空の草分け的存在と言っていいだろう。パイロットならではの興味深い視点で書かれており、佐伯さんからご寄贈いただいたこの本の感想を以下、アトランダムに書いてみたい。

 

・パイロットの適性について、「ある程度不十分の者でも環境と機会に恵まれれば、人によっては思いもよらぬ操縦技術の向上がある」と書いている。そして学生の頃は自らの成績は決して優れたものではなかったとも書いている。つまり、ご本人は環境と機会に恵まれて凄腕のパイロットになったと言っているようなものだ。これはけなしているのではなく、うらやましいことだが、実際にそうだったのだろうと思う。

 

・離陸時、高度50mでエンジンストップとなり、本能的に180度旋回を行って、横滑りしながらも高度5mで回復して無事着陸した経験があるそうだ。我々でも最も避けなければならない非常に危険な判断。基本はあくまでそのまま前方に着陸である。グライダーの場合、旋回して良いのは最低でも高度100m以上の場合で、その場合でも逆進入が当たり前だ。単独飛行後間もない時に、離陸後高度100mくらいで索が切れ、しかも逆進入ではなく、通常通り第3旋回に入り、第4旋回したら、翼が地上に接触しそうになったことがある。下で見ていた教官にこっぴどく怒られ、しばらく単独飛行禁止を申し渡された。明らかな判断ミスだった。

 

・国東半島の香々地の小さな入り江に不時着経験があると書いてある。グーグルで調べてみると、砂浜は長さ200m、入江は奥行き180mのほぼ四角形をしている。文章から推定飛行ルートを書いてみた。浜の真ん中に河口があり、それを越えて停止したとある。

   

 もう少しいけば広い海岸線があるのだが、この時は視界が効かず、一瞬見えてきたこの海岸に降りたようだ。

 

・満州航空時代、低翼単葉隼一型旅客機の速度試験の際、高度わずか30m3,000mを往復飛行して計測した、と書かれている。確かグリネマイヤーだったか、F104での低高度記録の計測の時に確かこのようなことをやったという記事を読んだ気がする。どうしてこうも低高度なのだろうか。

 

・一昔前の有名なグライダーに「リベレ」という機体がある。これがトンボを意味するドイツ語であることを今回初めて知った。ついでに言うと、モーターグライダーで名高い「ファルケ」はFalconだということも。

 

・氏が日本航空輸送のパイロットをしていた頃の主力機フォッカーF7b/3mの機内騒音の状況説明が興味深い。キャビンには綿を張って、その上に薄いレザーを張ってあるだけで、エンジン音がすさまじかった由。乗客にはセロハンで包んだ綿が配られたが、効き目は大してなく、例えば富士山が見事に見えてきた時には、機関士が、そのように書いたメモを乗客に回したそうである。

 

・太平洋横断機「タコマ号」は、最初霞ケ浦から離陸している。これは知らなかった。しかし、ここは長さ1,800mでガソリンを大量に積み込んだタコマ号には十分でなく、滑走路端でかろうじて離陸するや燃料放出。半周して着陸したのだそうだ。国枝氏は手に汗握る離陸の模様をちゃんと目撃している。

 

・昭和63月6日、国枝氏が操縦するフォッカーF7b/3m( J-BBYO )東京立川発大阪行きの機体から、失恋を嘆いた男性乗客が鈴鹿山脈上空で飛び降り自殺している。確か岩国上空で飛び降りた男性がいたが、こちらは我が国初の飛行機からの飛び降り自殺らしい。

 

・リンドバーク来日時、国枝氏は、@霞ケ浦から大阪木更津、A木更津から福岡名島、B名島から野母崎沖までを先導機のパイロットとして雁行飛行をしている。機体はスーパーユニバーサルで、速度差がかなりあったが、シリウス号は左斜め後方500mをずっと維持して飛んだと言う。そして野母崎から5kmの地点でシリウス号は国枝機に50mまで接近してローリングを打ち、リンディもアンも手を前後に振って別れを告げたと言う。

 

・フォッカーF7b/3m( J-BBYO )は自殺者が出た機体だが、この機体はのちに満州航空に移管される。「J-BIRD 写真と登録記号で見る戦前の日本民間航空機」によると、満州での登録記号はM501ないしはM502と推定されている。この同じ機体で国枝氏は、今度は仲間の機体の捜索に当たっている。しかし、遭難機は発見できず、何か因縁めいたものを感じる。

 

・氏はドイツ駐在経験もあり、政権を取った後にヒトラーが搭乗していたのがユンカースJU52。この機体の登録記号は、何とD-2600だった。皇紀2600年が1940年、ヒトラーが政権を奪取してこの機体に乗り始めたのが1935年頃らしいから、ヒトラーは5年前から三国同盟を予見していたのでは、と国枝氏は書いている。面白い偶然。因みに今年は皇紀で数えれば、2679年。

 

・氏は1920年5月18日にクラークGA43型旅客機の試験飛行の際、最後部左座席に搭乗していた。この機体は、着陸時に羽田飛行場の岸壁にひっかかって胴体が真っ二つに割れ、氏は機外に放り出され、搭乗していた9名のうちただ一人負傷した。原因は急激な下降流のためとされたようだが、氏は明らかに操縦ミスだったと書いている。「最も安全と考えていた最後部の私の席に座った位置が最も危ないところだった、なんたる運命の皮肉!」と氏は書いている。統計的には機体前部よりも機体後部の方が死亡率が低いとのことだが、この時は全く逆になってしまったわけである。つい最近の記事でも、わずかの差にしろ、後部座席の方が死亡率は低いようだ。

 

・満州航空時代のこと。昭和20819日、奉天北飛行場に皇帝溥儀の一行が満州航空の満航1型6人乗りで到着した。日本まで行くにはMC20型旅客機に乗り換える必要がある。そのため、しばらく待機していたら、北方7800mにソ連のイリューシン15戦闘機の大編隊がやってきて、見る間につぎつぎに着陸した。氏の目の前でソ連軍パイロットたちがなだれ込んで溥儀一行を拘束し、日本に向かうはずのMC20に乗せられてソ連領に飛び去った由。

 

・適性について。航空大学校で適性不良と判断された学生を退学処分にするシーンが出てくる。私の場合、航空大学校入学の第3次試験で「適性不良」の烙印を押されてしまったから、そういう悲劇には合わなかったが、合格した友人は就職時に航空大不況と重なり、一旦大学に入り直している。幸いその後若干名の募集があって、パイロット人生を送ったが、最後の最後、JALの経営不振で、不本意な早期退職を強いられている。人生どうなるか分からない。私自身、仮に合格していても途中でエリミネートに会っていたのではないかと思っている。冷静に自分の性格や技量を見極めると、やはりプロとしての適性はないと判断せざるを得ない。現在の適性検査は過去のデータ蓄積から精度が高く、エリミネート率も極端に低くなっていると言うから喜ばしいことだ。

自分はライセンス取得後も、周囲の仲間よりははるかに慎重かつ臆病に飛んできたが、それには、この操縦適性不良の烙印を押されたという事実が影響している。多くの仲間は航空大学校や自衛隊の航空学生を受験した経験がないから適性検査も受けていない。そのため、ライセンスを取れば、ついつい天狗になりがちとなる。しかし、もう30年近く飛んできても自分はやはり操縦が下手だと思っている。それだけに注意して飛ばねばならないといつも言い聞かせている。

 

                                以上 2019.10.4 記