2回の大恥と2回の大汗
“ HERONとは、ギリシャ時代に投石器や噴水を考案したり、アーチ式の建造物を作り、また数学や幾何学でも名を残した学者の名前である。”
こう書いても間違いではありませんが、デ・ハビランドDH-114の記事に出てきたら、マニアはアレッと思うに違いありません。デハビランドのヘロンならアオサギのことじゃないのか?
そうです。私がこともあろうに広島航空クラブニュース誌上に「デ・ハビランドDH-114-1Bヘロン」と題する研究発表の前書きの冒頭に書いてしまった大ミスです。
続けて“そういう先入観をもってヘロンという飛行機を見ると、そこはかとなくヘレニズム文明の中に生まれてきたような香りをただよわせているという奇妙な機体である。特に、頭部のカブトのようなアンテナドームが不思議なムードを放っている” とやっているのですから、みんな手をうって笑ったに違いありません。なにがヘレニズムや・・・ と。
もちろん、掲載誌の次の広島航空クラブニュースでお詫びして訂正しましたよ。
“えらそうに解説したが、デハビランド社の
ALBATROSS
FLAMINGOS
DOVE
HERON
と続く鳥のシリーズであった” と。
それで一件落着と思っていました。
ところが、私の後を継いだCONTRAIL編集者が、6年後にこともあろうに間違いの方の原文をそっくりそのまま再掲してしまったのです。
私は、またまたその次の号に訂正と釈明を書く羽目になりました。2回の大恥と2回の大汗です。ただ、
2回目には新しい事実などを補筆したので日本のヘロン全14機の消息がほぼ完全な記録になったというケガの功名みたいな副産物はありました。
名著の復刻というのは聞きますが、アオサギをギリシャの学者にしてしまうような間違いだらけの論文が復刻されるなどは前代未聞の出来事でしょう。恥をかかせるためにやったのか、中身を知らずにやったのかは聞きそびれています。
しかし、きちんと訂正記事を公表していますから、仮に、間違ったほうを引用する人がいたとしても、訂正記事を見落としたままでいる方
に責任があるでしょう。
出版社のミスの処理の仕方
(1) 新品を中古にしてしまう問題
航空史のなかでなかば神話化してしまっているものの中に、日ぺリ航空が中古のヘロンを使ったため不採算に泣いたという、さもありそうな話しがあります。
中古というからには、どこかで使われていて、くたびれた機体という意味が込められています。
日ぺリ航空のヘロンはそんな中古だったのでしょうか。
違います。
日本航空がデハビランドのコメットU購入と抱き合わせでヘロンを買わされたという裏話がありますが、これは真偽のほどはわかりません。しかし、コメットの契約は破棄
したものの、新品のヘロン3機はたしかに買い付けました。
ただし、買ってはみたもののローカル線への進出が認められないために、ダブだけでがんばっていた日ぺリ航空へそのまま貸し付け、やがて同社の救済のため現物出資(1億円相当)という形で譲渡しました。
ですから日ぺリ航空のヘロンは日航のお下がりではあっても新品でした。不採算というのは座席数の割りに運航経費や部品代が高くついたのであって、中古であるからというのはとんでもない話しです。
日航が購入し日ペリ航空(全日空)→日本遊覧航空(藤田航空)→東亜航空とかわってきたヘロンJA6153
撮影1963 佐伯邦昭
ダブ(日ぺリ航空と極東航空)についても同じように中古扱いをする人がいます。
恐らく、オール中古機のダグラスDC-3や他社のヘロンの印象で一緒くたにしてしまっているものと思います。
これらは、イカロス出版の日本の旅客機2000-2001から拾いましたが、文筆で生計を立てているらしい人たちが、よく犯している過ちです。しかも、雑誌の次号や単行本の改訂版でお詫びの言葉など見たためしがありません。
(2) 所属会社を間違える問題
次の表は、5年ほど前に日本におけるダグラスDC-3 1951年以降の歴史に関連して酣燈社へ質問し、全く無視されたため、少し腹をたてて公開した「別冊 航空情報 開港七十年「新・羽田空港」をデザインする
」の中の一部です。あきれるほど間違いが多いうちでも、殊に「極東航空 (現・日本エアシステム)」という記述
は到底許すことのできない失礼千万なミスです。
極東航空出身の青木英雄氏は、合併後の全日空で1997年まで副社長を勤めました。それがライバル会社の日本エアシステムとは! 青木氏をはじめ旧極東航空関係者はこの本を見て悔し
い思いをされたことでしょう。
4 専門家の監修を受けていない記述
対象 |
別冊 航空情報 開港七十年「新・羽田空港」をデザインする 2000年 酣燈社 |
P50
ダグラスDC-3 |
航空再開当時の北日本航空(現・日本エアシステム)と日ペリ航空(現・全日空)の主力機材として航空復興に活躍した。全日空は1959(昭和34)年から登録総数は18機を数え、航空局の飛行点検機「ちよだ」号は70(昭和45)年11月まで在籍していた。
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問題点 |
@ 北日本(2機)と日ペリの主力機材というなら、同じ時期に4機使っていた極東はどうなるのか。北日本の2機のDC-3を主力というなら6機のCV240は補助機材ということか。
A 日ペリは1955年からDC-3を使った。極東との合併で全日空になったのは1957年である。1959(昭和34)年からという表現は一体何を言わんとしているのだろう。
B 全日空の登録総数は15機だ。18機というのは日本のDC-3全機のことである。
C ちよだ号の飛行点検業務からの引退は1970年3月31日で、翌日からMU-2が就航した。確かに11月のまっ消登録まで在籍はしていたが、飛行点検機を語る表現としては適切ではない。
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参考:上記のほかこの雑誌が専門家の監修を受けていないとみた根拠を以下例示します 誤→正の順で書きます |
P10 |
1901年パリ万博
→ パリ万博は1900年。 |
P21 |
(羽田飛行場が)1952年11月接収解除となった
→ 1952年7月1日に接収解除されて日本に返還、同日東京国際空港として告示された。 |
P46 |
イリューシンI1-62
→ データの全幅と全長の数字が逆 |
P48 |
(コンベア240が)最盛期には11機が運行された
→ 最盛期には16機飛んでいたが? |
P56 |
極東航空(現・日本エアシステム)
→ 極東航空(現・全日空) これはひどいミスであり、旧極東関係者に
大変失礼である。 |
P57 |
(YS-11が)1965年5月から東亜航空で定期路線に初就航した
→ YS-11の初就航は1965年4月日本国内航空の東京〜徳島〜高知線であった。東亜航空での初就航は翌1966年5月だが? |
P58 |
(バイカウント828が)1962年7月から就航し
→ 1年前の1961年7月から東京〜札幌に就航している。 |
P58 |
(F27フレンドシップが)73年10月31日まで活躍した
→ F-27のラストフライトは1973年3月31日大村〜大阪線と記録されているので、その後で活躍することはなかったと思われるが? |
P73 |
(URL)ここに記述されたアドレスでは羽田航空宇宙科学館推進会議のホームページは絶対に開けない
。正しくはhttp://www.asahi-net.or.jp/~te7y-kbys/HASM/main.htm#main |
P114 |
HONDA Air Base
→
HANEDA Air Base |
P143 |
(羽田再拡張案の)A案(イメージ図参照)B案
→ 本書のどこを探してもA案B案のイメージ図は見当たらないが? |
(3) 開き直る狭量
上の一覧表を発表したら一航空ファンと名乗る方から抗議メールが来ました。中には、平木国夫著 日本ヒコーキ物語北海道篇の中のダグラスDC-3についてのやり取りで、平木氏の回答拒否に逢い、それに抗議をした問題
(注)についても触れてあります。
抗議文の一部
貴殿が某作家(注)の代わりをつとめられない以上、氏の執筆意欲をなくすような攻撃はやめてください。
また雑誌等にも批判を加えていますが、元々雑誌等は初級ー中級者を対象としたものであり、誤りがあるのは当然です。誤りを発見する知識については敬服しますが
、貴殿のような攻撃は貴殿以外の民間航空ファンにとって極めて不快・迷惑なものだということを分かってください。
雑誌別冊の発行にどのくらいの費用がかかっているか知っているのですか。
(注) 平木国夫氏の著作の中の北日本航空ダグラスDC-3についての疑問を手紙で問うたところ無視が続くので回答を催促したら電話で怒鳴りつけ
られ、おまけに某団体への加入申請を妨害されたりしました。よって抗議しました。攻撃ではありません。
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私は、これを読んで明らかに酣燈社の内部もしくはその関係者からのものだと直感し深く失望しました。関川、青木、藤田編集長らの良き伝統がどんどん失われて、もう狂いつつあったのですね。
・ 記事がおかしいから訂正をという読者からの通告を攻撃としか受け取れない狭量。
・ 作家や雑誌編集者の見事なまでの甘えとおごり。
・ 消費者にいいモノ(情報)を買っていただくという観念の欠如。
・ 雑誌読者を初級−中級者とする差別(蔑視)意識。
・ 誤りがあるのは当然、発行には金がかかるんだという開き直り。
反論するのもばかばかしいと思いながらも一応は私の考えを発表し、再意見を求めましたが、一航空ファン氏はまずいと思ったのでしょう、それっきりになっております。
(4) 伝統にあぐら
例えば広島県立図書館の月刊航空雑誌は航空情報のみです。聞いてみると1980年代から継続しているそうです。恐らく各地の図書館、自衛隊や企業の図書室の多くがその例に洩れないのでしょう。こういう施設は一旦決めると廃刊まで購入し続けます。
広告も同じです。営業担当は売れている限りは広告を付き合うでしょう。いくら見直しが奨励される現今でも、営業には雑誌の中身など大して関心事ではないからです。
広島市内のジュンク堂書店には、別冊 航空情報 開港七十年「新・羽田空港」をデザインするがまだ棚に並んでいます。出版は2000年であり、もちろん上記のミスが修正されてはおりません。ほんとうに悲しいです。
結局、酣燈社は、そういう内容には無関心な買手に支えられて間違った航空史の垂れ流しを続けているのです。
厳しさというか緊張感が欠けている見出しも紹介しておきましょう。
航空情報の3月号と4月号のカラー記事の中の見出しで
・ 疾 風 「第二次大戦における日本最高の戦闘機」
・ 紫電改 「第二次大戦におけるわが国最良の戦闘機」
とやっております。「日本最高」と「わが国最良」はどう違うのでしょうか。程度の低い国語力で読者をごまかそうとしているのですか?
また、96陸攻を「幻想の傑作機」、雷電を「世界に誇る傑作機」としておりますが、どうも類書が下している評価とは合っておりません。新しい見方をするのなら、本文で違いを明確にしてお
いてほしいですが、失礼ながらこの執筆者に大戦機を基本から見直す力があるとはとても思えません。
4月号のT-1B最終IRANの見出しには「荒鷲の育ての親」とあります。T-1が育ての「親」なんでしょうか? 航空自衛隊パイロットを荒鷲なんて日活の戦争映画じゃあるまいし、こんな時代錯誤な見出しをつけるから、本文で算数に合わない機数を書いてしまうのです。
(5)基本から出直せ
昔の雑誌にも問題はたくさんありました。あるマニア機関誌は「言いたかないけど」というページで雑誌記事のミスを衝いておりました。ヒコーキ初心者の私には、そうした欄を読むことで雑誌記事に盲従することなく知識の幅が広がったように思います。
「言いたかないけど」の執筆者はその後プロの編集者になりましたが、当時の雑誌の包容力を感じさせます。「私も航空情報に育てられた世代です」というメールをたくさんいただきますが、航空情報だけでなくいろいろな雑誌が
買ってもらうために必死で競争していたからこそ、健全な洞察力をもつマニアが成長したのだと思うのです。
さて、酣燈社は過則勿憚改(過ちはすなわち改たむるにはばかることなかれ)を実行していただきたい。1年分くらいの
出版を徹底的に見直して、ミスや奇妙な表現などを摘出して、正誤版を発行してもらいたい。その作業で新編集部員の知識能力は高まるし、何はともあれ、航空情報に育てられた世代が息をふっ返して一石二鳥ではないですか。
人間のすることですからミス=ゼロはあり得ません。
その発生を極力防ぐように努力するのが第一義であることは勿論ですが、不幸にしてミスってしまったらそれを訂正することの方がもっと大切です。しかも他人から指摘されて気がついたた事項については、謙虚に認めることによって作品の評価が定まるといっても過言ではありません。
そういう大らかさや懐の深さに欠ける航空人が絶えないのは残念なことです。
私は、広島航空クラブニュース第1号からインターネット航空雑誌ヒコーキ雲に至るまで、次の気持ちを念頭において編集してきました。そうでなければ人様に読んでいただけるモノヅクリの資格がないじゃありませんか。
・ ミスは防ごう
・ ミスを見つけたら素直に訂正しよう
・ 教えてくれた人には感謝しよう
論語 過則勿憚改
過ちはすなわち(ただちに)改たむるにはばかることなかれ
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