掲載06/03/16
雨よけの話し 専門家と称する方々のお仕事
掲載2006/03/16
(1) 逆傾斜は雨対策
航空歴史館の日本航空輸送と大日本航空の中島AT-2を見た或るマニアから次のメールを頂きました。
中島AT−2のカラー写真で思い出しました。漫画家のわちさんぺいさんが「シコメ」という漫画を描いています。これは人相になぞらえて飛行機の相をパロディにしたもので、ダグラスDC-2が「トド」で、中島AT-2を「シコメ」にしているのです。1981年発行の丸メカニック DC-3/零式輸送機 p74に出ています。(この本については覚えておいて下さい)
AT-2の操縦席前面ガラスが逆傾斜になっているので、おでこから眼窩が引っ込んで、機首はとんがり鼻の横顔になって、まるで醜い女のようだということでしょう。さんぺいさん今でもご存命なら訴えられるところですが、中には言い得て妙だと思う人も居るかもしれません。確かに、あの側面形にファンの心を捉えるような魅力があるかというと、私は疑問です。
うーん、難しい問題ですね。DC-2が「トド」というのも漫画家の感性によるものでしょうから、漫画社会でのお話しとしておきましょう。
外国機にも二三例はあるそうですが、逆傾斜の操縦席前面窓を採用した理由はなんでしょうか。そしてその効用は。
私は、具体的に解説した文献を持ちあわせないので、大日本航空パイロットの平松午郎さんの証言に頼りました。信憑性確認のためAT-2全体の感想から採録しておきます。聞き手は上甲昇さんです。
上甲 AT−2は従来の機体に比べてどんな感じでしたか。スタイルはいいし、高性能だし、
随分よかったでしょう。平松 小型ダグラスだというんでもっとスマートかと思ったんだが、現物を見たらずんぐり、む
っくりで余りいい格好ではなかったね。空中性能をよくするため機体を軽くしたこと、胴
体を短くしたのに垂直尾翼も小さい。その結果がグランドループにもなったんだね。
−中略− 離着陸となると神経を使い、不安がつきまとうという感じだったよ。上甲 他にも悪い点がありましたか。
平松 操縦席から前、頭が長すぎてじゃまっけなんだな。前方視界が悪い。ダグラスと比べ
てみ給え。あいつは地面が見えるんだよ。無用の長さだったな。上甲 AT独特の操縦席の窓の効用は? アメリカでは一時流行ったものでしたけれど。
平松 あの窓はよかったね。雨の時はよくはじくんだ。
(上甲昇著 日本航空輸送史・輸送機篇(T) p337〜338)
(写真は空と海社 昭和15年版日本軍用機史)結論を言えば、航空機にウインドワイパーが無かった時代の雨対策ですね。それが設計意図なのか結果論なのかは知りません。しかし、この逆傾斜が空力的に有利とも思えず、ここでは雨対策としておきま す。
中島航空機の明川清技師は、まさか後年わちさんぺいさんに戯画化されるなどとは、思ってもみなかったでしょう。
(2) 大戦前にはワイパーは無かった
さて、航空機にウインドワイパーが常備されるようになったのはいつ頃でしょうか。ダグラスDC-3でいえば、1935年に初飛行して、世界中のエアラインに普及していった頃のダグラスDST、DC-3の写真にはワイパーはありません。日本のDC-2とDC-3の輸入機・昭和製・中島製の民間機にも軍用機にも全く見えません。
米陸軍のごく初期のPilot Training Manual for the C-47にもワイパーに触れた図版も解説もありません。しかし、後期のマニュアルにはWINDSHIELD WIPER SYSTEMとしてページが割かれるようになっています。恐らく、大戦に入って全天候で使用しなければならない輸送機に必然のものとして、ワイパーとリペラント液噴出パイプが設けられるようになったものと思われます。
大戦後、大量の払下げC-47が民間に出回った時には、すでにワイパーとリペラント液噴出パイプが航空界の常識になったことはご存知のとおりです。
さて、丸メカニック DC-3/零式輸送機の本についてですが、野沢正さんの「日本の空を飛んだDC-3ファミリー」の中に基本的な間違いが5個所もあるのを除けば、丸メカニックらしい細部網羅の編集で参考になるところが多いです。
が、うっかり見逃してしまいがちな所で重大なミスがありました。それは、零式輸送機二二型という三面図の操縦席窓にウインドワイパーが付いていることなのです。
全日空の機長だった森和人さんが、零式輸送機のタキシングでは窓から顔を出してずぶぬれになりながら操縦していたのに、敗戦後C-47にワイパーがあるのを見て非常に驚いたという有名なお話を聞くまでもなく、零式輸送機二二型にそんなものは付いていなかったのです。
その図面についてのやり取りは、かなり前にこのホームページで発表しているので省きますが、作図者からは、未だにノーコメントであり、光人社の雑誌か何かで訂正したという話しも聞きません。
相変わらず精力的に図面を発表しておられますので、その方の影響力は相当なものだと思います。もちろん、丸メカニックも、マニアの間では一定の評価を得ている古書です。
(3) 開発経緯の真相
もう一度中島AT-2に戻ります。
中島航空機が設計した中で唯一の民間航空機であるAT-2について、大方の書籍では日本航空輸送向けに開発されたような印象を受けます。日本航空輸送と大日本航空で20数機が鹿島などの神社の名前をつけられ、主力機として飛んでいますので、そう受け取られがちです。
しかし、事実は違います。満洲航空の要請によって開発されました。
1931(昭和6)年満洲事変をを起こした関東軍は、広大な満洲を支配するための手段として南満洲鉄道の拡充とともに満洲航空を設立し、フォッカー スーパーユニバーサル機による航空路を拓いていきましたが、巡航速度150q/hではあまりにも時間が掛かりすぎるため、300q/hを出せる純国産機を大量に投入する計画を立てました。
その頃、中島航空機ではダグラスDC-2の国産化を準備中であり、何故それで間に合わせようとしなかったのかというと、満洲帝国建国に向けて意気あがる関東軍内の空気の中で、満洲航空の児玉常雄社長(陸軍大佐)が飛行連隊や逓信省航空局で働いた経験から、純国産機によって国威発揚を図ろうとした からではないかと思われます。
また、満洲航空路の計算上、DC-2の14人乗りでは大きすぎるので、8人乗りにしたとも言われています。
児玉社長は、1934(昭和9)年にかねて親交のあった中島知久平社長にこれを依頼し、中島航空機は明川清技師を主務者として、設計を開始しました。その設計や1号機の製作については、日本民間航空史話に詳しいので省略しますが、1号機が満洲航空のために作られ、航空局による検査完了後、1936(昭和11)年9月26日群馬県尾島飛行場から奉天へ飛んでいることは注目に値します。その登録記号はM-201、ニックネームは国光でした。
結局、満航は1938(昭和13)年5月までに1次ロット6機、その後2次ロット6機を受領します。そして日本航空輸送へ引渡しは1937(昭和12)年5月から始まりました。
航空歴史館3-01の写真や絵葉書などからも、AT-2は日本航空輸送と大日本航空機が主体のように見られがちですが、実際には、満洲大陸を飛ぶ純国産機として開発された事実を忘れてはなりません。
更に大きな事実も掘り起こしておきましょう。
満洲からゴビ砂漠を経由して独逸との空路を開拓し、試験的には成功一歩手前まで行ったときの使用機が、この中島AT-2でした。残念ながら日中戦争発生で空路は実現はしませんでした。
しかし、ダグラスDCシリーズが、広大なアメリカ大陸の横断飛行を夢見て開発されたように、日本において、アジア大陸とヨーロッパ大陸を結ぶ高速旅客機の開発が行われたことは記憶されるべきことです。
それが、たとえ軍事目的に特化した意図であっても、事実は事実です。零戦の開発となんら異なるところがないのに、この方面を手がけようとする人がいないのを残念に思います。
シコメから始まって、ワイパーの話し、満航の話しと発展しました。漫画は別次元のこととして、ワイパーにしろ、AT-2の開発にしろ既に広まってしまっている常識のあいまいさ、そのようなことについてプロ作家のご意見を伺いたいものです。