2008年4月14日(月曜日) マイカーの行程1
(1) 広島市南区の自宅出発 途中で停車を命じられる
広島市南区の自宅から呉道路(広島大橋 200円 クレアライン 700円 音戸大橋 無料)経由で約1時間後には、倉橋島へ着きます。
この島は、北半分が呉市音戸町、南半分が同倉橋町です。快晴の空の下、所々に1分散りくらいの桜の花を愛でながら窓を開けて音戸から倉橋へ向かう海岸を爽快にドライブしていると、警察官が棒を振ってこっちへ入れと指示します。
嫌なもんですなあ。酒は飲んでいないし、スピードは出していないし、シートベルトはちゃんとしているし、何がひっ掛かるのか分からない。
「はい、ここで止めてください。」 ポリスメンとは違う服装の男が寄ってきて
「済みません。国土交通省の者ですが、春の交通安全運動の期間中で、機器の検査をさ
せていただきます。」
「ライトをつけてください。」「はい、いいです」
「方向指示のレバーを倒してください。右、左」「はい、いいです」
「ありがとうございました。正常でした。暇があったらこのパンフレットを読んでください。」
その間、警察官は横で見ているだけ。
道路特定財源があるのかないのか知りませんが、交通量も少ない島の道路でよくやるよー、とは口には出しませんでしたけどね。花見気分がそがれたことだけは確かです。
(2) 呉市音戸町の舛田定則さんを訪問
このたびの倉橋行きの目的は、音戸町の明徳同友会が米空軍勇士之碑の前で慰霊祭を行ったという4月6日付中国新聞呉版記事を読んで、そこを訪ねることでした。
音戸町藤脇(ふじのわき)の明徳同友会会長舛田定則さん宅にお伺いしたところ、快く碑の場所まで案内に立っていただきました。
(舛田定則さんに関する関連記事 http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ihen/1-2.html)
(3) 米空軍勇士之碑 (
正式には米海軍TBMアベンジャー搭乗兵士の碑)
図の島がくびれたところを国道487号が横断し、音戸
町と倉橋町を分けており、米空軍勇士之碑はその倉橋側の丸子山という小高い山の8合目あたりに建っています。国道のそばに明徳同友会が立てた表示があり、そこの階段を上って、猪が掘り返している山道を行くこと10分くらいで碑のある場所に到着します。
ご覧のように、丸石を積み上げた上に想像していたよりはるかに立派な台座と十字架が立っています。台座の裏に設置者古川嘉蔵さんの名入りの由来が彫ってありますが、既に
風化していますので、その一部判読と舛田さんのお話しを総合すると、建立の経緯はほぼ次の通りです。
1
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1945(昭和20)年7月24日、土佐沖に集結した米空母から発艦した艦載機が呉地区に停泊中の艦艇を空襲した。(28日まで、呉沖海戦と呼ばれている) |
2
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米軍機1機が墜落してきた。搭乗員2名が脱出したが、1名は落下傘が開かずに死亡し、1名は捕虜になった。 |
3
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機体は音戸町藤脇の民家に墜落した。
脱出できなかった1名は機体と運命を共にし、下半身しか残っていなかったと言われる。 |
4
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死体をどう処理したのかは不明で、この碑の下に埋葬されたという言い伝えもあるが定かではない。 |
5
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占領中は何も語られなかったが、対日講和条約が締結された後、藤脇地区長の故古川嘉蔵さんが墓碑を建立した。 |
6
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長く忘れられていたが、後世に語り継ぐために、数年前から明徳同友会の手で整備し慰霊祭も行っている。 |
以上のような次第です。呉沖海戦との関連を上の図面にまとめてみました。
日本の艦艇は呉から江田島、能美島、倉橋島にかけての海面に隠れるように分散停泊していたみたいです。
1945年7月24日の米第38機動部隊艦載機の来襲は870機に及び、停泊中の艦艇は大打撃を受け、更に28日の艦載機950機及びB29・B24約110機の攻撃によりほぼ壊滅状態になりました。
記録によれば第38機動部隊艦載の戦闘・攻撃機は、グラマンF6Fヘルキャット、チャンスボートF4Uコルセア、カーチスSB2Cヘルダイバー、グラマン(ジェネラルモータース)TBMアベンジャーの4種類でした。
「搭乗員2名が脱出したが、1名は落下傘が開かずに死亡し、1名は捕虜になった。パイロットは機体と運命を共にした」との言い伝えからすると、墜落機は3人乗りの飛行機です。従ってTBMアベンジャーと断定することができます。
墓碑にある「米空軍勇士」というのは本来は米海軍勇士としなければなりませんが、戦後の地域的な情報不足の中では、島の名士といえども精一杯の表現であったと思いましょう。十字架にしたのも単純にアメリカ人はキリスト教徒であるという思いからではないでしょうか‥。
なお、落下傘降下で助かった1人の兵士は呉の海軍刑務所に連行されました。呉戦災を記録する会がホームページに掲載している米軍資料「呉海軍刑務所に収監された米飛行士 一覧(二) 」に次の記録があります。日付と墜落地点からみて、この兵士の公算が大です。
収監飛行士氏名 |
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ルーサー・H・ジョンソン |
階級資格 |
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パイロット |
所属母艦 |
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ベニントン |
隊 名
|
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TBM
三座機 |
報告No |
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不明 7/ 24
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撃墜状況 |
対空砲火 |
AA
日向 |
月 日 |
7/ 24
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場 所 |
音戸町 |
海軍刑務所入出 |
入 獄 |
8/4 |
出 所 |
8/ 17
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解 放 |
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8/ 17 大船送り |
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碑を背にして墓地から真西を見下ろしますと、およそ700メートル先に釣士田港の堤防が見えます。
アベンジャーはその根元あたりに墜落したということです。墓地には、もう1基日本陸軍兵士の慰霊碑があり、それらを囲むように桜の木が植えられて、ちょうど地面が散り始めた花びらで薄い絨毯になっています。
のどかな、のどかな春の瀬戸内なのに、ここで物凄い爆音と砲撃音が響きわたって、悲しい犠牲が多発したことなど信じられない気持で山を降りたのでした。 |
(4) 余録 江田島市の墜落機 その1 空振り
さて、お参りと取材を終えての帰り道で、舛田さんが「江田島にも似たようなものがありますよ。早瀬大橋を渡って西へ行って、大原という集落へ行けば誰でも知っている。」と情報をくれまして、もちろん、まだ午後3時で陽は高いし、直ちにそこへ行くこととを決断しました。午後3時というのは、音戸町の町内放送が♪ うさぎ追いしかの山 ♪と女性歌手の歌を時報として流したからです。朝7時には、地元の名曲♪音戸の舟歌♪だそうです。 納得。
トップに掲げた行程図のように音戸大橋と早瀬大橋によって三つの島が陸続きになり離島振興法の適用はありません。たしかに利便性は増しました。
早瀬大橋を西へ渡ると能美島(のうみじま)です。教えられた道をはるばる飛ばして江田島市大柿町(旧佐伯郡大柿町)大原深江地区へ入り、地元の人を捕まえては聞くのですが、もう異句同音に「さあ、昔飛行機が墜落したと聞いたことはあるが、
それ以上のことは知らない」との答え。公民館へ行ってみなさいというので、大柿公民館へ。
大柿公民館の職員さんも「知りませんね」と気の毒げな対応になりかけていたら、図書室で新聞の束を広げていた土地の古老然とした風体(ふうてい)の人が聞きつけて、「飛行機の墜落なら知っている」と思いがけない展開になったのです。
古老と言ったって髭や身なりがそうなのであって、年を聞くと私よりかなり若い人です。国民学校2年か3年の戦争末期の年に日本軍の飛行機が郷土訪問飛行をやり、大原地区の上を低空飛行していて樹木に衝突し墜落死したというのです。
搭乗者は、A家の長男さんで優秀な子どもだったそうです。そこから類推して、予科練出身で松山か岩国の航空隊にいて特攻出撃を前にして郷里に別れを告げにきたのかなと
、勝手に想像してみました。
その時は、大切な飛行機を無駄にしたというので不名誉なこととされ、土地の人の記憶以外には大柿町史をはじめとして記録は全くないそうです。そのうち忘れ去られてしまうでしょうが、不肖の息子を出して肩身の狭い暮らしをしてきたA家にとってそれでいいのかもしれません。
しゃべり相手に不足していたくだんの古老は、話しが飛躍してきて、能美島の大君という地名は、屋島を追われた安徳天皇と平家一門が下関へ行く前に逗留した土地だから「大君」という名になった、関門海峡で死んだのは天皇のダミーであり、大君に「平塩」など「平」のつく姓が多いのは平家一門が本物の安徳天皇を守って住みついたのだ‥‥ と延々と続き始めましたので、いい加減に打ち切ってもらいました。こういう暇人に毎日相手をしなければならない公民館職員も大変です
。。。。。。。
というわけで、大柿町大原での米軍機墜落情報は空振りに終わりました。
(5) 余録 軍艦大淀戦没者之碑
大柿公民館から広島へ帰るのに来た道ではなく、久しぶりに能美島北端からフェリーで本土へ渡ろうと考えて、行程図のとおり北にハンドルを切りました。
海自第一術科学校のある江田島湾の最奥部の交差点で直進すれば江田島へ、左へ曲がれば能美島です。左へ曲がってしばらく走ったら道路脇にちらっと慰霊碑云々という標識が見え、またもや好奇心
がもたげてきました。
このあたりは飛渡瀬(ひとのせ)という地名です。もともと能美島と江田島は離れていたのですが、次第に土砂が堆積し、飛び石を置いてみたら通れるようになったので飛渡瀬となりました。しかし、本来の水深は深かったと思います。というのは、すぐ近くに8千トン級の巡洋艦大淀が停泊していたからです。
慰霊碑は、その軍艦大淀戦没者之碑でした。1945年7月24日と28日に艦載機や爆撃機の執拗な攻撃を受けて横転沈没したその海を正面に見る地点です。
大淀は、高速水上偵察機の紫雲を搭載する母艦として計画され、大型のカタパルトを備えた新鋭の巡洋艦でしたが、紫雲は実用化に至らず、格納庫を司令部に改装して連合艦隊旗艦になったりなどの右往左往を経験して、最後は重油不足で江田島湾飛渡瀬に留め置かれたのだそうです。
攻撃型の艦でないため、魚雷を搭載していませんが、防空用の65口径(砲身の長さ6.5メートル)の高角砲を備えており、直径10センチの砲弾を飛行機に向かって発射することができました。あるいは、音戸に墜落したアベンジャーに当
てていたのかもしれませんが、この新鋭高角砲が実際に威力を発揮したのかどうかは分かりません。いずれにしろ自由に呉近海を飛び回る米軍機の量的勢力には抗すべくもなかったと想像されます。悲しい歴史です。
敷地内に展示してある大淀の模型
枯れる前にポトンと落ちてしまう椿の
花がつらい
(6) 余録 江田島市の墜落機 その2 曽根薫市長さん
江田島市は、二島にあった旧江田島町、能美町、沖美町及び大柿町が2004年11月に合併して広島県内15番目の市となりました。その市役所は、旧江田島町役場を使っているものと思っていたら、北上するカーナビに旧能美町役場の位置に市役所の表示が現れました。行程図参照
市長の曽根薫さんは、その昔仕事で付き合ったこともあり、テレビニュースで何かと苦労している彼の姿を見ていたので、ちょっと寄ってみようという気になりました。忙しければ名刺だけと思い、裏に少し激励の言葉をしるして秘書広報課をたずねました。
意外にも、どうぞお入りくださいと市長室に案内され、コーヒーまで出して頂いて、昔の思い出や、初代市長としての抱負や苦労など歓談のひと時を過ごしました。4町合併は、合併に至るまでも合併後も各地域入り乱れての現実論と理想論が錯綜して取りまとめるのは容易なことではないと、私のささやかな経験からも察しがつきます。しかし、曽根さんが目標とする「自然との共生・都市との交流による海生交流都市」に向かって着実に進みつつあるなというのは、島内の集落を走っていて感じていま
した。
世界的ブランドの江田島海軍兵学校(幹部候補生学校 第1術科学校)の町として、観光や若い生徒諸君との交流 基地(海自第31航空群標的機整備隊 米軍切串弾薬庫)の町としての財源などを活用しての発展性もあります。そんなことを
聞いて、帰り際には曽根さんが「これを是非」と渡してくれましたのが、五省の色紙です。
内容は知る人ぞ知るでしょうから説明はしません。
就寝前に必ず今日一日の行動を反省した海軍兵学校の生徒、いや、現在の生徒も実行しているそうですが、かくいう俺様はどうか?
「〜なかりしか?」と問われてすべてに「済みません ありました」と答えなければならない自分がつらいところです。
なお、数日後、市長から直筆のお手紙を頂き、江田島町史には「昭和20年3月19日 グラマン機 初めて江田島に来襲」とあるだけで詳しくは記載されていない」とのことでした。戦争は遠くになりにけりだと思います。米軍機が落ちたのか、友軍機も落ちたのか、そのお墓はあるのかなんて探し回るのは一部のモノ好キのすることです。
曽根市長さん、いろいろとありがとうございました。墜落機のことは航空史家にお任せください。
(7) 帰宅
長距離を走る車乗りにとって、フェリーボートというものはありがたいですね。
上陸してからの運転があるのでビールを飲めないのが残念ですが、あのスピード出しすぎや前方注意などの気苦労がありません。
能美島三高港から広島市の宇品港フェリー桟橋まで1900円払って、40分弱ほど景色を見ながらの船旅です。写真は、鏡のごとき広島湾を進む芸備商船Star号から撮りました。向こうは出港してきた三高の町です。
まさに ♪瀬戸は
日暮れて 夕波 小波‥ の世界でしょう。この穏やかな空間において、飛行機や高射砲や高角砲のすざましい戦闘が行われていたとは想像するのも難しい平和な風景です。
願わくは、二度と勇士之碑などが建てられることがないように心から祈念しながら、宇品港へ上陸し、雑踏の広島市内を走って約500キロメートルに及ぶドライブを終えたのであります。
完
日替わりメモ421番 2008/04/21から転記
○ 墜落米空軍勇士の碑
呉の軍艦を攻撃中に墜落した米海軍機搭乗員のお墓があるという程度のことは、航空史全体から見れば1行も書かれない片隅の出来事かもしれません。
しかし、瀬戸内海の小さな漁村にとっては、アメリカの飛行機が落ちてきたことそのものが大事件であり、落下傘降下した米兵(1人は生存、1人は死亡)の探索と操縦士の死体が残る残骸と壊れた家屋の始末をさせられた経験は衝撃以外のなにものでもなかったでしょう。
地区の区長さんが慰霊碑を建立したのは1952年対日講和条約が発効してから後ということですが、恐らくなんとかしなければという気持ちをずっと持ち続けていながらどうしていいか分からなかったのが、米国との国交回復を機縁として具体化に至ったものと想像されます。
地域住民にとっては、語り継ぐべき大きな戦中戦後史です。史家が片隅の出来事として無視してはいけないと思うのです。それは戦史の面からも言えます。
1945(昭和20)年7月24日に土佐沖から飛び立った艦載機の大群が呉近海に停泊している日本艦艇を襲いました。これを「呉沖海戦」と称しているのは、アマチュア史家だけです。大和が撃沈された戦記を「海戦」とは言わないように、一方的にやられっぱなしの場合は「海戦」と呼ばないようです。でも、飛んできたのは航空母艦から発進した飛行機であり、対する各艦の砲員は死ぬまで対空砲を撃ち続けたに相違ありません。町家では軍艦からの砲音で窓ガラスが割れたという言い伝えが残っています。だから、やはり「海戦」なのです。
第38機動部隊の呉攻撃に関する記録は、米側資料に頼っていますが、もっと日本側の現地を含めて解明されなければならないことがあるように思われます。 毎日新聞一億人の昭和史
日本海軍史の年表 「7・24 アメリカ軍機動部隊が呉大空襲 残存艦艇ほとんど喪失」 もちろん「呉沖海戦」の文字はありません。伊藤政徳著「連合艦隊の最後」には7月24日のことは全く書いてありません。マリアナ沖海戦で連合艦隊旗艦を務めた大淀をはじめ伊勢、日向、榛名、龍鳳、葛城などもやられているのにです。
別に「呉沖海戦」を正史に加えろと叫ぶつもりはありませんが、もっと光をあててもいいのかなと片田舎の十字架型の墓碑を取材していて感じた次第です。(もし、公刊書の中に「呉沖海戦」としてとりあげているものがありましたら、お知らせください)
日替わりメモ422番 2008/04/22から転記
○ 421番関連 続 墜落米空軍勇士の碑
「地区の区長さんが慰霊碑を建立したのは1952年対日講和条約が発効してから後」と書きましたが、その前に木の墓標があったという情報をいただきました。
墜落米空軍勇士の碑の同じ敷地内に写真のように実に立派な陸軍兵士(藤脇地区長古川さんのご子息)の慰霊碑が建っています。占領中はこのようなことをしたら犯罪人扱いにもなりかねない世相でしたから、これも対日講和条約が発効後の建立でしょう。
ストーリーとして、日本が独立国となった暁に、古川さんが誰憚(はばか)ることなくご子息の碑を建立し、併せて同じ敷地内の米軍兵士の木造りを石造りに作り変えたのだと考えれば、なんとなく理解できるような気がします。 |
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或る方から「日本人を何百万人も殺した敵国の“下手人”に対して「勇士」と言うのは日本人的な過度のヒューマニズムではないか」という感想を頂戴しました。鋭い指摘です。ただ、戦い済んで陽が暮れてしまえば、お互い異国の地に非業の死を遂げた戦士ではないかというお気持ちになられたのかもしれないし、もはや確かめようもありません。違和感は消えませんが。 |
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