この記事は、2011年に会報(県立広島工業高校電気科55期生による機関誌)へ寄稿してくれたものです。
昭和50年代の操縦士免許取得の状況が手に取るように分かりますので、彼にヒコーキ雲への掲載を要求したのですが、しばらく待ってくれといわれたまま、死を迎えてしまいました。航空界特有の人間関係の狭さがあって、妬みなど起きるのを避けたかったのだと思いますが、そんあことを一片も危惧する必要のない名回想記であります。
2019/07/07 五五会永久幹事 佐伯邦昭
航空免許取得の奮闘記 山田盛雄
長年の夢を追って
同窓生の諸君なら、よく理解していただけると思うが、大空を飛行機に乗って、自由自在に駆け巡りたいというのが、私にとって幼い頃からの夢だった。
その長年の夢を追っかけ、民間パイロット免許の取得を目指してアメリカに渡ったのは、1982
(昭和57) 年9月下旬。私が49歳の時である。
それまでは仕事が多忙を極めていて、会社を創設したことも重なり、航空免許について考える余地はまったくなかった。
しかしながら、この種の免許を取るには体力的に限界というものがある。40歳台に取得しなければ、永久に夢は実現しないだろうとふと気付いた。
とりあえず、東京郊外の調布飛行場内に在ったパイロット訓練教室に入った。そこでは3ヶ月間、土日曜も含めて週に2回、航空基礎講座を受講した。かたわら、航空に関する様々の情報、知識を仕入れることができた。その流れで、耳寄りな情報を得た。
日本において民間パイロット免許を取得するには半年以上を要し、費用は少なくとも合計500万円くらいかかるとされているけれども、アメリカではその三分の一以下で済む。往復の旅費、現地での滞在費を加算しても半分の費用で収められる。現地での研修期間は40〜50日とみてよい。教習内容は濃密であり、アメリカの免許は日本の免許に容易に切替えできるので、この方法がいちばん得策であるという。当時の外国為替相場が1ドル270円に固定化されていた頃の話である。この話を聞いて、私はためらいなしにアメリカへ行くことを決心した。早速に2ヶ年計画での準備にとりかかった。
厳しいハードル
実現するまで、幾つかのハードルをクリアーしなければならない。まず周囲の同意を得る必要があったが、案の定、身内の者は全員が私のアメリカ行きに猛反対し、財務大臣≠フ妻は「そのような危険度の高いお遊び≠フために使う費用の予算は我が家の会計帳簿には計上されていません」と間髪入れず釘を刺す始末であった。
実はこの件について、親友の戸田清三君にも意見を求めた。彼は「キミのことだから反対したって、行く気だろう」とシニカルに苦笑しながら消極的な賛意を示した。
重要な問題点は、会社の代表者が1ヶ月半も不在するとなると、業務に支障が起きるのではないかという心配。いまで言う経営危機管理≠フ観点から捉えればとんでもない行為であろう。「やはり諦めるべきか。または万難を排しても実行すべきか」と大いに悩んだ。
それに、頭の痛い問題はこの費用をどうやって手当てするかということだった。これまで蓄えはほとんど会社の資金繰りに注ぎ込んでいたので手元にはまとまったものがない。ゴルフの回数を減らし、毎月ヘソクリして積み立てても2年間では多寡が知れている。いろいろ思案した挙句、ダメモトで会社近くの三井銀行京橋支店を訪ね、融資係りの責任者にアメリカ行きについて有りのままを説明して、200万円の個人借入れを申し込んだところ、2日後に電話がかかってきて、「OKの審査が出ました。ご希望通りの金額でお貸ししましょう。3年間月割り返済で結構です」との快諾を得た。100%希望通りの金額で、低利息、無担保の信用貸しという好条件である。当時バブル景気が始まる頃だったとは言え、現在ではとても考えられない三井銀行の理解力と鷹揚さには却ってびっくりさせられた。いまなお不思議な想いとともに、深く感謝している。これによって、アメリカ行きが決定的になった。
3つ目は、語学の問題である。英語の図書、雑誌などの文献類は、仕事上慣れ親しんでおり、目で読むうえでは何とか理解できるけれども、会話となると、おぼつかない。過去に何回か英会話スクールに入ってレッスンを受けたことがあったが、いまひとつ自信が持てない。これでは管制塔との交信に支障を生ずる。いまのうちにブラッシアップしておこうと本気で英会話のレッスン、特にヒヤリングに打ち込むことにした。
4つ目の問題点は、航空無線交信テクニック。飛行機の操縦は単に操縦桿の操作だけではない。管制塔との交信、飛行機同士の交信が重要な役割を果たす。左手で操縦桿を握り、右手でマイクを握り、前方遠く窓越しに見ながら、絶えず窓下計器パネルの高度計、方位計、油圧計など一連の計器類をチェックしなければならない。自動車ではハンドルは両手で持てと教わったが、飛行機では片手で操縦桿を持てと指導される。その間、両足はペダルに置いて前後、足首は上下に動かさねばならない。まるで精神分裂症のような同時動作を要請される。しかも、轟音と激しい振動の中での操縦であり、気流によっては機体が突如20〜30メートルくらい落下することもよくある。三次元の世界のメカニズムは二次元の世界のそれとは格段の違いがある。
この2ヶ年の準備期間に少しでも無線交信操作に慣れておこうという狙いで、アマチュア無線を有効活用することにした。国家試験を受けてその資格をとり、私設無線局(コールサインJN1-OFZ)を自宅に開設するとともに愛車にも無線機を搭載して走行しながら積極的に同好者と交信した。自動車は、オートマチック・クラッチはあえて避け、マニュアルにした。運転しながら四方八方に目を配り、他の無線局と交信するのは、大変な神経を使うが、慣れてしまえば割合スムーズにでき、コックピットの中にいるような気分になる。実際に、この時の経験が後のフライト訓練の折に役立った。
こうして2ヵ年の準備期間はあっと言う間に過ぎた。この間、1981年4月にスペースシャトルの打上げが成功し、1982年2月には羽田沖に日航機が墜落するといった出来事があった。
コロナ空港にて
私が選んだ航空教習所は、ロサンゼルスから東に200kmほど離れたカリフォルニア州コロナ市(Corona
City)のコロナ空港の一角に在った。コロナ市は西部≠フ雰囲気が残されている人口15万人の端正な田舎街であり、ロスのベッドタウンにもなっている。
その教習所は、日本からパイロット志望の若い学生たちを送り込んで、教習・養成することをビジネスにしており、日本人の青年経営者がコロナ空港所属の民間航空訓練所から建物の一室、練習機、教官などを借りて運営している。言わば、航空分野専門の旅行代理店≠フようなベンチュアー企業であった。
練習機は、2人乗りCessna152型が7〜10機、このほか4人乗りのCessna182型が2機常駐されていた。
生徒の数は、曜日によってマチマチで、少なくて5〜6人、多い時には50人以上も集まり、平均して20〜30人。そのうち日本人は5名から10名に及ぶ。そのほとんどが20歳代の若者で、ゆくゆくは小型機やヘリコプターのプロ・パイロットを目指しており、なかには半年、1年も現地に滞在して腕を研いている者も居た。私のように趣味・余技として航空免許を取得しようとしているのは、日本人の中では一人も見当たらなかった。
教官はアメリカ人3名、ドイツ人1名、ヒスパニック系1名、日本人3名、合わせて8名。このうち日本人教官のひとりは元ブルーインパルスの隊員だった。ブルーインパルスは、航空自衛隊の中で最も優れた飛行士たちによって編成されているアクロバット・チームであり、その選ばれた飛行士は多くの航空パイロット仲間たちにとって憧れと尊敬の的である。
ちなみに、アメリカ人のひとりは、この航空教習所のオーナーであり、戦時中ドレスデンやケルン爆撃に加わった体験を持つ元空軍兵士であり、ドイツ人教官はメッサーシュミット戦闘機に乗っていた航空兵の生き残りである。
授業は原則として午前2時間、午後3時間、教官と生徒のマンツーマンの形で進められた。人によって研修の出発点、習得レベルが違うからである。会話はすべて英語で通し、英語以外の言語は空港内では禁止された。日本人の専任教官が決まり、私が羽田―ホノルル―ロス経由で深夜に辿り着いた翌朝には授業が開始された。時差ボケの話どころではなかった。いきなり、練習機Cessna152型に乗り、タッチ・アンド・ゴー(Touch
& Go)の見習い操縦を体験することとなった。
タッチ・アンド・ゴーとは、飛行機を発進させて、上昇し、半周旋回して元の発進した地点に着陸し、滑走路を走って、再び離陸上昇するという繰り返し行為のことであり、初心者にとって操縦技能を身につけるための基本となる。なかでも、最も難しいのは着陸(Landing)である。フラップ(Flap、補助翼)を出して両翼を一杯に拡げ、進入角度と方位を保ちながら、Cessna152の場合、速度を時速80q前後に落として降下し、地上との高さが5〜6mくらいになったところで素早く操縦桿を引いて機首を持ち上げ、一種の失速状態をつくる。ソフト・ランディング(Soft
Landing、滑らかな着地)を演じるには、そのような一発勝負の操作が必要となるが、そのタイミングをつかむのが非常に難しく、結局連日のタッチ・アンド・ゴー練習の積み重ねによって、肌で覚えるほかはない。着陸の最終段階においてどの時点で操縦桿を引けばよいのかは自分の直感で決まる。早過ぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。勘で判断するのである。
初の単独飛行
技能訓練にはいろいろな科目がある。なかでも重視されている訓練の1つが、失速(Stall)への対応である。失速には離陸失速(Departure
Stall)、着陸失速(Landing Stall)、バンク失速(Bank
Stall)、燃料切れ失速(Engine Stopped Stall)、気流失速(Air
Stream Stall)などいろいろなパターンがあり、或る意味では、飛行訓練は失速が生じた場合にどう対応するかについての訓練であると言える。例えば、離陸時にはプロペラの回転数を規定水準まで上げないで発進させると、失速の原因になるし、また必要以上に上げ過ぎてもいけない。バンクとは、空中で旋回する時の機体の傾斜角度のことを意味するが、この角度が通常の30度では1Gだが、60度以上になると2G以上の重力がかかり、パイロットの脳内の血液が偏析を起こし、判断力を失う恐れがある。
私がこのコロナ教習所に滞在したのは1982年9月30日から11月3日までの34日間であったが、この期間の前半は主としてタッチ・アンド・ゴーとストール対応の基礎訓練に終始し、後半は野外飛行(Cross
Country Flight)、夜間飛行(Night Flight)の訓練を受けた。前半の2週間は、生活環境の変化に順応できなかったこともあり、心身ともに疲労困憊して、ベッドに寝ていて、天井がぐるぐる回転する幻覚にとらわれたほどであったが、3週目に入った頃
からそうした幻覚は消え失せ、減退していた食欲も
回復してきた。後半の初単独飛行、クロスカントリー、
それに夜間飛行は私にとってまるで修学旅行のような楽しい、最も充実した訓練であった。
練習機のCessna152 2人乗り単発 コロナ空港にて
野外飛行は、コロナ空港から300〜600kmくらい離れた別の空港へフライトするもので、それまでに修得した全ての技能と知識を駆使することが求められる。機上で航空地図を拡げ、航法計算尺を使って偏流角、実航跡、対地速度、風向、風速などを計算し、その数値が地図のチェック・ポイントとぴったり符号したときの醍醐味は何とも表現し難い。初めての野外飛行はサンジェゴ空港が到着地だったが、上空からとらえた幾何学模様のこの街の美しい海岸線はいまなお私の眼に焼き付いている。
同様に、クロスカントリーを兼ねた夜間飛行は本当に素晴らしかった。滑走路には誘導灯が付いているので支障はないにしても、それ以外の空間は暗くて、昼間とは距離感がまるで違う。計器を頼りにして、絶えず現在位置を確認しながら航行しなければならない。加えて、いろんな飛行機、ヘリコプターが往来しているので、ニアミスしないよう左右前方に厳重な注意を払う必要がある。文字どおり緊張の連続であったが、その代わり、二度と経験することはないと思われる景色に遭遇することができた。
現代アートの巨大な光のオブジェ≠ェ暗闇の底から浮び上がっていた。高度1,000mから観たこのロスアンゼルス市街の夜景は生涯忘れることはない。この時には、ロス国際空港の進入禁止区域に触れない範囲で市街地上空を何回も旋回して夜景を楽しみ、中心市街地から少し離れた場所にあるディズニーランドにも空から訪問した。
フライトにはいろいろの形態があるが、なかでも最も印象的な感動を伴ったのが、初めての単独飛行(Solo
Flight)である。助手席に同乗した教官の指示に従って操縦する場合と一人で飛行する場合とでは、精神状態がまったく異なる。三次元の空間の世界の中では何ひとつのミスも許されない。初めての単独飛行では離陸して滑走路の距離を半周して着陸するだけのことであるが、このほんのわずかな時間にもいろんな想いが募り、緊張は極限に達する。それだけに、無事に成功した時の充実感と喜びは喩えようもない。私の場合、初の単独飛行を行ったのは同年10月21日。訓練を始めてからの飛行時間が19時間の時点であった。
アメリカの民間航空パイロット免許証。カード式筆記試験
アメリカで自家用飛行機操縦士免許(Private
Pilot Certificate)を取得するには、少なくとも3つの試験に合格しなければならない。実技試験のほかに、筆記試験、医学検査が加わる。日本の場合、さらに無線従事者試験を必要とする。
筆記試験の科目は航空概論、航空工学、航空気象、航空法規、航法、操縦術、無線交信、航空医学、緊急時対策など文字どおり多岐にわたっており、この試験にパスしないとフライト操縦試験を受けられない。
教習所に入って2週間が経過した10月半ば、ロス近郊に在る米国運輸省連邦航空局(FAA)の試験会場に行って、自家用パイロットの筆記テストを受けた。連邦航空局はこの種の試験を、毎週定期的に曜日を決めて実施しており、この日の試験は陸上単発飛行機(シングル・エンジン)の部門が対象だった。ところが、集まった受験生は私を含めてわずか4名。しかも、そのうちの1人は試験が始まって直ぐに放棄、もう1人も30分足らずで答案用紙を提出せずに退席したので、最後まで残ったのは20歳代の白人と私の2人だけであった。
試験はマークシート式で100問あり、1問ごとに4つずつの回答文が記述されていて、その中から正しい文を1つ選んで○印しの穴を埋めるという方式である。持ち時間はたっぷり6時間と設定されていた。お陰で、書き終えた解答を何回も精査することができた。
後日、明らかになった試験結果は87点であった。合格ラインが70点であるからまずまずの出来と言えるかも知れないが、自分では満点に近いと想定していただけに、90点を切ったことには合点がいかなかった。よく調べたところ、試験問題は一見やさしそうに見えるけれども、巧みな落とし穴が随所にあり、その穴に足をとられたケースが少なくなかった。市販されている過去の試験問題集を丸暗記しただけで、正しい知識をしっかり身に付けていなかったことが原因であった。
操縦技能試験
宿願の実技試験は11月3日に行われた。幾つかのハードルをクリアーして来てようやく最終段階に入った。9月30日の初フライトからちょうど1ヶ月、飛行訓練時間が延べ69時間の時点であった。
試験官は連邦航空局(FAA)から委任されたアメリカ人教官が担当した。試験項目としてタッチ・アンド・ゴー、急旋回(傾斜角60度の旋回)、各種失速からの回復飛行、計器飛行などについてのスキル(腕前)がチェックされ、最後に突如、イグニッション・キー(エンジンのスイッチ)を切られてしまった。「エンジンを停止したまま、着陸せよ」との指示である。訓練飛行中にエンジンを切ったことは1回もなかったが、この時、奇妙に私は落ち着いていた。「グライダーと同じように風をとらえればよい」と判断した。できるだけゆっくり、機体に風を感じながら操作して旋回し、高度を下げ、滑走路の中心線にふんわりと着地することができた。この間、15分くらいだろうか。不思議な時間と空間の中に私は存在した。
「ベリー・グッド」と、それまで指示の言葉以外は一言も喋らなかった無口な教官が褒めてくれた。実技試験の合格を確信した瞬間でもあった。
身体チェック
身体検査も、飛行操縦資格を得るうえでの重要事項であり、それだけに指定医師よって念入りにチェックされる。特に脳波、心電図、動体視力の検査が厳しく、どれ1つ異常があっても航空身体検査証明書≠ヘ貰えず、飛行機には乗れない。
日本では、航空パイロットの免許は永久ライセンスであるが、民間用の航空身体検査証明書の有効期限が1ヵ年、業務用のプロ・パイロットの場合はさらに短く半年なので、フライトを楽しむには何よりも健康体を維持しておかねばならない。ついでながら、この検査には健康保険が適用できない。多額の出費を覚悟しておく必要がある。
調布を基地にフライト
1982年11月3日付け発行のアメリカの正式な航空免許(Private
Pilot Certificate)が日本に送られてきたのは、翌83年の1月下旬のことである。それまでは暫定的に発行された仮免許(Temporary
Airman Certificate)を使用していた。
早速に、運輸省(いまの国土交通省)に赴き、アメリカ免許から日本免許への切り替え申請を行い、同年2月23日付けで長年の課題であった航空パイロット免許「自家用操縦士技能証明書」(陸上単発飛行機)をようやく手の中に収めることができた。
この年は免許を取ったばかりのルーキーであり、できるだけ初期のうちに操縦の腕を研いておきたいという意図から2月から5月までの4ヵ月間というもの、調布空港を基地にして小型機によるフライトに専念した。
行き先は日によってまちまちであり、北は松本空港、桶川飛行場、東は竜ヶ崎飛行場、南は大島空港、三宅島空港、八丈島空港、西は駿河湾一帯を目指した。横須賀に入港している空母エンタープライズを空から観るために飛んだことがあれば、飛行機にアマチュア無線機を積んで、QSO交信サービス(空中と地上との交信が成立したことを証明するカードの発行)を行った。2回ほど家内と小学生の息子2人を乗せて、飛んだこともある。1回目は飛行時間が短かったためそれほどでもなかったが、2回目の時、中央区の上空から房総半島に出て、九十九里海岸に沿って北上し、左旋回して霞ヶ浦を抜け、竜ヶ崎飛行場に到着するというコースのクロスカントリーを行ったところ、晴天に係わらず気流と風力の変化が激しくて機体が上下左右に揺れ、家族3人が飛行酔いをしてしまい、帰りのフライトは外の景色を観るどころではなかった。以来、3人とも、いくら誘っても小型機に乗るのは頑として拒否した。
パイパーPA-32で関東一円の飛行を楽しんだ。1983/05 調布飛行場にて。
片翼オーナーに
ちょうどその頃、日本航空協会が音頭をとって開催したパイロット仲間の懇親パーティの席上で、上智大学工学部教授のS氏からこのような呼びかけがあった。
「私が面倒を見ているE社という中堅の化学薬品会社がある。その会社が小型飛行機を持っているのだが、経費がかさむので、何人かの出資による均等シェア方式に改めたいと言っている。そのパートナーの一人になってはくれないか。」
興味の湧く話である。早速に、S教授と同伴でE社を訪ね、K担当重役と会って詳細な説明を聞いた。
飛行機は米国パイパー社製のチェロキー・シックスE(Cherokee
Six E)PA-32-300であり、中古機ではあるが、機体の性能に何ら遜色ない。当面の費用は2,000万円かかるが、5人のメンバーが300万円ずつ出資すれば1,500万円集まり、残りの500万円はE化学薬品会社の社名ロゴを機体に画くことにより、宣伝料として補填するという。
渡りに舟≠ニはこの事で、願ってもない提案に私は即座に賛同して、1週間後には出資金を振込み、シェア・オーナーになった。このPA-32-300機の片翼くらいは私のものであると思うと機体への愛着がより深まった。加えて、魅力的だったのはこの飛行機が調布空港での駐機既得権を持っていたことである。
現在、広島市街の川岸の例でもそうであるが、湘南海岸ではヨット、モータボートなどの普及とともに係留場所の不足が深刻になっており、その対策に頭を悩ましている。飛行機も同じで、新しく機体を購入したとしても、駐機場所探しに苦労する。都心からの交通が便利な調布では新たに駐機スペースを確保できる余地がまったくない。可能性のある場所は桶川、竜ヶ崎、大利根、阿見などの各飛行場であるが、いずれも交通の便が非常に悪い。それにひきかえ、自宅から渋滞が無ければ20分で到着できる調布は私にとって大きな利点であった。
ところが、この共同所有システムは結果として巧く機能しなかった。フライトの希望日時が集中して、自分の好きな時に利用できないケースが多く、維持費の負担と割合をどうするか言う難題がともなった。会計収支報告が不明朗であるとか、会社の宣伝の道具にされたのではないかといった批判も起きた。結局、この共有方式は早々と解散し、E社の同族で処理されることとなった。
日本とアメリカの違い
日本で飛行機を保有するには費用負担が非常に大きい。中古のセスナ級小型機の場合、機体そのものの価格は500万円から5,000万円まで文字どおりピンキリであるが、仮にいちばん安価な500万円前後の中古小型機を購入するとしても、年におよそ駐機費が150万円、機体保険が150万円、耐空検査料が150万円、無線検査30万円、消耗部品交換100万円、その他50万円かかり、このほか飛行1,000時間点検100万円、飛行50/100時間点検30万円がそれぞれ加わる。年間600万円くらいの維持費用がかかる。しかも燃料費(ガソリン、オイル)は別である。
日本においてフライトを楽しむのは、あまりにも制約が多すぎる。大いに羽ばたきたいのであれば、アメリカに限る。機体の購入価格は日本の3分の1以下であるし、メンテナンス費用もそれほどかからない。駐機場所の確保も容易である。カリフォルニア州だけでもタワー空港(管制塔のある空港)が53ヵ所、タワー無し空港が193ヵ所、合計246ヵ所もあり、このほか私的空港、軍用空港を加えると相当の数になる。これらの飛行場のネットワークを利用し、自動車と同じような感覚で自家用飛行機を乗り回している。ほとんど市販価値のなくなったポンコツの中古機を集めてきて、使えそうな部品を取り出し、修復して別の機体に仕上げる再生利用が進んでいる。かれらはエンジンを聞いただけで直ぐにどこに故障があるのか直ぐに見つけてしまう。日常生活に密着した、飛行機についての知識と技術が豊富なのである。
私がアメリカで航空免許を取得した頃の外国為替相場は1ドル270円に固定化されていた。その時代でも200万円くらい出せば中古小型機を買うことができた。いまは1ドル75円を中心に上下しており、円は当時と比べて3〜4倍高くなっている。アメリカでのフライトはそれだけ有利な状況にある。
そして、何よりも素晴らしいのは、この大陸の方々で雄大な自然の風景に接することができる。私自身は、神が創造したグランドキャニオンの峡谷を空から迫って見たいと、いまなお、心を奔らせているが、いろんな事情があって実現には到っていない。その1つの理由は、パーキンソン病という病魔にとりつかれてしまったからである。