Blue1さんが当ヒコーキ雲に掲載している戸塚自動車学校に展示のセスナについて訪問し
持ち主である中丸さんに出会いお聞きした内容などをまとめてくれました。(編)
戸塚自動車学校に展示のセスナ150Hの写真取材では、その一週間前に
ヘリパイロットを引退されたばかりの中丸定昭氏との出会いがあった。
それから一か月後再訪し、改めて半世紀に近いヘリ人生と、それにまつわる
四方山の一部をお聞きした。
※スタートのA3716-1 戸塚自動車学校からお読み下さい。
★プロローグ 2020年7月1日10時〜
開口一番『私はヘリ一筋でしたから、他の飛行機の事は知りませんよ』と笑いながら仰るのは、「泉区の雲じぃじ」を自称される中丸氏(昭和19年11月のお生まれ)。 5/29に訪問の際は立ち話でしたが、二度目の今回は一時間を頂いての訪問でした。
再訪の目的は前回お聴き出来なかったセスナ150Hの設置までの経緯、そして45年間のヘリ人生についてでした。 見せて頂いたLOGBOOKと写真、そしてお話を基にヘリ人生を辿ってみたい。
★ヘリ人生、約半世紀
切掛けは1970年に遡る。自社の自動車学校の航空写真の撮影の為チャーター・ヘリに同乗され、一遍でその魅力に嵌ったそうだ。 大空への止み難い誘惑に取り憑かれ、社長であられた父上に支援の相談をされました。 その後押しになった言葉が運営会社「東京エアーライン」の専務からの、「自転車に乗れれば、誰でも乗れる」の一言。 家業の自動車教習とを絡ませ、父上を説得されたやもしれません。 しかも「ウン」と云わせなければならぬ高い壁がありました。
“操縦は自転車より簡単でも、教習費用は驚くほど高かった”からだ。 当時の自社での普通車の教習料金は500円/30分であった。 これに対し固定翼機は8,000円/時と8倍。 更に回転翼機は28,000円/時と更に高額だった。思わず当時の初任給を思い出す。
★1971年3月15日(満26歳) 〜訓練開始〜
説得が功を奏し、翌年のこの日から訓練が始まった。 LOGBOOKにあるスタート時から1975年までの転記内容には、約四年間のフライト回数は248回、総飛行時間は90時間。 月平均5回強、一回の平均時間は約22分と算出できる。
新たなLOGBOOKの記載には一回の飛行時間は10分程度が多いが、スタート時期は一時間の訓練であったと想像出来る。 使用した機材は東京エアーラインの所有するHU269B型やC型だった。
ほぼ毎週末の土曜が訓練日、そして毎週末飛行は45年間続くことになる。 中丸氏にとって幸いだったのは訓練場所が同じ戸塚区内、今は無い「横浜ドリームランド」のヘリポートであったこと。 そして東京エアーラインでは観光事業の他、空中撮影などへの空輸があり、これに同乗を許され訓練の一助となったことです。 教習料金が半額であったことも幸いした。LOGBOOKには富士吉田や富士五湖の名を見出せます。 熱海と向かいの初島のヘリポートとの往復なども度々あり、航法の経験を重ねた。
★1974年4月(満29歳) 〜「自家用操縦士技能証明書」を取得〜
恵まれた条件と努力の結果、訓練を開始してから三年後のことだった。 文字にするとたった二行だが、自分だけの空が大きく一歩近づいた瞬間だった。
★1990年の2月(満45歳) 〜オーナーパイロット〜
念願の自家用ヘリは、乗り慣れたヒューズ269型を購入した。 登録bヘJA7791、登録証明書には形式は「ヒューズ式269C型」、製造者は「シュワイザー」(1983年にシュワイザー社が製造権を買収)、登録番号は「S1439」とある。
因みに機体両サイドのドア下部パネルには「300C」と表記されている。 輸入された機体は「舘林大西飛行場」で組み立てられ、自らの操縦で横浜に空輸された。
ライセンス取得からオーナーパイロットに至るまでの間には、教習仲間とのヘリの共同運用などのもう一つ展開があったそうです。 更なる物語が二ページ程書けそうです。 今回はショートカットし一気に1990年に飛びました。
※当時の記念的写真は文末にて紹介します。
★エピソード 〜お聴き出来た分だけご披露〜
1) 空からの記録を残す。
空撮から始まった空を舞う楽しみは、我が町の空撮とその記録づくりへと発展する。
その成果はタウンニュース(泉区版)の空撮写真のコーナー「空から見てみよう」に登場す る。 第一回は2013年の7月に始まり、260数回を数えたと聞く。 写真は掲載に留まらず、撮影した施設等へ定期的に提供され大変喜ばれたと伺いました。
再訪当日には我が町JR戸塚駅周辺の2007年に始まる十年間の記録写真の大判を多数頂戴した。 私の住む戸塚区にはこの「泉区版」の配布はなく、また私も17年間単身赴任でこの地を離れていた。 今日に至るまで知らなかったことが悔やまれる。
撮影者は無論中丸氏ではなく友人のカメラマンだった。 二人が気を合わせての撮影の
為に、デジカメ登場前は三台のブロニーカメラを使用。そのためベントタイプの小窓をスラ
イドタイプに改め、左右のドアガラス交換を行った。
小窓イラスト参照
なお、ヘリでは通常機長が右座席となるが、ヒューズ機ではピッチレバーがシートの左側にあるために機長席は左側にある。 その結果邪魔無くなりC型からは三座席を可能としている。
2) 訓練当時の遊覧飛行事情
千葉にTDLが出来る前のドリームランドは一大観光地だった。 その当時の遊覧飛行は二機のヘリの前に長蛇の列が出来る程盛況だったと云う。 飛行時間はたったの三分間。 「えっ短い」と聞き返すと、「タキシングも滑走もないから、実飛行時間の三分間で満足出来たのです」とのこと。 実に効率的な商売だった訳だと得心がいく。
3) 有鉛のアブガス
「アブガス(AvGas)は高価ですね」の話題から、多量に添加された四エチル鉛の話になり、「点検でプラグを外すと鉛の焼付きの量が凄く清掃が大変だったよ」とのこと。 元油屋でもあった私には1975年当時の自動車の無鉛化対策の記憶が重なった。
4) へりを見上げて、地上での追突事故
定置場/飛行場外離着陸場の場所は戸塚自動車学校から西に直線で2km強、車で五分強の環状4号線沿いの生花店の裏地にあります。 定期の訓練飛行を終え県道に出るとパトカーが停車中。 聞くとヘリを見て追突事故があり処理中との返事。 幸い中丸氏へのお咎めは無かったようです。
5) ELT/航空機用救命無線機の装備義務
写真の風防越しに見える黄色いBOXを指し、「ELTです」。 最初何のことやらと勉強不足を悔やんだ次第。 耐空証明、管理維持も含め自動車とは比較にならぬ位にお金のかかる趣味と感じ入った次第。
6) 航空地図は不要、「道路地図」で事足りる。
以前、海自八戸航空基地の見学で、ハンガー内のUH-60Jの機内に市販の道路地図を発見し驚いたことがあった。 その事を話すと「然り」と即答。 ヘリの航法は眼下の主幹道路であると。
因みに中丸氏の300C機には、市販のカーナビを取り付けてある。 初めて見る方は専用の航空ナビと思うらしくカーナビと聴くと驚くという。 因みに電源はアダプターを介しシガーソケットに差込むのですが、振動で緩む都度押し込んだと苦笑いの体でした。
★2020年5月24日(満75歳) 〜ラストフライト〜
この日にせざるを得なかった背景があったらしい。 ニッと笑いながら、「翌日の25日は耐
空身体検査(二種)の期限の最終日でした」とおっしゃる中丸氏。 当日は晴れであることを予測しての決断だったらしい。 引退の理由については先のレポートA3716-1に紹介のタウンニュースに記載されていますので割愛いたします。
※当日の最終フライトの記録を示すLOGBOOKの記載は下記の通り。
最終日は、泉区の定置場を09:55に飛び立ち、RJTI(東京ヘリポート)に10:25の到着のフライトとなった。 同乗者は二人のお孫さんだったようだ。 前々日の40分間に及ぶフライトは何処を飛んだのか、何時の日にかお聴きしたい。
当日の30分を加え総飛行時間は約1,860時間。総飛行回数の記載は確認できなかったが、月4回としてもざっくり45年間の月間飛行時間は3.4時間。 ヘリのオーナーパイロットの飛行時間との比較は私には出来かねるが、1回の飛行時間の長さは重要ではない。
中丸さんの評価は、淡々と回数と時間を積み重ねたことに意義があると思えます。
※写真は定置場を飛び立ち、最後のホバリングするJA7791機。
愛機との新旧のツーショットはご本人のアルバムの編集を尊重し、購入当時の1990年と、本年2020年5月17日での姿を対比させました。 愛機とご本人共に磨きが掛かったお姿を拝見出来ました。 機体外見の変化は前述の左右のドアガラスの変更、そして300Cの文字が見えるドア下部のパネルは、整備上常時外されているとの事でした。
1990年、最初の瀬谷(区)定置場にて
2020年泉(区)定置場にて
今年75歳になられた中丸氏のヘリパイロット歴45年間、“離陸回数と着陸回数は同じであること”の原則を護れた背景、それは毎週末の短時間の訓練飛行による技量の維持と、機体の維持管理を続けられ事に意義があると思えます。
製品に品質があるように、技量と機体の品質維持と向上に努められた事に心から敬意を表します。 「フライトで一番気持ちの良い高度は」と伺うと、「1,500から2,000ftあたりかなぁ」とのお答えでした。
★オマケとなってしまった、セスナ150H (JA3418)の設置経緯の報告。
・時期については明確な記憶はないとの事。 本機の用廃時期と国土地理院航空地図での
確認により、1995年8月から1997年6月の間においての設置と思われます。
・本機は当時竜ケ崎飛行場にあり此処から移設した。 主翼を分解した同飛行場の整備士が同行し、トラックで搬送し組み立てを行った。 完成を祝い整備士の方をお誘いし深夜まで痛飲。 翌日彼を労い大島まで遊覧飛行を行ったが二日酔いで散々だったと笑っておられた。
(考察)下郷リストの履歴では最後の所有者は中澤愛一郎氏で、大利根飛行場を定置場
とし
1995/8/22抹消登録とある。 竜ケ崎に移動後の1995/8/20に廃棄となった
可能性がある。
・昨年の台風19号では、台座から2〜30p機体がずれたと云う。 タイヤのパンクが係留装置を緩めた可能性がある。 前回撮影の現況写真、本誌でおなじみのイガテック氏から頂いた脚部のパーツカタログ図と二三のアドバイス、そして本誌で紹介の「所沢市A3326-15・某氏宅庭園・セスナ150L」での係留写真を参考にお渡ししました。幸い本校には整備関係の技術者も居られ、自社での軽微な補修が可能と思われた次第です。 安心して今年の台風を迎えられそうです。
★エピローグ 〜定置場/場外離着陸場、LOGBOOK の出発到着地の“泉”〜
お会いした翌日、泉区の定置場を確認しに車を走らせた。 伺った住所「横浜市泉区上飯田町3904」を目指す。 目印は「ヤマダ電機」。 道路に面した生花店「ベルフラワー花市場」の裏にあるために一度見過ごしたが、一回りして辿り着いた。 グーグルアースで確認した通りの風景だった。
無論既に機体は東ヘリに駐機されている。 本誌ではGoogleアースやストリートビューでの画像は紹介できないので、上記の住所で検索すると、機体が視認できます。 中丸氏ご本人も認められていますが、地元や一部の方にしか認知されていませんので、防犯・保安上も最適な場所であったと理解できます。 ストリートビューでは特注の緑色の機体カバーとローターの保持を確認できます。 危険物であるアブガスの当然保管はせず、給油は東ヘリで行われていました。
ここを定置場とする過程においては興味深いお話も聞けましたが、ご苦労されたのはこの地は厚木基地の管制圏にあるためでした。 基地司令の理解もあり場外ではあるが、厚木タワーの許可を得てのフライトが可能となったそうです。 因みに定置場の許可期限は一か月間であったが、三か月間に変更になり少し楽にはなったそうだ。 今後その煩雑な事務処理から解放された筈なのに、少し寂し気に感じたのは私の思い過ごしか・・・・。
定置場跡 夢の跡・・・・。 右側は生花店、奥にヤマダ電機横浜泉店が見える。
現在、機体は東ヘリにて次の持ち主を待っている。 中丸氏は航空身体検査を再度更新すれば、飛行は可能である。 それは「耐空証明書」の期限は本年11月13日までであるからだ。
しかし、中丸氏のコンパスのヘッディングと新たな愛機は既に決まっています。 引退飛行後の5月27日に購入した小型ユンボが新たな相方です。 引退後の技量と五感の維持はこのユンボの操縦に委ねられました。
五月の取材から始まり本稿のチェックも含め四度の訪問を快く応じて頂きました。
貴重な資料や許認可書、写真の撮影、楽しいお話を頂けたことに厚くお礼申し上げます。
中丸氏のご健康とますますの弥栄をお祈りします。
2020/7/15
Blue1