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航空人生録・論文 掲載22/07/16



雫石事故から51年 当時の思い出 小林 実(Blue1)


 

紹介 イガテック

 小林 実さんから 雫石事故 2年後の基地訪問で感じたことやその後について文章仕立てで投稿を頂きました。
 原文のまま紹介します。


雫石事故から51年 当時の思い出


小林 実 (Blue1)


(少し長くなりますが・・・・)

 1971年(S46年)の7月は松島基地にとって変動の幕開けの月であり、その舞台でもありました。 
 7月1日(木)に第1航空団松島派遣隊が編成されました。 使用する機体は廃止となった第4航空団第5飛行隊の機材が承継され、あの黄と黒の市松4空マークが誕生しました。

 しかし一か月を越さず同月の30日(金)、「全日空機雫石衝突事故」が発生しました。
 当時私はK石油に入社三年目のまだヒヨコで勤務地は郷里の青森市の出先でした。
 夕方盛岡市の同社の出先に勤務で同期のS君から突然の電話がその第一報でした。 取引先の雫石農協の現地スタンドからの情報で、パラシュート降下の目撃等の生々しい内容だったと聞きました。

  そしてあれから、51年の歳月が経ちました。。

 あの事故から二年目の1973年の5月12日(土)、私は郷里のプラモクラブAPMC会長M氏の誘いを受けて、転勤地の仙台市内から仙石線で矢本駅に降り、出迎えを受け早い時間にゲートを通りました。
 土曜の為なのかエプロンには4空のハチロクやサンサンの機影は一機もなく、救難隊のバートル(04-4814)とメンター(71-0418)が救難訓練の準備中でした。

 撮影1973/05/12 小林実  KV-107II 04-4814  KV107II掲載ページ リンク
 

 撮影1973/05/12 小林実  T-34A 71-0418  T-34A掲載ページ リンク

 折しも当日は「安全調査団(と私の記録にはあるが正式名称かは不明)」の査察が入っており緊張の最中にありました。
 ガランとしたエプロンにはご一行が乗ってきた桜花マークのワイエス(62-1154)と、“当事者”でもある1空のサンサン(81-5387)の二機が駐機中でした。

撮影1973/05/12 小林実  YS-11 62-1154  YS-11掲載ページ リンク   隊列を組みワイエスに近づく基地隊員達
 

 撮影1973/05/12 小林実  T-33A 81-5387  T-33A掲載ページ リンク 
 奥に整列の基地隊員は、この後ワイエスへ移動します。 機体キャノピー後席部のサイドにあるプレートは、空将若しくは空将補が座 乗する際の赤色地に桜花の標識に見えなくもない。

   査察後11時に離陸するワイエスを待つ間に案内されたのは、旧海軍松島航空隊時代に「九六式陸攻」を収納していたという格納庫でした。
 此処には松島派遣隊の赤帯のハチロク(82-7816)(リンクD)が分解整備中で、コックピットによじ登らせて頂きました。 

撮影1973/05/12 小林実  F-86F 82-7816  F-86F掲載ページ リンク
 

 今回赤帯の松島派遣隊機をネットで検索しますと、本機の他には
 82-7838、 02-795202-795402-7981 そして事故機の92-7932の六機
でしたが、実数でしょうか。
 この格納庫と思われる画像 (F-86Fリンク 経歴と写真その4 1枚目写真) は、本誌のハチロク研究にあり、72-7771機と一緒に写られている地元の戸田保紀さんの背景が正にこの格納庫の鉄柱や梁です。
 氏には仙台時代の短期間お世話になりました。 

 11時頃に突然基地内に喇叭が響き渡り 『全員に告ぐ。これより調査団のご一行が帰られる。 手すきの者は集合整列し見送れ』 の放送が流れる。 
 緊張感が漂う中にあって、基地構内で運動中の隊員たちが芝生の上で小休止“をし、心地よい日差しを受けて”台湾足(水虫)”を虫干ししている光景が対照的でした。

 その年の8月23日(木)、松島派遣隊が廃止された。
 廃止に至るまで安全対策の進捗を確認する立入り査察は幾度もあったと思うが、あの日の「安全調査団」それは最終の査察だったのであろうか・・・。 
  この稿を纏めるにあたり不確かな「安全調査団」の名称の確認と存在を、空自OBの学友F君に伺いました。
 彼は事件後に空自に入隊しその後E-2CのCICO (ミッションコマンダー)を務め、地上に降りてからは「要撃司令」を務め退官しました。
 返答は『当時は飛ばすことに精一杯、安全対策は制度的にもルートや関連施設は未整備だったと思う。その安全調査団の存在は記憶にないが、臨時編成の組織だったのでは』との内容でした。
 この事故を契機に、1982年(S57年)3月16日に防衛庁長官直結部隊の「航空安全管理隊」が誕生しました。
 同隊のHP(リンク)の任務には「航空事故調査及び要員教育・教育資料作成」とあります。
  今回「安全調査団(仮称としましょう)」の対応組織に興味を抱いた私は、事故発生後の組織的な対応を探しました。
 今日的な内容も含めHPには見出せませんでした。
 
 関連するサイトをご紹介します。

  A 、航空自衛隊幹部学校航空研究センター
   「エアー・パワー研究 第2号・航空事故防止の歩み」(リンク)

 B、「航空自衛隊安全管理規則」平成元年3月10日 航空自衛隊達第12号 (リンク)

  1973年の五月、松島に舞い降りてきた「安全調査団」。 いずれ名称も含め航空安全管理隊に伺ってみたいと思います。
 直近の小松基地でのF-15の事故等・・・、名を変え姿を変え思想も変えて今日でも ”安全調査団” はあり続けていると思いますので。 


 ★本稿に関しご助言・ご指摘など頂ければ幸いです。

 切っ掛けは前述のハチロク(82-7816)の写真でした。 
 単に写真の投稿を予定していましたが「事故」からの歳月の経過の中で、霞となっていた記憶が蘇りました。 
 そして名称が定かでない「安全調査団」の疑問。 
 事故後の査察を前提に筆を進めてきましたが、単なる定期的?な査察だったのか今もって疑問です。  
  私自身の体験が本件と絡みました。
 現役時代LPGの全社の保安管理総括者の立場にあった頃、経済産業保安監督部の立ち入り検査を受け、是正に長い時間と労力を払いました。 
 航空機事故は「事故調査報告書」に多くの関心が寄せられますが、その是正への努力や改善結果、進捗状況は目に見えません。

 雲誌の読者の皆様方にはOBの方々も居られるようです。関わられた方々、ご興味を抱かれた方々、関係を持たれ当時の安全対策に関してご存じの方々、視点を変えて是正への取り組みへの空自の姿などを含め、ご意見を頂ければ幸いです。 

 小林 実


編集より

 イガテックはまだ当時 学校に通っており、就職後に当時の事故について8年後の周年日に航空自衛隊員から直接お話を聞いて心を痛めた記憶があります。 裁判の結果は出ていますが、民航機の飛行経路 両側5マイル( 9.26km)の飛行制限空域を定めて自衛隊側がその空域を飛行しないようにしていたことは双方認めています。
 フライトレコーダーが当時搭載されていなかったので、双方の航空機が実際にどの位置にいたのか判例でも不明確のままで謎が残る事故です。  

 裁判判決文 リンク