山口県長門市の二つの旧水上飛行機基地について
古谷眞之助
山口県内には東から、岩国、防府、宇部、小月の 4 つの飛行場があり、すべて瀬戸内側にある。
し
かし、戦前、山口県の北部、現在の長門市には二つの水上飛行機の基地があった。一つは山口県が運
用する「山口県飛行場」で、県の水産部に所属する魚群探索基地であり、詩人・金子みすゞの生誕地
である長門市仙崎海岸に面する仙崎湾を使用していた。もう一つは、最近とみに有名となった元乃隅
成神社近くの油谷湾口の大浦に面する海軍大浦水上飛行機基地である。
なぜ波穏やかな瀬戸内海側で
なく、日本海側に基地が設けられたのか。おそらく前者は近隣に県の外海試験場があったため、後者
は基地前面の油谷湾が何度となく連合艦隊の停泊地として利用されていたためだと思われる。
両基地ともに、かすかに往時を偲ばせるものが現在も残っている。仙崎のそれは、機体を引き上げ
るために使用されたクレーンで、戦後に鉄工所に払い下げられ、場所を 3km 北の青海島に移してい
る。大浦基地のそれは、いわゆる「滑り」と兵舎跡である。
これらの水上飛行機基地は風光明媚な北長門国定公園内にあり、過日、周辺を旅行した際に訪れた。
その時撮影した写真と山口県立図書館所蔵の資料をもとに両基地についてレポートしてみたい。
【山口県飛行場で使用されていたクレーン】 【今も残る大浦基地の「滑り」】
1. 仙崎小浜の山口県飛行場−山口県における航空機による魚群探索
1. はじめに
詩人、金子みすゞの生誕地、山口県長門市仙崎。かつてここに県営飛行場があった、というと誰も
がびっくりするに違いない。但し、飛行場と言っても陸上飛行場ではない。仙崎湾内海水面を利用す
る水上飛行場である。戦前、この水上飛行場から山口県外海水産試験場所属の水上飛行機が離水し、
日本海沿岸で魚群探索を実施していた。この飛行場については拙著「山口県の航空史あれこれ」にま
とめているが、ここでは新たに入手した写真・資料とともにレポートする。なお、参考文献について
は巻末に一括掲載する。
2. 山口県飛行場の開設
このような目的をもって山口県飛行場は開設された。それが何時
開設されたか、日付を特定する資料は見当たらない。しかし、おそ
らく正式開場は昭和 13 年 4 月ないしは 5 月と言ってよいだろう。
同年 5 月頃には水上飛行機基地建設はほぼ完了していたようである。
場所は仙崎湾の奥まった「小浜」の海岸で、現在「立野水産」の
加工場となっている辺りである。水上飛行機 2 機を収容する格納庫、
整備場、職員室、宿泊室を備えた建坪 138 坪の建物に加えて、燃料
備品庫、クレーン等の付帯設備も整えていた。( 写真@、図A、B )
【現在の小浜海岸 写真】
【仙崎付近 図A】 【小浜基地推定配置 図B】
過日、現地を訪れたが、当時を偲ばせるものは何も残っていなかった。護岸から仙崎湾を眺めると、いかにも水上飛行場にふさわし
い穏やかな湾が広がっている。前方に青海島、右手に「和田の鼻」
の岬、左手に仙崎市街を望み、波荒い日本海とは思えぬ静かなたた
ずまいを見せている。小浜は一見どこにでもありそうな海岸ではあ
るが、今から 60 年も前に、ここから魚群を求めて水上飛行機が間
違いなく飛び立っていたのである。
立野水産の関係者によれば、現在の護岸は最近の工事によるもの
で、当時の海岸線は現在よりも相当に奥まっていたはずとのことだ
った。立野水産の後背地にはいくぶんか余裕があって、そこに格納
庫があったとしても不思議ではない。おそらく、現在の護岸から 5
〜6mくらい奥まったところが当時の海岸線だと思われた。
耳寄りな話を聞いた。「もしかすると、当時機体を海面から引き上
げていたクレーンが残っているかも知れません。確か、青海島の金
杉さんのところにあったと思いますが・・・・・・」場所を聞き、車を走
らせた。青海大橋を渡ってすぐに左手に折れ、橋桁の下の道に入る
とクレーンが見えた。( 写真C )
【今も残る当時のクレーン 写真C】
金崎鉄工所のおじいさんに話をう
かがう。間違いなく、当時使用していたクレーンで、戦後払下げを
受けて移設設置したものとのことだった。 高さ約 10m、基部幅約 1基部幅約1m。意外に華奢な作りだ。最上部には吹流しが取り付けてあったと言う。
その後、現地で色々と聞き回ったが、このクレーン以外、当時を偲ぶものは何も見つからなかった。なお(図B )は金崎氏の話に加え、当時ここに勤務されていた中野昌一氏の話をもとに作成したものである。また下写真は開所記念の時のものだが、翼の間にクレーンが見えており、金崎鉄工所と同一のものであることが分かる。
(写真提供 安部言思氏)
3. 使用機材
上述したように、魚群探索に使用された機体は2機。いずれも海軍で偵察用として開発されたもので、県が払い下げを受けたものである。
1. 山口号 海軍一四式水上偵察機
左は滑走中の一四式。右写真では「滑り」とクレーンが確認できる。前出中野氏の話では滑りには板が敷いてあったとのことだが、この写真で確認できる。やや突っ込む感じでフロートを板の上に乗り上げることで停止固定し、その後クレーンで基地内に釣り上げたものと推定される。
(写真提供 安部言思氏)
2. 防長号 海軍一五式水上偵察機
下左写真は開所式のもので、飛行スタッフのようである。右写真は整備要員の様子。
2 枚の写真か
ら格納庫のおよその大きさが分かる。なお、資料からは、どちらが山口号であり防長号であるかは特
定できなかったが、当時航空機関士として搭乗されていた中野氏の証言によって一四式を山口号とし
た。
氏はエンジニアであっただけに、機体の特徴も細かく記憶されている。山口号は上昇中には燃料
圧送ポンプの作動状況が悪かったとのことだ。このため、離水後エンジン不調となって、仙崎の街上
空をスレスレで越え、反対側の深川湾にかろうじて着水したこともあったと言う。また、エンジンの
試運転は夜間に実施し、その排気の色で可否を判断したとのことである。定期検査時には、福岡から
逓信省の検査員が来場していた。ただし、機体の検査はなく、エンジンのみの検査だった。
試験飛行
は、海上上空 2,000m まで上昇し、反転してエンジンをストップさせ、キリモミに入れた後、エンジ
ンを再スタートさせるというものだったそうである。氏は昭和 17 年(1942)から 20 年まで航空機
関士および魚群探索員として搭乗し、総飛行時間は約 240 時間。操縦装置と計器類は前席のみのた
め、後席に搭乗した氏は、後席から前席の計器類を覗き込むかたちで点検していたという。
(写真提供 安部言思氏)
4. スタッフ
「山口県政史」の水産業の章には、設立当初のスタッフは「技師以下 12 人の職員と・・・・・・」と記
載されており、80 年史には以下の 12 人の氏名が掲載されているが、これは昭和 17 年頃のものら
しい。( )内は出身、出身地。
操縦士 田中武雄 (海軍出身)
熊谷栄一 (民間航空出身・萩市)
機体(機関)士
黒田 博 (海軍出身・本郷村)
佐々木武雄(宇部市)
漁労士 京谷八三郎
航空助手
佐伯 寛
神沢幸子 (元水産部・岡山県)
中野昌一 (元柳井水産事務所長)
五嶋 操 (元外海水産試験場)
大草正典
林 秀雄
小使 網谷吉蔵
「防長之水産」昭和 14 年(1939)5 月号には、初年度の費用として以下の記載がある。(単位円)
山口県飛行場
操縦士 1,200(おそらく 2 名分 1 名=600)
機関士給 1 (意味不明)
・俸給計 1,201
旅費 656
助手給 3,312 (助手 6 名 1 名=552)
漁労士給 732 (1 名分と思われる)
小使給 365
航空手当 1,088 (航空機搭乗者 9 名 1 名=120)
雑費 50
・雑給計 6,203
備品費 225
消耗品費 9,357
図書及印刷費 45
通信運搬費 200
電気使用費 70
宿直食料費 73
器械器具費 600
修繕費 2,000
・需要費合計 12,570
水産指導費合計 19,974
スタッフの中の紅一点、神沢氏には興味を持った。彼女は昭和 17 年当時、22〜23 歳。鉛管服の
よく似合う男顔負けの人物であったらしい。召集による男性スタッフの減少にともない、次第に水上
機に搭乗することが多くなっていったようである。彼女は岡山県出身で、元水産部理事神保氏の記憶
によれば、その活躍振りが「山陽合同新聞」に掲載されたそうである。また、彼女はグライダー操縦
士であったかも知れないという不確かな話がある。これは、当時基地内で機体士・佐々木氏を中心に
グライダーの製作または整備をしていたらしいとの情報があり、また唯一女性として航空助手に名を
連ねていることから、あながち信憑性のない話ではないように思えるのである。
当時、山口県防府市の巴航空機工業というグライダー製作会社が文部省式一型プライマリーを製作
しており、県下中学校からの注文を一手に引き受けていた。長門、萩地方にも大津、日置農林、萩の
各中学校があり、県の施設という性格から県立学校の機体整備をしていたとしても不思議ではない。
グライダーを趣味にしている筆者にとっては大いに興味を引かれるところだが、詳しい資料がないの
が残念である。なお、神沢氏は、敗戦後には県職員労組幹部として活躍し、その後幼稚園の経営者と
なったが、山口県外海水産試験場 80 年史発刊の昭和 57 年(1982)当時、すでに故人となっている。
5. 探索飛行
探索活動は、まず機体を海上へ降ろすことから始まる。格納庫内の台車に乗せられた機体はレール
上をクレーン下まで移送され、その後クレーンによって海上へ吊り降ろされた。( 図B参照 )ここか
らは、通常の水上飛行機運航に同じである。
湾内には、現在の水上飛行場と同様に、滑走海面(シードローム)が設定してあったと思われるが、
その推定位置を( 2 ページの図A )に示しておく。岩国の海上自衛隊水上飛行艇 US-1 用のシードロ
ームは、長さ 2,400m 幅 450m となっている。一四式はこれに比べてはるかに小型であり、長さ幅
ともに三分の一と推定した。魚群探索時の巡航高度は約 1,000m で、500m 以下だと爆音で魚群が
散ってしまったそうである。
さて、飛行ルートはどうだったのだろうか。幸い、外海試験場設立 80 年史には明記してあった。
仙崎 → 萩沖 → 須佐 → 見島 → 対馬 → 川尻 → 仙崎
のルート( 図C )で、飛行時間は 50 分から 1 時間 30 分となっ
ている。因みに、このコースを地図上で計測してみると約 400km。
一四式の巡航速度は 120km/h なので、飛行時間は 3 時間 20
分。と言うことになると、常にこのコースを飛んでいたのではないことになる。 おそらく、飛行ルートは固定的なものでなく、状況に
応じていくつかのルートがあったのだろう。また、油谷湾には軍事
施設があったため、上空は飛行禁止区域となっていた。川尻岬の沖
をヒットして仙崎に戻っていたと推測できる。
【飛行ルート 図C】
6. 通信手段
魚群発見してから漁船誘導までは、以下の要領で行われた。
@ チャートに魚群の位置、規模をプロットする。アジは赤色、サバは青色を使った。
A これを通信筒に封入する。筒は長さ 20cm〜30cm の竹製で、外側は赤ペンキで塗装。
B 最寄りの船団を見つけて高度 100m まで降下し、通信筒を下翼後縁直後めがけて力いっぱい
に投下する。もちろん尾翼への衝突を避けるためである。
C 船団側では、タモで筒をすくい上げ、魚群位置を確認して移動する。
D 探索機は、船団が間違いなく魚群の方向へ移動するか確認のため上空で待機する。
E 進路確認後、引き続き次の魚群探索を行う。
開始当初は、漁船が近くにいる場合は通信筒で連絡し、いない場合は無線で連絡して、その情報が
下関市水産会事務所、特牛漁業事務所、県水産試験場の三ヶ所に掲示された。しかし、戦局悪化とと
もに無線通信は禁止され、通信筒のみとなったことだろう。昭和 15 年頃から民間機の無線使用につ
いては厳しい制限がつけられたとの別の資料があるからである。
7. 飛行実績と成果
飛行回数についてははっきりしない。これは、第一に「防長之水産」誌の記述が曖昧なためである。
以下、記事を拾ってみると、
昭和 14 年(1939 )12 月号 「本年度中ニ於ケル飛行回数 51 回・・・・」
昭和 15 年 1 月号 「山口号は昨年 11 月中に 68 回飛行して・・・・・」
とあり、さらに「山口県政史」には、「年間 100 回以上出勤し・・・・・」とある。中野氏の記憶によれ
ば、4 年間の飛行時間は 240 時間となっている。これだと年間 60 時間、1 回当り 1.5 時間とする
と 40 回。交代要員のことも考え合わせれば、県政史の年間 100 回が妥当なところと思われる。 もちろん年度によって山谷があったことは間違いないだろう。
昭和 16 年以降、「防長之水産」誌から魚群探索の記事は消える。これには、戦時中の極度の報道検
閲が一因となっていると思われるが、本当の理由は、探索機の活躍の場が少なくなったためではない
だろうか。特に戦局の悪化が顕著になった昭和 19 年から敗戦までは、極端に回数が減少したに違い
ない。まず、航空燃料の確保が非常に困難だったろうし、性能的に劣る 2 機が制空権の確保されてい
ない空域を飛行することは絶望的だったと思われるからである。おそらく敗戦までの 2 年近く、防長
号と山口号は格納庫の中で待機を余儀なくされていたことだろう。
探索による成果について統計的資料はない。断片的に以下の記述があるのみである。
「昭和 14 年度、通信筒ニヨリ漁獲アリシコト報告シテ来タ漁船 68 隻。アジ、サバ、ブリ等漁獲尾
数百十七万尾ヲ産シ・・・・・」「年間、3,000 余ノ魚群(約 100 万尾)ヲ捕獲シ、30 万円ノ収穫高
ヲ・・・・・」「昭和 14 年 11 月 3 日、青海島沖合デ、アジヲ 3 万尾、川尻岬沖で、アジ、サバヲ 4 万
尾、大浦沖合デ、アジ 6 万尾・・・・・」「昭和 15 年 11 月、北浦海岸デ、アジ・サバ 53 万 8,000 尾、
価格 10 万 6 千円・・・・・」
多少割り引いたとしても、なかなかの成果だといえる。漁民側の期待も大きかったようだ。事実、
「感謝の気持ち」として、小浜の基地にはアジ・サバの一杯詰まったトロ箱が届けられたという。
8. おわりに
魚群探知機もない当時のことである。経験と勘で網を入れることと、確実に魚群がいる場所に網を
入れることとの差は歴然である。我が県が全国に先駆けて航空機による魚群探査に取り組んだ事実に、
かつての漁業先進県山口の片鱗を見る思いがするのは筆者だけではないだろう。
一四式の機体は敗戦後廃棄処分されている。一五式は敗戦前に本郷村の学校へ教材として贈られた
らしい。これには本郷村出身の機関士黒田氏が絡んでいるのかもしれない。
筆者の詮索はここまでである。飛行機好きの筆者は、過去県内の航空史を調べていて感じることだが、この分野の資料がいかにも少なく断片的である。その意味で、一つの歴史的事実を調査して、ま
とまったかたちで残すことの意義は実に大きいと考えている。断片的ながらも貴重な資料は、いずれ
散逸を免れないからだ。このレポートも故神保博之氏、故中野昌一氏の聞き取り調査に負うところ大
だった。また、「山口県の航空史あれこれ」出版後に、長門市郷土文化研究会元会長、安部言思氏より
貴重な資料、およびここに掲載したすべてのモノクロ写真の提供を受けたことも銘記しておきたい。
以上
【参考文献】
@ 「山口県外海水産試験場報告表題目録集」山口県
A 「防長之水産」 昭和 11 年 1 月号 山口県水産会
昭和 11 年 12 月号 〃
昭和 13 年 6 月号 〃
昭和 13 年 8 月号 〃
昭和 14 年 5 月号 〃
昭和 14 年 12 月号 〃
B 「山口県政史」山口県
C 「日本航空機辞典」モデルアート社
D 「日本ヒコーキ大図鑑」講談社
E 「日本航空史 昭和前期編」財団法人日本航空協会編
F 「防長新聞」
【協力】
神保博之氏
中野昌一氏
立野水産の皆さん
金崎鉄工所の皆さん
安部言思
2. 海軍大浦水上飛行機基地
1. はじめに
この基地の存在については 2015 年に発刊した拙著「年表 山口県航空史 1910〜2010」の巻末
に掲載した「山口県飛行場ものがたり」の中で、ごく簡単に触れている。しかし、その後もしっかり
した資料には巡りあっておらず、上述「山口県飛行場」ほど詳しく書くことはできないが、その後分
かったことを以下にまとめて述べてみたい。第一部同様、参考文献は巻末に一括掲載する。
2. 油谷湾と連合艦隊
元乃隅成神社のある向津具( むかつく )半島の内側に広がる油谷湾は、湾口 4km、奥行き 10km
で、西に向かって湾口を広げており、最大水深は 40m もあり、艦船の停泊地に適した湾だった。そ
のため明治 36 年( 1903 )から昭和 9 年( 1934 )までの間に合計 14 回連合艦隊の艦船が入港して
おり、特に大正 10 年( 1921 )10 月 8 日には戦艦長門以下 70 余隻、昭和 4 年( 1929 )にも 70
隻近い艦船が入港している。ただし、湾の西側に当たる大浦付近が油谷島と陸繋砂州でつながってい
るため、その部分を通して外海から湾内が丸見えとなることから、最終的には連合艦隊の停泊地には
選定されなかった。下に停泊する艦隊写真を掲載するが、何枚か残る写真にはいずれも駆逐艦クラス
の艦船しか映っていないのが残念である。また戦艦陸奥所属の 14 式水上偵察機が油谷湾の東に位置
する深川湾に不時着して漂流するという事件が発生し、地元漁民が漁船で近隣の黄波戸漁港まで曳航
して救助している。その時の写真も掲載する。これはおそらく昭和 4 年のことと思われる。
【油谷湾に停泊中の連合艦隊艦船 資料B】 【深川湾・黄波戸漁港に曳航された一四式 資料B】
3. 陸上飛行場建設
昭和 9 年( 1934 )8 月 12 日、連合艦隊がしばしば入港していた油谷湾近郊の日置村では飛行場
建設用地 20 万坪を海軍に寄付することを条件として近隣の四ヶ村と期成同盟を結成して飛行場誘致
に動き始めた。当初考えられていた下関市長府付近が要塞地帯に近いことから、思うように進捗して
いないことを踏まえてのことだった。
翌年 1 月 27 日には山本五十六中将が実地検分して折り紙をつけたと地元紙が伝えているが、真意
の程は良く分からない。候補地は山陰本線人丸駅の西側の油谷河原の水田地帯で、油谷湾の一番奥に
面している。確かにこの付近では20万坪のエリア確保が可能である。地形図で調べてみると1,200m
×500m=600,000 u≒18 万坪になる。湾に面していることから、水上飛行機の運航も視野に入れ
ていたのかも知れない。ただし両脇には標高 100m 内外の山が迫っていて、場周パターンが取りに
くく完璧な適地とは言い難い。事実、この年の 5 月には日置村長と菱海村長は飛行場誘致のため上京
して関係省庁を陳情して回ったようだが、交渉はうまく行かず、結局、誘致は断念して期成同盟は解
9
散となった。
山口県下の飛行場建設については、その後昭和 14 年( 1939 )12 月に岩国飛行場、昭和 15 年 4
月に筆者の生まれ故郷である当時の厚狭郡王喜村( 現下関市松屋 )に小月飛行場が建設された。小月
飛行場では戦争中は陸軍の屠龍が北九州防空の任に当たった。現在海上自衛隊の初級訓練を行ってい
る小月航空基地となっている。陸軍防府飛行場が完成したのは昭和 19 年( 1944 )4 月のことだっ
た。こちらは現在、航空自衛隊の初級訓練基地である。
4. 大浦水上飛行機基地
大浦の越の浜に水上飛行機基地建設が始められたのは昭和 13 年 3 月のことで、完成したのは 5 月
だった。基地建設に際して向津具村は基地用地を献納するとともに、「滑り」や兵舎建設に協力し、さ
らには昭和 20 年 1 月になると防空壕建設にも協力したと資料@に記録されている。当時の施設の概
要は、資料Fによれば以下のようになっている。
・「滑り」( 格納斜路 )長さ 50m、幅 10m
・兵舎 1 棟、528 u
・燃料庫( 100 u )、電信室( 37.5 u )、弾薬庫( 37.5 u )、烹炊所
一方、戦争遺跡をまとめた資料@には、現存するものとして以下のように書かれている。
・海軍大浦水上飛行機基地格納斜路跡 鉄筋コンクリート造
・同 兵舎跡 木造
・同 格納壕跡 鉄筋コンクリート造
まず、「滑り」( 格納斜路 )から見てみよう。冒頭に全体像の写真を掲載したが、十分 10m×50m
はあると思われる。表面のコンクリートはしっかり残っているものの( 下右 )、土台部分はかなり波
によって壊れかかっている。( 下左 )最下段左写真が全体形状を示し、最下段右が基地側から真っす
ぐ海の方向を見たもの。なお、木造のデッキ状のものは最近作られたもので、基地史跡ではない。
基地は波穏やかな油谷湾に面しており、いずれの写真も右手が湾口になる.
次に兵舎。実は事前勉強が不十分で、この存在は全く知らなかったため、撮影できていないのだが、
グーグルアースで確かめてみると写真の形状のものが確認できる。528 uも頷ける大きさである。
【基地に隣接する兵舎跡 資料@】 【基地に隣接する兵舎跡 資料@】
左下写真は格納壕跡と解説してあるが、到底機体全
体を格納できる大きさではないように思える。おそ らく、機体の一部、例えばフロートなど、或いは燃
料庫、爆弾庫として利用されていたものではないだ ろうか。防空壕かもしれない。この存在も事前には
全く知らず、現地で確認もできなかった。返す返す も残念である。今後機会あれば確認しておきたい。
なお、以下に滑り付近の写真と、かなり広い後背地
の写真も掲載しておきたい。
【格納壕跡 資料@】
上左写真は滑りの背後であり、古いコンクリートが残っている。おそらく当時のものではないかと
思えるものだった。また右写真はさらにその背後
で、かなり広いエリアが広がっており、仮に基地を
拡張するとすれば十分な広さである。そして、この
部分が向津具半島と、かつての油谷島を繋いだ陸
繋砂州の部分であり、背後の山が極端に低くなっ
ているので、外洋から湾内が丸見えとなるため、本
格的な艦隊の停泊地とはならなかったのである。
本論とは全く無関係だが、滑りの部分は漂流し
てくるゴミによって埋め尽くされており、少し
痛々しい。そんな中にヤシの実が一つあった。
5. 使用されていた水上飛行機
【大浦基地前の海岸付近 資料A 手前の 2 機は九〇式水上偵察機二型 奥の 2 機は一四式水上偵察機】
では、大浦基地ではどのような機体が使用されていたのだろうか。それを示すものは、調べた限り
では、唯一ここに掲載した写真しか残っていない。手前の機体 2 機は、九〇式水上偵察機二型である。
「サ-121」とは佐世保海軍航空隊を意味する。奥に逆向きの水上機が 2 機見えるが、こちらは一四
式水上偵察機である。「サ-121」同様に胴体に所属が記してあるように見えるが、判読は不能である。
これらの機体が大浦に常駐していたのか、常駐していたとすると何機くらいか、そのあたりのことは
全く分からない。基地の規模から推測しても 10 機以上だったとは考えにくい。
もともとこの写真は山口県漁業協同組合川尻支店が所蔵するもので、資料Aの解説文にはこの写真
に関するものとしては「昭和 20 年前後の撮影」としか記されていない。しかし、海軍機に詳しい佐
藤邦彦氏によれば、時期は「昭和 10 年前後の撮影」とすべきとのことである。解説文では機体につ
いては全く触れられておらず、また何らかの記念写真と思われるが、そのことへの言及もない。50 数
名の人が写っているうち男性は右端の搭乗員と最前列のネクタイ姿の人物、その左の軍帽を被ってい
る海軍士官らしき人物、後列左端の 2 名の 4 名のみで、他の 40 数名は全て婦人方である。勝手な想
像だが、村長、漁業組合長、役所の総務関係者が参加した大浦国防婦人会の記念写真などではないだ
ろうか。機上の搭乗員、そして背後の砂浜に見える軍関係者には戦時下の緊張感は感じられず、何と
なくのんびりした雰囲気が漂っている。その点からも、「昭和 10 年前後」と考えるべきだろう。
資料Eによれば、
「戦前には連合艦隊が 7、80 隻も湾内一杯に入港し、海軍将兵がボート訓練などで賑やかに教練していました。艦船の見学も解放されていました。またここには水上飛行機の基地が設けられていました。浅い砂浜の上半身が立てるくらいの所にブイがあり、これに水上機が係留されていて、陸より水
兵がゴム長の肩まであるのを着て、操縦士官を肩車にしてジャブジャブと歩いて乗せていました。尖
端の滑走台より車のある台車で掩体の中まで運び、偽装網を上から被せて敵に発見されないようしていました。海軍下士官・兵の兵舎と将校宿舎もあり、油谷湾内では水上飛行機の発着訓練が激しく繰
り返されていました。」
とあり、上記写真奥に海を歩いている水兵らしき
ものが見えることからも、この記述の内容がうかがえる。また掩体が設けられていたことが分かるが、
その場所としては、前ページに示したこの写真の広
い海岸後背地が相応しいから、この広いエリアも基
地として利用されていたと思われる。
6. おわりに
資料@には、
「戦後は、兵舎や水源地が向津具村に払い下げられ、現在、木造の兵舎 2 棟や防空壕などが残存して
いる」(1998 年時点での記録 )
とある。そして、それが今まで残っているという訳である。しかし、現在かろうじて残る水上機基
地の残骸もこれから数十年もすれば形は失せてしまうだろう。つまり戦後一世紀ともなれば、この大
浦基地も含めて多くの戦争の名残は消え失せてしまう運命にある。それを思う時、やはり悲惨な戦争
の記憶として、せめてしっかりした記録だけでもとどめておかねばならないと思うのである。
以上
【参考文献】
@ 「山口県の近代化遺産」山口県教育庁文化財保護課
A 「萩・長門今昔写真帖」郷土出版社
B 「ふるさと萩・長門・美祢」郷土出版社
C 「目で見る萩・長門の 100 年」郷土出版社
D 「続 しらべる戦争遺跡の事典」十菱俊武、菊池実
E 「新しい時代への伝言 20 世紀の記録と伝承」油谷町教育委員会
F 「空港探索 3」ウェブページ
【協力】
佐藤邦彦氏( イラストレーター )