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航空人生録・論文 掲載23/02/17



「挙母号」と「衣ヶ原飛行場」の事

 
丹羽 八十


 

 丹羽さんから豊田市にまつわる論文を投稿頂きましたので原文のまま紹介します。 (編)


「挙母号」と「衣ヶ原飛行場」の事

丹羽 八十

 都市名が企業名に変わった国内事例は幾らもある。世界一の販売実績を今年も達成したトヨタ自動車が本社を置く豊田市もその一例である。
 しかし以前は挙母町/挙母市だった時代を体験している人々は年々減少している。 この「挙母時代」に日本の航空史に足跡を記録する出来事があった事を紹介したい。

 事の発端は豊田市内にある「くらし発見館」を訪問した折、歴史関連物の展示ショーケース内あった一枚の絵ハガキに目が止まった。 それは「昭和13年(1938)挙母町勢要覧」の表紙らしかった。
 トヨタ自動車が本社工場をスタートした年でもある。
  タイトルとトヨタAA型乗用車に加えてシンプルに描かれた複葉機がいた。
 その上翼には挙母の漢字と「J-BECG」が描かれていて、胴体側面にも「J-BECG」が記入されていた。「J-・・・・」は終戦時まで日本が占有していた空域を飛行する軍用機以外が使用する登録記号であることは承知していた。 発見館職員にこの「J-BECG」について尋ねたが無反応だった。

   

 英国の飛行機好きで組織されている「Air Britain」のメンバーでもある自分の手元には定期的に送られてくる会報が有り、その記事にこの「J-・・・・」に関する連載記事がある事を思い出し、帰宅後バックナンバーを調べてみた。
 その結果、「J-BECG」機は確かに存在していた事を突き止めた。それによれば機種は「Avro 504K」で有る事と履歴は英国で製造され、日本陸軍で運用後、民間へ払い下げられ、浜松で運用後、挙母町へ来たことが判った。

 この調べた結果を「くらし発見館」の職員へ伝えてあげたところ、意外なアドバイスを得る事になった。それは「当時、挙母号に携わった人は今も市内で健在である事」だった。
 驚いたことは言うに及ばず、是非面会したい旨申し入れた。 その機会は意外と早く実現し、「くらし発見館」で面談できた。
 その人「山田金正」氏は愛車、プリウスを運転してこられたがお歳を聴けば90歳を過ぎておられたが、裸眼、聴力、記憶力共に問題ないレベルだった。 そこで「くらし発見館」で所蔵していた当時の白黒写真を基に氏から聞き出した事とは以下のようなものだった。

  山田(旧姓矢頭)氏が飛行機に興味を抱き、名古屋市守山区小畑地区にあった飛行学校で資格取得後、この「挙母号」の整備を担当していた事と挙母町時代にこのAvro504K購入資金を集めるのに町民からの寄付を募った。
 その時の「寄付台帳」が今も市役所が保管している事実が判った。

   

 そして当時の挙母第一尋常小学校生徒の遠足時記念撮影写真の存在も判った。
 地元写真館が所蔵していたもので撮影日も昭和12年(1937)4月18日と判明した。
  これで昭和13年11月3日トヨタ自動車の本社工場操業開始より1年前、すでに挙母町は町有の飛行機を保有していた事が証明できた。

  

 次に、その「挙母号」が離発着出来た飛行場の存在が気になり、飛行場開設に至った経緯を調べてみた。
 飛行場の名前は「衣ヶ原飛行場」と呼んでいて、町内にある台地一帯を「衣ヶ原」と呼んでいた名残が今も路線バス停留場にある。 この一角を名古屋在住資産家「熊崎惣二郎」が私有地とし、飛行場建設に着手した事が判った。
 自身が所有する機体ニューポール24C1他1機を飛ばすだけにとどまらず、満州路線を念頭に置いた国際空港化への野望も抱いていたと伝え聞いた。
 昭和10年(1935)9月当時の逓信省航空局からの設置許可を得るまでには「中村寿一」挙母町長の後押しも受けていた。
 翌昭和11年夏 プライベート飛行場が滑走路長500mで開港した事が判った。おそらく国内でも稀有な存在だったに違いない。
  挙母町が町有飛行機を持つに至った経緯については、以下の様に伝え聞く。

「衣ヶ原飛行場」開港後の昭和11年(1936)8月27日東京から飛来したサルムソン2A2を使って同年9月1日名古屋方面への試験飛行時に同乗した中村町長の「初飛行体験」が町民の「空へのあこがれ」を喚起し、町有機所有機運を高めたと聞く。
 町民からの寄付金総額は当時の額で1千円にものぼり、名簿からは町内の技芸の名前も散見出来る。
 購入に当たっては前述したとおり、浜松市内で運用されていて水田へ不時着、用廃した機体を買い求めた。この機体を陸送後衣ヶ原飛行場格納庫で修理、再生させたのがサルムソン2A2を飛ばしていた「小泉喜久男」だった。
 そして後に整備を担当したのが前述の「山田金正」でもあった。 1枚の絵ハガキに出合ってから、ようやく現豊田市にはかつて「飛行場」と「町有飛行機」の存在があった事実に巡り合えた。
 だが残された史実を示すのはいずれも白黒写真ばかり、それに飛行場のレイアウトを示すものは何も残っておらず、生き字引の山田老人の証言を得るには又と無いチャンスでもあった。
 そこで、自分が所有する資料からAvro 504K側面スケッチを自作し、各部の塗色を聞き出すことにした。証言を基に塗り絵の修正を繰り返すこと数回、山田翁の記憶蘇りも深まり最終的な作図を終了出来た。併せて、飛行場のレイアウト図も作成し、証言を踏まえながら修正加筆していく作業を終えた。

  

 ここまで掘り起こした歴史をベースに豊田市は「企画展・われらの飛行機・挙母号、衣ヶ原飛行場とその時代」と銘打って平成25年(2013)7月13日〜10月20日まで「くらし発見館」で開催した。
 過去に例をみない入場者数だったと聞いた。
 この展示に合わせて模型製作も企画され、ラジコン愛好家2人が名乗り出てくれたが、その1人、岡崎市在住の森 正夫氏が自分提供の図面を基に製作してくれた。
 展示期間後に豊田市内での飛行展示を現市長太田稔彦氏臨席の上で披露された。 この企画展開催に向けた諸準備を担当した発見館学芸員 小西女史の努力もあって新たな資料も次々と寄せられた。
 その一つが「衣ヶ原名古屋飛行場及び飛行町予定図」というポスターや、衣ヶ原飛行場で撮影された飛行機も写る数枚の写真が集まった。

   

 更には自分が別用で「かがみがはら航空宇宙博物館」のバックヤード見学をした折、たまたま見つけたル・ローンエンジンも同博物館のご厚意で借り受け展示する事が出来た。

  

  そして何よりも驚いたのは「衣ヶ原飛行場」開所式典を記録した16mmフィルムの存在だった。これは前出、熊崎惣二郎氏のご子息「熊崎惣一郎氏」が永年所有されておられたフィルムで この企画展開催に当たり、惣二郎氏の事も掲示するにあたって小西学芸員との話し合いの中から出て来た。
 自分も惣一郎氏ご本人との面談をし、信任が得られ豊田市への寄付を決断された。可燃性フィルムでもあり慎重な扱いが求められ、市側がビデオ化した状態で期間中に一般公開した。当時の日本国籍民間機の動態画像はおそらく第1級の資料だと言える。
  更に「衣ヶ原飛行場」の1/1000サイズのジオラマを聞取り結果から自分の作図を基にくらし発見館職員の努力で完成させた。

  

 期間中にはJ-Birds研究の第一人者である藤田俊夫氏へ来訪のお誘いした所、新明和の工場見学へ向かわれる途上に東京から柳沢光二氏共々視察してくださった。
 話はこれで終わらない。初代挙母号はやがて廃棄され、2代目の挙母号も実在したが 戦争の影響から「衣ヶ原飛行場」は陸軍の管理下へとなっていく中、トヨタ自動車も製造した飛行機部品の試験場としても利用したとの記述もある。東海航空機(現アイシン精機)という会社が所在した事実も判ったが詳細は不明のままだ。
  そして戦後航空活動禁止期間中は荒れ地になっていたが、航空活動解禁後、この地で再び航空活動が始まった。 それには再び山田金正さんの登場となった。彼はグライダーの教員免許も所持し、文部省が推進する航空活動で指導的な役割を果たされており、かつての「衣ヶ原飛行場」復活に尽力された。
 ここで当時の活動の一端を証明するポスターも見つかった。「第三回 航空ページェント」と題し、会場は「衣ヶ原飛行場」となっている。昭和30年(1955)8月28日の事。この時点では挙母市となっていて市長は中村寿一。

  

  中部日本新聞社(現中日新聞社)所有の単発機3機(Piper PA-20/JA3011/白鳩、Piper PA0-18/JA3082/駒鳥、DHC-2/JA3071/若鷲)が飛来予定とあり、この開催状況を裏付ける資料として愛知県の航空愛好家等が組織し、発行していた会誌「高度計」の存在も明らかとなり、グライダーを曳航した記録が残っている。
 衣ヶ原台地一帯に本格的な飛行場建設の要望は中村市長の英断でトヨタ自動車の第二工場建設用地へとなっていく。昭和33年(1958)9月地鎮祭後のトヨタ自動車元町工場の誕生へと進み、東洋一の乗用車生産工場となっていき、翌昭和34年(1959)1月1日に市名も「豊田市」へと変わっていく。
 グライダー愛好家達はその飛行訓練場を市内矢作川河川敷へ移して細々と活動を続けていた事が前述の「高度計」記事から読み取れるが、やがて市内で本物の固定翼機が飛ぶ姿は見られなくなっていく。

 豊田市には「郷土資料館」と「くらし発見館」の2か所に点在する施設はあるが、いずれも手狭になってきており、新たに市立博物館建設に着手し、計画では2024年完成を目指している。その一環として市民への理解活動を進める手段として市民ボランティアに「豊田歴史マイスター」制度を立ち上げた。自分もその一翼を任され、今年1月29日に市立文化会館大ホールでのマイスターによる発表の場が持たれた。多くの来場者へ如何に博物館での掲示に相応しい内容かをアッピールする場となり、終日説明にあけくれた。
 「挙母町/挙母市」時代に在籍していた市民とその親族よりも日本各地から移住し、自動車生産に従事て来て定住した人々が遥かに多くなっている現実ではその昔、豊田市に飛行場があった事、町有の飛行機が有った事、しかもこんな鮮やかな色の飛行機が舞っていた事に驚きを持って受け止めていた。当日来場者へは自作のシールもプレゼントし、博物館への展示理解を求めた。

  

 この先、市立博物館側がこの「挙母号と衣ヶ原飛行場」をどの様に展示をし、来場者へ事実を伝えていくのか見守っていきたい。

  豊田市歴史マイスター  丹羽八十

 以上