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航空歴史館
《追悼記》 マニア出身の航空ジャーナリスト 故藤田勝啓さん
2017年1月9日 佐伯邦昭
1月8日、藤田勝啓さんがお亡くなりになりました。享年74歳でした。世界の傑作機「ソードフィッシュ」の原稿執筆中でしたが、病進行で断念され執筆が進まなくなって断念されたのが、最後の飛行機との関わりだったそうです。
藤田勝啓さんは、歴史派記録派ヒコーキマニアの開拓者の一人でした。
次のコピーは、JAHS Newsの1964年3月号の会員紹介の一部で、勝啓さん自身が文章をつくりガリを切ったものです。
JAHS(Japan Aero Historical Society)日本航空史研究会は、TSPC東京スカイフォトサークルを、American Aero Historical Societyにならって発展させたもので、関正一郎、藤田俊夫、藤原 洋、賀張弘道、荘 文平、松ア豊一、富田 肇、杉浦 博、下郷松郎さんらの活動で、写真を通じて多くの貴重な歴史記録が残りました。
その中でも、この紹介にある二人は、マニア活動から進んで航空雑誌への常連寄稿家となります。航空情報の関川編集長は、二人を大藤田、小藤田と形容し、遂には小藤田の勝啓さんを酣燈社に入れてしまいます。大藤田の俊夫さんは航空関係には無所属を貫いていますが、勝啓さんは、航空情報編集部の重要なスタッフになりました。
私は、航空情報編集部員の勝啓さんと二度会っています。
最初は、銀座の交詢社ビルにあった頃の酣燈社を訪ねた時で、勝啓さんが昼食をおごってくれて、はじめて見る東京風の大きなとんかつを食いながら、いろいろな話を聞かせてくれました。二度目は、1965年の岩国三軍の後、 勝啓さんの呼びかけで各地のマニアが広島まで帰り、中華料理屋でミーティングをやった時でした。(佐伯邦昭のヒコーキマニア人生録その 2参照)
この二度だけですが、航空情報そのものが歴史派記録派マニアを育てていた時期でもあり、私は、広島航空クラブとヒコーキの会の運営や機関紙発行に大きな影響を受けました。彼の柔らかな人柄にもよります。
後年、青木日出男氏が酣燈社から飛び出して航空ジャーナル社を設立すると、彼も行動を共にしました。その辺の経緯や理由は知りませんが、もし、勝啓さんがそのまま酣燈社に留まっていたら、航空ファンの三井一郎編集長と並ぶ名編集者になっていたのではないでしょうか。また、航空情報がここまで低迷することもなかっただろうと思うのです。
結局、航空ジャーナルが倒産して浪人になりましたが、以後は、俊夫さんと同じような寄稿家として、研究や執筆を続けてきたことはご承知のとおりです。語学に堪能で、山内秀樹さんによると、晩年は、ロシアの文献やネットに精通し、その面では日本での第一人者だったそうで、去年の3月に発行された世傑No.172 「ミコヤンMiG-25、MiG-31、ミグ25」にその成果が立派に残されています。
さて、天国に行ってしまった人をいくら悔やんでも仕方がありませんので、時期が新年早々ということで、勝啓さんがくれた50年前の年賀状で、歴史派記録派ヒコーキマニアの開拓者の彼を偲びたいと思います。ありがとうございました。
2017年1月9日 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲制作 佐伯邦昭