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航空歴史館

 

《追悼記》  究極の史料集成を成し遂げた藤田俊夫さん

2023年5月 佐伯邦昭


 ■静寂の中の死
 藤田俊夫さんが昨年亡くなられていたと過去形のお知らせを受けました。 あれほど活躍された航空史研究の仲間でさえそのご最後について知る人が居なかったと伺っております。 また、貴重かつ大量の史資料やノートは、施設へ入居される前に処分され、その存在は未だに不明のままだとも伺っております。 ご寿命を悟られ、誰にも迷惑を掛けないようにとの強いご意思で行動されたのでしょうか。如何にも誠実なお人柄が今更ながら偲ばれます。84歳のご生涯でした。
 
■藤田俊夫さんのデビュー
 ネット社会到来以前のヒコーキマニアの交流は、飛行場での撮影や航空雑誌の投書欄から知り合った者どうしによる結びつきでした。 その一つが東京スカイフォトサークル(TSPC)で、関正一郎、藤原 洋、藤田勝啓、賀張弘道、富田 肇、下郷松郎、渡邊俊彦、山内秀樹、上田新太郎、帆足孝治など名を残すたくさんの逸材が育ちました。 藤田俊夫さんもその一人です。
 TSPCが日本航空史研究会JAHSと名を変えて、1964年3月に発行したJAHS News 2に発表された名簿から藤田さんを抜粋しておきましょう。

■アマチュアからプロ作家へ
 上記のBとCから分かるように、神田の古本街で育った藤田さんは、写真や模型制作の詳しいデータを知るために、お手のものの書籍を探索し、しかも早くから海外の文献に着目しておりました。特に中央大学在学中からTSPCのメンバーと切磋琢磨する中で、外国の書籍から得る知識を例会や機関誌でどんどん披露されていました。
 こういう藤田さんの語学力や表現力と探求心に目を付けたのが酣燈社航空情報の名編集長関川栄一郎氏でした。
 私が調べた限りでは、関川編集長が航空情報に書かせた最初の記事は、藤田さん25歳の時で、1963年6月号のコラム「考証派への資料手引き」です。模型作りや塗装に関する海外の出版物11冊を紹介しており、考証にうるさい本格派模型マニアが洋書取次店の丸善など通じて入手する手引きとしております。
 その1年半後、1964年12月号から始まる「古典機ノート」の第1回に、田村俊夫の名前で2頁に亘って「カーチス ホーク75」を発表しています。 以後、横森周信氏らとともに執筆が続き、一流の航空史家への道を歩んだこと皆さんご承知のとおりです。 俊夫(おおふじた)と勝啓(こふじた後に酣燈社へ入社)の両藤田を育てた関川栄一郎氏の功績も大きいですね。

■ 文献渉猟による究極の結実  J-BIRDへの執筆と編集
 藤田さんは、何しろ、旅行すれば観光そっちのけで土地の本屋を探し出し、寸暇を惜しんで航空の新古本を漁ったり、国立国会図書館へ通ってマイクロフィルムで戦前の官報に載った航空関係の情報を丹念に探すなど、更に史資料の虫になられたと聞き及びます。 マイクロフィルムによる探索が肉体的にどれほど厳しいものか、それがご病気の遠因になったのではないでしょうか。
 そうした永年に亘る文献渉猟の究極の結実が J-BIRD写真と登録記号で見る戦前の日本民間航空機 (hikokikumo.net) の大書でした。
 藤原 洋さんや柳沢光二さんなどとの共同作業ではありますが、資料の根拠と裏付けについて藤田さんがうんと言わなければ編集が進まなかったはずです。
 かくて、出来上がってみると、第2部に昭和20年までの民間航空機が登録記号順に網羅され、機名・愛称・製造番号・エンジン・所有者(定置場)の変遷のほか、可能な限り写真も添えられて空前絶後の貴重な史料となりました。
 更に、藤田さんによる「第1部 登録記号の概要」などの論文がすごいのです。 航空機の輸入・開発・製造・運用等は、時の政治経済社会と複雑に絡み合いますので、その全般に渡る知識を頭に入れた上でないと、これほどの論文は書けません。
 戦前の登録記号リストを作れ作れ!と、藤田さんと藤原さんに再三“けし掛け”てきた私にとっては、望外の充実した著作となりましたし、航空出版界に金字塔を打ち立てました。 蛇足ながら、CONTRAIL 105(1981年1月)に私が「日本民間登録記号について」と題してJ記号の蒐集を提唱し、数機のリストを公表したのが“けし掛け”の嚆矢でしたが、藤田さんは、本書382頁にそれが日本で初めての提唱であることを紹介してくれています。

■ 佐伯との接点 
 私が編集していた広島航空クラブニュース⇒ヒコーキ雲⇒CONTRAIL⇒インターネット航空雑誌ヒコーキ雲にも度々寄稿してくれました。 貴重な発掘記事であったり、質問への回答であったりで随分助けて貰っています。 その中の思い出を少々遺しておきます。
 航空百年の2003年、ライト兄弟関連本が多く出版されました。その中の富塚 清著「ライト兄弟-大空への夢を実現した兄弟の物語」について、私が好意的な感想を書きましたら、藤田さんから「あきあかね」のペンネームで痛烈かつ詳細な指摘が送られてきました。
――今回の佐伯さんの書評は、いつもの辛口に対して甘口ですね―― との書き出しから始まって、富塚本が侵している誤りを具体的に示した長文の手紙でした。 まさに航空史研究家としての藤田さんの真骨頂を示すものであると同時に、その内容は20年を経た今でも立派に通用しますので、三樹書房と私の弁解も併せて、若い人に勉強かたがた読んでもらいたく復刻しておきます。(別記) 
 藤田さんは、また、私の「日本におけるダグラスDC-3研究 (hikokikumo.net)」にも注目してくれて、「佐伯さんがDC-3を取り上げてくれて感謝している」との言葉を頂戴しています。
 その意味は、JAナンバーのダグラスDC-3は、全日空や日本国内航空など羽田を本社基地とする機体が殆どであり、関東在住のマニアこそが取り上げるべき研究対象なのに‥‥或いは戦後復活の旅客運送事業に大きな役割を果たしたことについて航空雑誌が取り上げるべきなのに‥‥という訳です。 ひょっとしたら、藤田さん自身がやりたかったのを、広島の佐伯がやり始めたので遅れをとったとの後悔があったのかもしれません。 もし、藤田さんが本気でやってくれていたら、より史料価値の高い本格的なダグラスDC-3研究本が世に出ていたでありましょうに。

■ そいうことも含めて、彼が処分したという膨大な書籍とノート類が、まだどこかに隠れていることを信じたいし、若い人がそれを引き継いで空白の航空史研究に新たな光を当ててくれることを祈ります。
天国の藤田さん、どうか祈りを聞き届けてくださいな。 (終) 

       2023年5月 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲創始者 佐伯邦昭

 



別記 

    「ライト兄弟-大空への夢を実現した兄弟の物語」 の書評について

 

1 富塚版「ライト兄弟-大空への夢を実現した兄弟の物語」(2003、三樹書房)への書評に寄せて 
                                  2004/02/01 あきあかね

 今回の佐伯さんの主題の本への書評は、いつもの辛口に対して甘口ですね。 富塚 修先生の本は確かに子供向にやさしく、情熱を込めて、ライト兄弟が自分の頭と手で、考え行動して、着実に成功を目指し、成功したことを書かれています。ただ、この本には幾つかの問題があります。
 私が問題視するのは、筆者が東京大学名誉教授で、一般人が書くものと違って、社会的認知度が高い点から信用度が高く、今後は参考文献に使用されるからです。目に付いた問題点は次のとおりです
    @ 起きた史実の年月日の誤り
    A 出来事の記述順序が違う
    B 起きなかった出来事を記述
    C 出来事への誤解
    D 出来事の内容の誤り
    E 矛盾
    F 誤解・誤訳
    G 省略してしまった説明
    H 記述への疑問
      主な参照文献

@ 起きた史実の年月日の誤り(他は下記に別記 特に年表が多い)
 -A:ウィルバー・オーヴィルの死亡月日
 年表284/286頁。ウィルバーは5月30日、オーヴィルは1948年1月30日に死亡です。本文246頁では日付の誤まりに加えて、年齢も77才なのに76歳と誤記。
 @-B:286頁:「1942年 ライトフライヤーがアメリカに返却」。返却は戦後です。

A 出来事の記述順序が違う
 165頁:「自転車に測定装置を付けて揚力や効力の測定を行なった。」:記述は1900年秋から1901年のグライダー製作までの期間と判断されますが、オーヴィルの公認伝記でもこの時期にこの実験を行なったという記述はなく、シカゴでの講演の後で、ウイルバーがシャヌートへ送った1901年9月26日附けの手紙で自転車で試験を行ったと書き送っているので、ここに挿入はおかしい。

B 起きなかった出来事を記述
 179頁:「留守中のオーヴィルが自転車で実験して、シカゴにいる兄に連絡し、講演内容を変更した」。公認伝記でもこの時には自転車での実験の記述はなく、いきなりオーヴィルが風洞実験したとなって、連絡したとは書いてありません。帰宅後に講演録を変更。

C 出来事への誤解
 226頁:「それから約2年間は、ライト兄弟が飛んでいることは世間の人から忘れられてしまった。」。この年代は1904年から1906年までの事と判断されるのですが、兄弟の年譜を見ると地元の新聞などで報道されており、”忘れられて”とは言えないでしょう。

D 出来事の内容の誤り(他は別記)
 160頁:1900年の実験で、本格的な滑空に成功で「初日だけででも12回」。公認伝記では滑空は2分とあり、年譜も約2分であり、これだけの回数はおかしい。
 228頁:1904年の「目ぼしい成績を紹介すると・・」。 このうちの数値・飛行回数はウイルバーの日記からの記録が年譜にあるので、本書は全目的な見直しが必要です。

E 矛盾(他は別記
 E-A:195頁:「ようやく「8馬力のものなら売れる」という返事が1通来た・・・」。 兄弟が要求した発動機の馬力は次頁に書いてあるとおり、8馬力と分り、手紙の8馬力なら要求通りで、なぜ発注しないで困ったかの疑問が起きます。 事実は、公認伝記では兄弟は回答の内容を検討したが、その数値は過大見積もりと判断したとあります。
 E-B:237頁:「アメリカにおける1回目の公開飛行の日がやって来た。」これは226頁の記述と矛盾します。1908年の第1回とは、陸軍省への納入に際しての立会い飛行試験です。

F 誤解・誤訳(他は別記)
 182頁:「風洞試験装置の最初」:これは兄弟が最初ではありません。(例えば、鈴木真二「ライト・フイヤー号の謎」69頁参照)
 230/234頁:「アメリカの国防省」:この時代に国防省はなく、War Office/陸軍省の誤訳
 246頁:「ホーソーン丘の家」:ここは兄弟が生前に購入したが、完成が間に合わずにウィル−は死去。
 1914年はライト家が入居した年。
 284頁:1914年「最高裁判所」:U.S.Cricuit Court of Appeals of 新 York。控訴審。これで告訴合戦は終りではなかった。 
 つまり、伝記の基本条件である史実に幾つもの誤りがあり、これでは先生が1956年の序文に”史実にもっとも忠実であることを期しました”と書かれているのに反しています。その理由は、先生が序文で書いていますが、本書が1930年に出版されたジョン・R・マクマホン著「ライト兄弟」を頼りに、1956年に書かれたという点にあります。つまり、十分な調査に基づいた資料が発表されず、洋書の輸入が今日ほど楽でなかった時代に、いわく付の伝記を唯一の参考として書かれた”不幸”があります。

 G 省略してしまった説明
 子供向の本にどこまで書込むかとか、筆者との見解の差が出ますが、しかし、ライト兄弟の伝記としては避けられない点があります。
 G-A:風洞実験で兄弟は先人の何の誤りを発見したのか?
 G-B:アメリカ政府への売込みはどうなったか?
 G-C:ウィルバーがフランスで行なった最初の飛行で、懐疑的なヨーロッパ人を納得させ、一躍、時の人となった大成功と、フォートマイヤーでの飛行の意義が過小記載。
 G-D:特許抗争とその顛末。これこそ、最初の事故以上に兄弟の成功の後の暗い部分で、友情を損い、兄弟の人間性を物語る部分です。
 G-E:なぜライト兄弟機は急速に衰退したか。飛行機としての評価。

 H 記述への疑問
 だれが最初に飛行機への挑戦に取り組んだか、リーダーシップはどちらかという面で見ると、本書は参考書のせいでしょうがオーヴィルの印象が強すぎますが、初期は兄というのがほぼ定説でしょう。
 ウィルバーは貧しく亡くなったような印象を与えていますが、遺言で父親など親族に$279、298.40を贈っています。確かに何億ドルには及びも付かないですが、”儲けらしい儲をしていない”と言われるには抵抗を感じます。

 主な参照文献
 1:公認伝記:"The Wright Brothers: authorized by Orville Wright"
Fred C.Kelly,Harcourt,Brace and Co.1943。
 伝記出版を渋るオーヴィルの気に入るように書かれたので、信頼性は落ち、研究者には本書も自分が兄に優るという印象を与えようとしていると評する者がいる。
 2:"Wilbur & Orville  A Chronology" , Arthur G.Renstrom,Library of Congress1975。年譜と飛行記録表
 3:"The Bishop's Boys",Tom Crouch,W.W.Norton,1989.
 4:"Miracle at Kitty Hawk",edited by Fred C.Kelly,Farrar,Straus and Youg,,1951
 5:Visions of a Flying Machine",PeterL.Jakab,Smithsonian Press/Airlife,1990
 なお、ジョン・R・マクマホン著「ライト兄弟」は、オーヴィルが出版を阻止しようと告訴しようとしたが、文章を修正して出版されたという、いわくつきの伝記で、彼はそれでも激しく嫌ったといわれます。 経緯は、One Day at Kitty Hawk,John Evangelist Walsh,Thomas Y.Crowell Co.1975の注記&出典ノートに詳しい。 

別記(上記以外の誤まりや欠如。但し、全文チェックしたわけではありません。)
本文
 136頁:「航空研究家の悲劇」:誰かが抜けています。ピルチャーですが。
 224頁:「新聞への報告」:1月7日頃は、正確には5日にAssociated Press(共同通信)に彼らの初飛行に関する記事の誤まりを正す声明を送り、6日に出た。
年表
 281頁:1983年:「兄弟で手刷の新聞発行」。本文ではオーヴィル14歳の時に彼が印刷に関心を持つ。つまり、1985年の時で、話が合わない。本文103頁の発行差止の新聞名はThe Midjetです。
 281頁:1988年:この新聞名は本文にも、他の伝記にも登場しません。兄弟の初めての新聞発行は、本文108頁にあるように1989年の事です。
 283頁:「1905年。フランス政府より購入の申込あり」。これはフランスの新聞Le Journalの発行者/所有者などを含むシンジケートの代表者との間にフランス陸軍用に彼らの最初の飛行機を彼に1906年8月1日までの期間内に引き渡すoptional contractに調印したことです(年譜)。シンジケートの代表者との契約で、フランス政府からの申し込みとはいえません。
 283頁:「1907年 アメリカ政府より・・注文を受ける」。1908年2月にやっとライト兄弟の入札が政府に受け入れられて、1907年はまだ交渉中です。
 283頁:「1909年 デイトン・ライト飛行機会社を設立する」。1909年の場合は単にWright Company。Dayton Wright Airplane Co.は1917年に設立されました。
 284頁:「1910年:カーチスを訴える」:これは1909年8月です。
 286頁:「1939年(プロペラ機の限界)」:1969年にグラマンF8Fで記録更新され、その後も記録更新されています。
 286頁:「超音速突破」:単なる音速突破ですが。

 結論として、本書は今の時点で出版するならば、今日までにアメリカで出版された幾多の定評あるライト兄弟の伝記類や研究書を参照した訂正・補正が足りません。
 改訂版の出版が望まれるところです。

2 三樹書房の見解
                      2004/02/04  三樹書房  小林謙一
 前略 このたびは小社発行の『ライト兄弟』についてのご批評をお送りいただきまし
て、ありがとうございました。
 この本は、本書の序章にも記述した通り、富塚清先生が昭和31年に著された本を底本としておりまして、編集・進行にあたりましては、著作権者であるご遺族との相談・確認によってすすめることによりまとめられたものです。
 小社側でも、文体の変更をはじめとして、調査できる範囲において一部訂正や、修整などをさせていただきましたが、著作者である富塚先生不在の状況においては、現実的な限界もありました。
 ご指摘いただいた点は、今後の編集担当者の検討課題とさせていただきます。  敬具

3 佐伯邦昭の見解 
 ちょうど1年前に小学校5年生への航空100年課外授業で、ライト兄弟の業績を教えましたが、その後に発行された富塚本を読んで、子どもたちに教えた内容は間違っていなかったと安堵し自信をもったことが、あきあかねさんのいう甘口評論の背景にあるかもしれません。
 一般国民に対する航空思想普及という意義を考えるならば、この本はその役割を十分に果たしていると、今でも思っております。(注1)
 しかし、昭和31年発行の原著以降、多くの海外文献が出ているのだから、その豊富な資料を検討した上で今度の本を出すべきであったというあきあかねさんのご指摘は全くそのとおりです。
 編者として名を連ねている山崎明夫氏が三樹書房の編集者であることがこのほどわかりました。 氏が歴史や航空にどの程度ご造詣が深いのか知りませんが、原著の一字一句について検証しなおす良心的な配慮に欠けていたのは残念というほかありません。原著と新著は50年近く開いているのですから。(注2)
 ご遺族がどう言われようと、正確な内容に改めることが故人の名誉を高めることになりこそすれ、名誉を傷つけることには決してならないと思うのです。
 
 (注1) 例えば「日本の航空事故90年」が航空再開の最も重要なポイントのところでありもしない半官半民の国策航空会社をでっちあげたり、何度も航空会社名を間違えていることとの比較です。 誤記誤謬をどこまで容認できるかは非常に難しい線引きとなりますが、「ライト兄弟」も「日本の航空事故90年」も一般国民への航空入門を主たる目的としているとすれば、前者は容認できないが、後者は容認できるというのが、私の見解です。
 (注2) 例えば「ミスビードル号高くゆっくりとまっすぐに翔べ」の筆者は郷土史家ですが、再刊にあたっては航空専門家数人のチェックを受けて正確を期しました。山崎氏も専門家の監修を受けるべきであったと思います。