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北海道王子製の木製戦闘機立川キ-106について

目 次

  北海道開拓記念館の立川キ-106関連と思われる木製主翼と燃料タンク
  江別市郷土史料館収蔵庫に保管中の立川キ-106の量産機のものと思われるタイヤなど 
 王子航空機株式会社江別製作所 現況報告書 昭和二十年四月二十六日 復刻版
  立川キ106の生産について 
  王子製キ−106・3号機の空輸についての私見 終戦直後説
  王子製キ−106・3号機の空輸についての私見 8月13日説
  キ−106の車輪の文字について

 

A1216-1 札幌市厚別区 北海道開拓記念館
       Historical Museum Hokkaido, Atubetsu-ku, Sapporo City, Hokkaido  
 
◎ 北海道開拓記念館の立川キ106関連と思われる木製主翼と燃料タンク 
   

         許可を得て撮影2003/04/25  Riki

                                         

 

A1025-1 北海道江別市  江別市郷土資料館
              Ebetsu City Museum, Ebetsu City, Hokkaido
          

◎ 江別市郷土史料館収蔵庫に保管中の立川キ-106の量産機のものと思われるタイヤなど 
   
許可を得て撮影2002/03/28  TRON

 江別市郷土資料館には非公開ながらキ-106の量産機のものと思われるタイヤ2本、カゼイン接着の合板(機体部品)が13枚、さらには1994年(平成6年)7月に発掘された1125枚ものキ-106の生産計画書や部品図の青焼き等(水に浸かったため判読可能なものは362枚)が保管されています。

キ-106のタイヤ 詳細は下記
 
キ-106の機体部品(カゼイン接着の合板)
 
王子航空機 昭和20年度生産計画書の中身
発掘された青焼きの一部

キ106の生産について   TRON

 キ-106の生産機数は立川が4機、王子が3機、呉羽が3機という資料が多いですが、これは実際に軍に納入または初飛行後で未納入のまま敗戦を迎えた機体のようです。
 しかしながら、王子航空機(王子製紙)での生産機数は納入(空輸)済が2機、未納入のまま敗戦直後に飛び去ったものが1機、完成直後で飛行試験を行わずにそのまま残っていたものが1機の計4機があったことを確認しています。

  
  
完成機(陸軍受領済)2機: 王子航空機製1,2号機
  完成機(陸軍未受領)2機: 同3,4号機
  機体組立中(エンジンや桁材が一部届いていなかった)7機: 同5〜11号機
  機体部品(おそらくはカゼイン接着の合板等)約100機分

 ちなみに敗戦時、王子航空機製1号機は札幌第一飛行場(現丘珠飛行場)で、2号機は多摩飛行場(別名 福生飛行場:現横田基地)で各々テスト中であり、3号機は昭和20年7月に完成していながら飛行試験が行われず、敗戦後の8月20日前後に航空審査部の黒江少佐?によってどこかに空輸されています。

 1〜3号機までの話は「叢書・江別に生きる4 木製戦闘機キ106」(1992年 田中和夫 著)に載っていますが、その後の田中氏の調査によりもう1機の完成機(といっても各部未調整だったらしく地上試験も未了だった)の存在が確認されており、私自身も現地での聞き取り(私の場合、江別飛行場が調査の主眼であり、キ-106に関しては田中氏のトレースに過ぎなかったようですが)から追加確認しています。これらは2001年9月22日の江別市での田中氏の歴史講義でも公表されています。

 また、一部の資料に出てくる王子航空機苫小牧工場での生産については100%誤りであり、このことは上記の「叢書・江別に生きる4木製戦闘機キ106」でも指摘されています。おそらくは昭和18年の生産工場変更(苫小牧→江別)が見落とされた結果でしょう。当時の王子製紙は主力工場であった苫小牧工場を失うことを恐れて江別工場に計画変更させたのでした。

 江別でのキ-106の生産は、本州(中島飛行機武蔵野工場?)からエンジン、浜松(某ピアノメーカー)からは桁材、その他脚部の鋳物などを北海道に輸送して組立てるという、ノックダウンに近いものだったようです。

 北海道で調達できた部品はカゼインや尿素酸系接着剤を用いた合板くらいだったようで、九州の石炭酸系接着剤の工場が被爆し、青函連絡船が米軍の空襲で全滅した後は。江別工場での組立作業は停止状態だったとのことです。

 また、江別工場製4号機は組立中だった7機の内数だったとする聞き取りもありましたが、外観は完成していたという話もあり、詳細は不明です。

 なお、北海道開拓記念館に保管されている増槽と主翼の一部は、キ-106の生産に先だって試作されたもので、キ-106のものそのものではないようです。


王子製キ−106・3号機の空輸についての私見 終戦直後説 
                                           守屋憲治


 
王子航空機においてキー106は3機完成しています。概完の1機を含め4機という説もありますが、王子特殊紙(株)江別工場も社史としての完成機は3機としています。

 終戦時、王子製1号機は札幌第一飛行場で、2号機は福生でそれぞれテストを受け、3号機は終戦直前に完成したと言われています。

 叢書・江別に生きる4 田中和夫著「木製戦闘機キ106」によると「キ106の3号機が滑走路に引き出されたのは8月20日前後だと思われる。行き先は丘珠か、それとも福生なのか定かでない。パイロットも誰なのか確認できないが黒江少佐のような気がする。」とあるだけで、この3号機が、いつ誰によって空輸されたかが明確になっていないようですので、考察を加えてみよう
と思います。
 (TRONさんも「敗戦後の8月20日前後に航空審査部の黒江少佐?によってどこかに空輸されています。」と書いています。)

 ご教授いただいたのは、元航空自衛隊北部航空方面隊司令(空将)を務められた方。時期は昭和60年に手紙ででした。元空将は千歳と縁が深く、昭和50年代前期に千歳基地司令を務められていますが、昭和33年に一空尉・操縦士として第2航空団に赴任されています。この時の飛行隊長が黒江保彦二空佐でした。

 
 同じ飛行隊ということもあって、戦時中の話題のひとつとしてキー106の話を聞いたのでしょう。翌年、黒江二空佐は英国に留学されています。

 ことの発端は、私が「2号機、3号機は丘珠(札幌第一飛行場)経由で立川にフェリーされた。フェリーを担当したのは加藤隼戦闘隊の撃墜王黒江保彦少佐(のち航空自衛隊千歳基地第二航空団防衛部長)であったという。」ことを記述したことにありました。日付けが明らかでなかったことから、それを読んだ元空将が、「黒江少佐のフェリーは披から直接聞いたので事実です。8月1
6日であったかも知れません。」と手紙でご教授くださったのでした。

 江別叢書にも記述がある昭和29年刊行『航空情報36』の黒江二空佐手記(注)の転記によると、終戦直前に3号機まで初飛行を行っていること、2号機を8月13日に福生に空輸したことが回想されています。しかし、江別叢書では、3号機は初飛行を行わないまま終戦を迎えたことになっていること、『航空情報36』に3号機空輸の記述がないことなどに相違疑問点があります。

 しかし、元空将が黒江二空佐からの話として記憶していた空輸の目付けが、終戦の15日以降という点に着目したいと思います。昭和60年は、元空将が黒江二空佐から話を聞いてからすでに4半世紀が経過していて記憶が曖昧なこともあってか、「8月16日であったかも知れません」という記述になったとしても、終戦の前と後では大きな違いがあります。記憶の中に終戦直後の3号機空輸ということが大きな印象となって残っていたのだろうと理解することが至極当然な帰結と考えます。

 このようなことから、元空将の証言のみではちょっと乱暴な結論の導きとは思いますが、3号機の空輸日は明確にならないものの、少なくとも空輸は終戦直後に黒江少佐が担当したということの挙証のひとつになるのではないでしょうか。(今となっては、時間の経過から確認の手段のないのが残念です。)

 また、元空将が、わざわざ私に対し、教授してやろうと手紙を下さったことから、空輸月日は8月16日であったかも知れないということを「ヒコーキ雲」の読者の皆さんに知っていただきたいと考え投稿しました。

  
 

(注) 「陸軍のテストパイロットから見たキ-102・ムスタング・キ-106 黒江保彦 」
       航空情報36 1954年10月号から許可を得て転載 

  キ−106で空中分解寸前

 キ−106は、キ−84を全木製にした機体であった。機体強度を全金属並に保つために、当時の日本技術を以てしては、約2割の重量増加を見込まねばならなかった。このため、武装を20ミリ2門だけに減らしたりして、性能の保持をはかったのであるが、終戦直前、北海道の王子航空が製作した1、2、3号機の初飛行に行って、江別上空でテストを急いでいるとき、飛行試験の全速ダイブで高速を出したら、接着剤の不備から、空中分解一歩前の危い目に遭ったことがある。

 重量の増加は、トップスピード(水平)にほ大きな影響ほないが、上昇力は目に見えで性能低下を感ずる。木製機の場合、機体表面の仕上げは、恰度ピアノの表面の様にピカピカに出来て、それ丈抵抗を減らせることが出来る利点はあったが、何といっても、重いことは機動性を鈍らせて、乗心地はキー84に劣るのは避けられなかった。

 昭和20年8月13日の夕方、純粋な熱情と、技術的良心に燃える王子航空の幹部の方々の見送りを受けて、1日も早くこのキー106を実戦に参加させるべく飛立った私は、札幌上空から雲上に出て、奥羽地方の陸地は見ることなく、高度5000米で、ニヨキニョキと聳え立つ積乱雲の間をくぐり抜けて南下し、敵機動部隊空襲下の関東平野に帰って来た。小雨そぼ降る夕闇にまぎれて、福生飛行場に車輪を印したのであったが、着陸直前、多摩の清流を囲む村々の戸毎にお盆の迎え火が、チラチラと燃えているのを見た。それが戦闘機乗りとして、私の大戦最後の飛行であった。

 敗戦の色濃い、その日の黄昏の光こそは、祖国の運命を遂に支え得ずして壊滅へ向った我が航空勢力最後のあがきを暗示する小さい火に通じていたとも言えるであろう。


王子製キ−106・3号機の空輸についての私見 8月13日説 
                                           櫻井 隆

 黒江氏のキー106空輸の件ですが、主に下記の理由から、終戦後ではないと推測します。 

@ 8月18日には、戦闘用航空機の飛行が禁止されました(戦闘用以外は24日夕刻まで可能)。

A 敗戦直後は、混乱というよりも茫然自失で時間が止まったような状態。16日に出された大本営命令は「戦闘行動の停止。他は現任務続行」でしたが、仮に15日より前に16日以降の任務が予定されていたとしても、当時の状況からは中止されたと見るのが妥当でしょう。

B 八日市の例ですが、ここでは審査部の5式戦2型が試験中でした。かつて航空ファン連載の「審査部戦闘隊」では、15日の玉音放送の後、坂井少佐が同機に乗って福生に戻ったと書かれていますが、同機は八日市に残されていたのが事実と考えられます→それを244戦隊が機密保持のために焼却処分しました(20日頃)。

C 他の例でも感じますが、黒江氏の記憶力は抜群で、その記述は確度が高いと私は思います。灯火管制下で焚き火は禁止されていましたが、盂蘭盆の迎え火が黙認されていたのは事実です。よって、13日に上空から見た迎え火の記述は、体験していないと書けないものです。また13日は、黒江氏の記述通り、関東から東北にかけて終日、艦載機が来襲しています。


守屋憲治

 桜井さんの言われる飛行禁止日については知っていますし、終戦直後は茫然自失ということも理解できます。 私が今回述べたかったのは、元空将が私にわざわざご教授くださった、「黒江さんから直接聞いた、8月16日だったかも知れない」ということをヒコーキ雲読者の皆さんに知ってもらいたかったこと、江別叢書にある戦後の初飛行と空輸が20日前後という記述よりも信憑性が高いということ、記憶が敗戦後ということで、空輸は終戦直後に黒江さんとちょっと乱暴かも知れませんが結論した次第です。

 あくまで私見です。桜井さんのご意見も十分に理解できます。


櫻井 隆

 しつこくて恐縮ですが、黒江氏の件で追加します。真実の探求こそが重要だと思いますので。先日は本が見つからずに書けなかったのですが、「審査部戦闘隊」で、本件は、要旨次のような記述になっています。私は信憑性が高いと判断しています。

@ 黒江氏の手記には「8月13日、急遽福生に向けて」とだけある。

A 出張中の審査部の他の幾人かの幹部も、8月13日に福生に戻っている。これは、ポツダム宣言受諾の情報が12日頃から流れていたことに対応するためと考えられる→(櫻井注)この情報は、各飛行場の作戦室が米軍宣伝放送を日頃から受信していたことによる。

B 13日夜遅く、黒江氏は福生の家に帰宅し、空から見た迎え火のことを夫人に語った。この年は父君の新盆だった。

C 14日も夜帰宅し、15日朝出かけてから3〜4日帰らなかった。その後は自宅近くの料亭に1ヶ月ほど泊まり込んだ。

D 当時審査部では黒江氏を中心に抗戦の計画を練ったが、結局黒江氏の決断で中止となった。

 

 

江別市郷土資料館のキ-106の車輪    江別

キ-106の車輪   2014/09/11 江別市郷土資料館提供

 質問のタイヤと金属リム部分の刻印についてお答えします。終戦後、王子製紙で荷車などに使用していたらしいので、はっきりと判読できる部分は少ないです。

タイヤ部分のの判読 「700  200    4.5  NO」(2輪とも)

拡大


金属リム部分「アルミ 700 × 200 − 334  岡本  工業株式会社 No11」


金属リム部分「アルミ 700 × 200 − 334  岡本  工業株式会社 No17」

 

 

現況報告書

 王子航空機株式会社江別製作所 現況報告書 昭和二十年四月二十六日 (復刻版)

 OKUBO

 

日替わりメモ090502

○  北海道王子製の木製戦闘機立川キ-106について

 キ-84 疾風の木製化、キー106を製造した王子航空機株式会社江別製作所が昭和20年4月に作成した現況報告書の復刻版を発表しました。終戦後軍部の焼却命令を無視して文書図面を鉄の容器に入れて秘匿していたものが、河川改修現場から発見され、水浸しの資料の中からOKUBOさんが不明瞭かつ旧漢字仮名遣いの文書を判読して新たにタイプしたものです。

 わずかな期間に製紙工場から航空機工場へ転換させられ、作業の主体は中・女学生で、接着剤等を新規に開発しながら、しかも資材枯渇に苦しみながら戦闘機を作った史上稀有な歴史の実態が詳細な報告書によって明らかになりました。完成したのはわずか3機ですが、その割には大規模かつ周到な組織や工場や宿舎が確立されており、機器と原材料の隅々まできちっと把握されていることに驚きます。製紙工場自体の土台があったからとは思いますが、とんだ無茶な要請であろうが何であろうが、受けて立たざるを得なかった当時の多くの国民と企業の洗脳状態をも見ることができます。

 OKUBOさんが復刻の作業過程で感じられたことを数点紹介しておきます。

・ 生産計画が、当初月産50機とされていたが、その後縮小されている。工作機械や資材などすべてが不足し、その窮状を訴えているが、補充が思うようにいかないことが原因であろう。

・ 生産割り当てに到達できないのは会社の不徳によるものとしているのは、陸軍との力関係で不本意な書き方をせざるを得なかったのであろう。

・ 本州の航空機工場で数か月の実習を受けたとはいえ、素人の旧制中等学校2〜3年生や婦女子が前例のない木製戦闘機を作り上げたことは、むしろ賞讃に価する思う。同年配で学徒動員に明け暮れしたOKUBOさんには、その苦労がよくわかる。

・ 20年4月26日現在で12機までの部品完了と記載があるので、終戦時までは相当数が組み上がっていたのではないかと推測される。

 なお、報告書中の「五、生産状況」に注目して頂きたいと思います。第四号機までの完成と予定が書いてあります。このうち、終戦時に完成した第三号機を黒江保彦少佐が福生までフェリーした日付について議論があり、航空歴史館総目次に載せていましたが、今回、まとめて北海道のページに移しましたので、引き続き検証をお願いします。第四号機は飛行まで至らなかったようです。