防衛庁防衛研修所戦史室に残る資料によると千歳の掩体数は次のとおりです。(昭和57年調査)
千歳第一 |
小型23 中型 5 |
千歳第二 |
小型18 中型54 |
千歳第三 |
小型36 中型18 |
合 計 |
小型77 中型77 (無蓋、有蓋の区別なし) |
現在、千歳第1は航空自衛隊千歳基地、第2と第3は陸上自衛隊東千歳駐屯地になっているのはご承知のとおりです。(下記 航空史探検博物館北海道A1013参照) ホームページ滑走路探検隊−掩体壕−に千歳に関する記述が全くないことに触発され、千歳基地及び旧民航地区で調査済の各有蓋2基計4基の掩体以外に、残存するであろう掩体について融雪を待って連休後に調査したところ、千歳基地に有蓋掩体3基を
部外者として確認しました。旧民航地区に最後まであった掩体は、平成12年12月から始まった国有地返還に伴う旧旅客ターミナルビル撤去工事に伴い更地化され無くなっています。
千歳基地の有蓋掩体は、道央自動車道近くの緊急時出入口になっている基地南門からかなり奥に入ったところにあり、車では行けません。海軍第2エプロン地区から延びる最も外周の誘導路の外側に金網柵があり、誘導路を挟む形で3基(営内2基、民地1基)が三つ星の形で残存、単発戦闘機用で、原形を保っています。実測厚45センチのコンクリートは、砂利も多く頑丈そうに見えましたが、鉄筋は露出していませんでした。
誘導路は基地外周道路として活用されています。金網柵外側の民有地は、昭和40年代未に日本列島改造論によって原野商法の舞台となった荒れ地です。
今回の確認によって基地内外には最低5基の有蓋掩体が残存していることになります。
基地内有蓋掩体が設営工事の障害となる場合は撤去しなければなりませんが、破壊撤去の方法は、入口をコンクリートで塞ぎ発破をかけます。コンクリートが厚いことと鉄筋が非常に密のため数箇所に穴が開く程度で、そこから削岩機などによって少しずつ破壊を進めますが、削岩機が壊れることもあり更地化までには1か月程度の時間を要します。このようなことから、今回確認したような基地外縁の掩体は今後も残存するものと思われます。
基地内において今回確認したものとは別の有蓋掩体で、第2エプロン東端から延びる2本の誘導路脇に現存する。航空自衛隊は一時期この掩体を補給倉庫として使用していたという。(昭和57年6月許可を得て撮影)
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平成12年に撤去された旧民航地区内の有蓋掩体、工具倉庫としてつかわれていた。この掩体は横滑走路東端から延びる2本の誘導路のうち内側路の脇にあった。(昭和57年6月撮影)
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民有地において今回確認した有蓋掩体。(平成17年5月14日撮影)
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上の近接
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今回確認した基地内に残る有蓋掩体。手前の未舗装路は誘導路跡。基地内2基のうち西側に位置する掩体。(平成17年5月14日撮影・建造物等が写っていないことから掲出)
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東千歳駐屯地の無蓋掩体は、戦後米陸軍が大型トラックに弾薬を積載したままパークする弾薬庫として使われましたが、米軍撤退後はその大部分が陸上自衛隊によって整地されています。
私も何度か第3滑走路付近を実見していますが、連山滑走路から第3滑走路に至る間の誘導路だった曲線路に掩体を確認できませんでしたし、第3滑走路北端にあり、昭和49年にボーイスカウト第6回日本ジャンボリーが開催された千歳原のジャンボリ台も原野化しつつある状況です。
現在、掩体の形が認識できるのは、連山滑走路から第3滑走路の上部を走るB路と第3滑走路中央部から遠浅方面に向かうC路に挟まれた地区に僅か5基程度が残るのみで、土塁の高さは1.5〜2メートル弱。
新千歳に着陸する旅客機から見えるコの字型の火山灰むき出しのポイントは大部分が掩体痕です。さらに、技研用地が拡大され
定地走行テストコースも1本増設される計画もあり掩体痕も減少しつつあります。
なお、直線的な道路(米軍設定)部分に残る掩体痕は米軍が造成した掩体(弾薬庫)の跡です。
駐屯地内第3滑走路東側に残る無蓋掩体。この掩体は現存するが、このようにはっきりと確認できるものは少ない。(平成15年5月 許可を得て撮影) |
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* 千歳基地外縁の有蓋掩体残存地区はヒグマの移動経路であり、調査時もクマの足跡とフンを多数確認しました。調査単独行は危険を伴うので避けなければならないことを付記します。
(一部聞き取り調査)