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むつ市 海上自衛隊大湊基地
飛行場空撮 旧海軍樺山飛行場跡

 

A2109-01 青森県むつ市 海上自衛隊大湊基地
       Ominato Naval Air Base, Ominato City, Aomori Prefecture

撮影2013/09/23 YS45

2019/07/06現在

KM-2とT-34Aが撤去され、その跡にSH-60Jが展示され、HSS-2Bと並んでいます。

撮影2019/07/06 大川 亮
   

 

◎ シコルスキーSH-60J 8249   (8225と記入)

 機番 8225 は 25 空にあわせて書き換えられた模様です。機内の製造プレートは撤去されており、真の機番は確認できませんが、機 体後部下面の茶色いオイル染みは、再塗装してまで表現されたとは考 えにくく、従って新塗装に塗り替えられて用廃となった後期製造機と 思われます。

撮影2019/07/06 大川 亮


新たな考察 2019/11/28 大川 亮


 8225 の機種ナンバー部分を拡大撮影していたものを、画像処理で暗くしたところ、うっすらと上一桁部分に4≠轤オき跡、下一桁部分に9*狽ヘ0≠フ上部分のようなカーブが浮かび上が
ってきました。赤の矢印部分をご参照願います


 そこで40*狽ヘ49≠ノ該当する機体が大湊(25空)に在籍していなかったか過去の撮影記録を調べたところ、ずばり8249″機が 2016〜2017 年に在籍していました。写真は 2016 年の八
戸航空基地祭から帰投する際の撮影です。この翌年にも、八戸基地への飛来を撮影しており、機体の年数を考えると、そのまま大湊で用廃になった可能性が高いと思われます

 

◎ シコルスキーHSS-2B 8167
1990/03/02 c/n8167 HSS-2B最終号機 海上自衛隊に引渡 第122航空隊
2004/02/25 大湊航空隊で用途廃止 HSS-2Bの最終引退
2004/09 大湊航空基地前に展示
2019現在 ナンバーを8162と書替え

2019年  機番を書き換え 理由不明

撮影2019/07/06 大川 亮


2013

撮影2013/09/23 YS45


2004年 設置直後

撮影2004/10/16 Kotobuki
 

 

 

KM-2とT-34Aのナンバーの書替えについて

 2008年(平成20年)3月26日海上自衛隊航空部隊再編に伴い、「大湊航空隊」が「第25航空隊」に改編、合わせて救難任務が第73航空隊となり、その時点であまりに汚れていたため再塗装を施してやり、機番号を25空と73空に合わせて書替えたものと思われます。


× 富士KM-2 6244 

1963/09/03 c/nTM-14 海上自衛隊に引渡 第201航空隊
7197/06/15 用途廃止
  元のナンバーで大湊航空基地前に展示
2013/09現在 ナンバーを9073と書替え
2019現在 撤去

2013

ナンバーの書替え 撮影2013/09/23 YS45



2002年

撮影2002/7/3 :にがうり

 

× ビーチクラフトT-34A 海上自衛隊9009(元航空自衛隊51-0361)  
1955/10/29 c/nFM-1 航空自衛隊に引渡 51-0361 第12飛行隊
1969/04/15 海上自衛隊に移管 9009 第201航空隊
1977/06/15 第201航空隊で用途廃止
  大湊航空基地前に展示
2013/09現在 ナンバーを9025と書替え
2019現在 撤去

2013年  ナンバーを9009から9025に

撮影2013/09/23 YS45


2002年

撮影2002/7/30 :にがうり

 

2013年航空祭展示写真から





 

 

A2109-02 青森県 むつ市 旧海軍樺山飛行場 現海上自衛隊樺山送信所
               Aomori Prefecture  
    
飛行場空撮 旧海軍樺山飛行場跡 (現海上自衛隊大湊システム通信隊樺山送信所) 
        撮影2006/11/26  飛行中年


日替わりメモ2006/12/04

樺山送信所
  千歳に向う機上から見るとまだ滑走路として使えそうだと皆さんが言っている青森県むつ市の海上自衛隊大湊システム通信隊樺山送信所の空撮をいただきました。ほんとうに舗装滑走路が残っていますね。ただし、電波塔などが建てられていて飛行機が降りることはできないそうです。

 調べてみると、青森県学徒勤労動員一覧の中に、昭和19年9月9日に東奥義塾の3年生100名が樺山飛行場連絡道路工事に動員されたことが記されています。また、朝鮮人連行強制労働記録の中にも樺山飛行場の名がありますので、その頃に建設されたようです。ただ、海軍航空隊年誌などには樺山の地名は見当たりません。敗戦までに実戦部隊がいたのかどうかは不明です。

 遠隔に住むものは、下北半島=恐山ということで山岳のイメージがありますが、地形図では、この飛行場跡のあたりは標高がわずか20メートル内外であり、近くにあまり高い山もないという ことで、ちょっと意外でした。戦時飛行場の建設場所として目を付けられ易かったのかもしれません。現在の通信施設としても好条件のように思えます。

 ところで、青森県学徒勤労動員一覧ですが、高校、高専、高師の生徒は青森県内だけでなく、中標津飛行場など遠く北海道にまで動員されているし、中等学校でも4年生や5年生は横浜や川崎の工場へ行かされています。青森からいきなり大都会へ出た子どもたちの感慨や如何に。そして、その後の消息は如何に。
  当時、すきっ腹を我慢して唄わされた歌  ”
あゝ紅いの血は燃ゆる                     
               

             花のつぼみの 若桜     五尺の命 ひっさげて
      国の大事に 殉ずるは  我等学徒の 面目ぞ           
             あゝ、紅いの血は燃ゆる