今日6月12日は1978年に発生した宮城県沖地震から34年になります。昨年3月11日の三陸沖地震が始まった当初は、発生確率が99%と言われていた宮城県沖地震がやっぱり来たんだと思いましたが、
一分経っても揺れが止まらないので、これはなんか違うぞ、もっとでかいぞと思いました。
34年前の宮城県沖地震が発生した時、私は知り合いの運転する車に乗って、松島基地での撮影から家に帰るところで、塩竃市の東光というスーパーの前の信号で止まっていました。
いきなりグラグラッと来て、車が船に乗っているかのように左右に大きく揺れて、かって経験したことがない地震には本当に驚きました。急いで仙台に帰ってきましたが、家の中は足の踏み場がない状態で、二階のプラモデルの完成機はすべて棚の隙間から落下して壊れてしまい、以後作る気力が無くなって、2年後に販売する方に転身するきっかけになりました。
今日はそんな宮城県沖地震から34年目という一日なのですが、今朝のヒコーキ雲には紙西一尉の遭難の話が出ました。
1968年1月17日に発生したこの事故当時、私は28歳で仙台の東北放送の子会社だった東北映画製作という会社にいて、東北放送のニュース番組に使う16ミリフィルムの撮影をやっていました。
ちょうどその日は夜勤だったので、午後2時過ぎに出社したのですが、八木山の会社に着くなり、『
航空自衛隊のジェット機が伊豆沼の近くに落ちたそうだから、ヘリコプターで行って撮ってきてくれ』と言われました。
伊豆沼というのは宮城県の北の方にある沼で、冬には多くの渡り鳥がやってくる所として有名ですが、確かに車では2時間はかかりますので、ヘリコプターなら30分だろうなあ、と考えました。
いつもなら岩沼の仙台空港まで行って乗るのですが、それでは遅いので会社の近くまでヘリコプターが来て、カメラマンをピックアップするというのです。適当な空き地が会社の中にはないので、近くの東北工大の附属高校のグランドで待つことになりました。
しばらくすると小さなヒューズ 269がやってきました。メモを取っていないのでどこの会社の何号機かがわからないのですが、当時は通常の飛行機は三ツ矢航空、ヘリコプターは東北産業航空と契約していましたので、たぶん東北産業航空の機体だったと思います。
グランドは海抜130
メートルくらいの山の崖っぷちにあり、飛び上がるとすぐ広瀬川の上でこんな所から飛び上がったのは10年勤めていて2回しかありません。もう一回は前の年、1967年10月仙台空港にあった、日本航空乗員訓練所のビーチクラフト
H-18が、山形県の最上川のケーブルにひっかかって、墜落炎上して4人亡くなったときで、このときも東北産業航空のベル47で取材に行ったのですが、登録番号がやけに古い機体だと言う記憶があり、調べたらどうもJA7005の様です。ホバリングを頼んだら出来ないかもしれないと言われた機体で、何とか短い間だけ上空でホバリングをしてもらいました。
ヒューズ269に乗るのは初めてでしたが、二人乗りでちょっと窮屈で、一番気になったのは周期的に身体がひねられるような動きがあって、テールが短いからかなあと思いました。
伊豆沼まで飛んでいったのですが、どうも自衛隊や他社のヘリは飛んでいないし、車もないしと言うので、近くの農道に降りて、農作業をしている人に聞きましたが、飛行機が落ちたというのは聞かないという話でした。
仕方なく仙台に連絡を取ったらそれならかえってこい、と言うので、今度は陸上自衛隊の霞の目基地に降りることになりました。
ネットで調べると当日は天候が不良だった、と書かれていましたが、平野部はヘリが飛べるくらいで特に悪天候というわけではなく、帰りは冬場で日が暮れるのが早くて、明かりを見ながら帰って来ましたので、天候不良だったとしたら山の方だけだったんだろうと思います。
霞の目から会社に帰るなり、『飛行機は宮崎町に落ちたらしい。明日の朝捜索隊が出る』というので、今度は夕飯もそこそこに会社の車で宮崎町に行ってこいと言うことになりました。宮崎町というのは山形県に隣接する宮城県の西方にある町で、大半が山という所です。
捜索隊の本部は町役場の中に置かれていて、松島基地の同僚のパイロットの方が4、5人、オレンジ色のパイロットスーツを着たまま待機していました。その一人にお話を聞きましたら、落ちたのはF-86Fの730号機で、この正月の飛行初めのお祓いをした機体だというのです。
縁起を担ぐんだなあ、と思いましたが、どなたも非常に暗い表情で、仲間の安否を気遣っているのがよくわかりました。
捜索は翌朝早くから行われましたが、仙台では想像も出来ないくらいの雪の高さで、捜索は大変だろうなあと感じました。こちらは昼のニュースに間に合わせるというので、捜索隊が出発した所まで撮って、すぐ仙台に帰りましたが、機体はそのときの捜索では発見されませんでした。
これまでは春の雪解けになってから見つかったとばかり思っていましたが、そうではなくて一ヶ月後に見つかったんだそうですね。第4航空団が冬のサバイバル訓練をかねて捜索を行ったんでしょう。
ネットで見ると色んな風説があるようですが、7、8年前にネットで調べる前はそんな噂があったとは全く知りませんでした。
今日は宮城県沖地震から34年というのと、ちょうど紙西一尉の記事がありましたので、思い出話を書かせて頂きました。