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航空歴史館いしぶみ

ミルMi-8PA JA9549について (所沢航空発祥記念館収蔵庫)

ミルMi-8PA JA9549 
1980/05/19 c/n26001 JA登録 朝日ヘリコプター 定置場朝日川越ヘリポート 
1982/07/01 朝日航洋 定置場朝日川越ヘリポート
1994/08/25 抹消登録
1996/02 所沢航空発祥記念館 に寄贈展示 のち収蔵庫に保管 

 

1985年8月2日、ツーリング中に神立高原のスキー場を荷上場としたドラム缶の物輸作業に遭遇し、急遽オンロードバイクで砂利道の林道を登り、たどり着いた駐車場で撮影したものです。大型機故にそのローターが生み出すダウンウォシュは強力で、小さな砂利が絶え間無く襲ってきました思い出の遭遇でした。

  撮影1985/08/02 濱野善行


 

 退役後、1996年2月に寄贈されて暫くは展示されていたそうですが、現在では収蔵庫(格納庫)に移され、年に数回の公開時のみ見ることができます。 最大28人乗りの大型ヘリコプターで、元々は人員輸送用に導入したのですが、航空局のOKが出ず、不本意ながら物輸に使われていたようです。私の推測ですが、TA或いはTB類での運行を目論んだものの、役所が最後まで首を縦に振らなかったのではないかと思います。原因が機体側(設計)にあったのか、役所の「前例の壁」にあったのかは判りませんが。 機内には旅客仕様の座席が並んでいましたが、まあ、何と言いますか、路線バスとでも... シートは前方向きです。(はねぶた) 

開館当時の本館への展示状況

撮影1996/02/23  HAWK




 

撮影2001/10/28公開日 はねぶた




 

撮影2003/10/26公開日  超空豚(はねぶた) 

 キャビンは後ろ向き4席を含めて20席ありました。床のレールに任意の間隔で取り付け可能な構造です。座り心地は...硬いです。長時間乗ると、振動と座面の硬さで尻が割れそうな感じです。よく考えると、縛帯、あったかなぁ?最後尾は非常口になっています。操縦席、確かに左右で計器に差異があります。

 天井も高く、頭上のSW等、立ち上がらないと手が届かない可能性がありそうです。主脚付近の窓も緊急時の脱出口になっています。元々そうだったのか、西側基準に近づけようとした結果なのか、興味深いところです。

 テール部分は赤い方が後縁です。スペース節約の為、ブレード2枚は取り外されています。メインローターも、一部のブレードが取り外されています。












 

ミルMi-8PA JA9549の思い出

 ミルMi-8PA JA9549について感想が寄せられました。歴史的にも貴重な証言と考えられますので、まるよさんとryutaさんにお願いして転載させていただきました。                                                         

その1 まるヨ@さんから 03/10/08

  1988年の春、朝日航洋の新入社員だった僕は、業務命令で「ヘリコプター・エアショー」に派遣されました。測量調査事業部の所属でしたから、ヘリのことは何も分からないので、東京ヘリポートの会場入口のプレハブでチケットを売る羽目になりました。
 午後になり、入場者も一区切りがついて切符売りの仕事も暇になってきた頃合に、「ちょっと手伝って欲しい」と言われて、連れて行かれたのがMil-8の横。ドラム缶から燃料を手回しポンプで入れるのに、あまりに機体がデカイもので、1人何十回と決めて、交代でポンプを回す要員でした。

 その日、早めに手の空いた社員は、Mil-8に便乗して朝日川越ヘリポートまで帰れたのですが、切符売りを担当していたので売上が集計されるまで帰れず、貴重な体験搭乗の機会を逃してしまい、今でも悔しいと思うのです。

 私は、地理学を専攻していたものですから、朝日航洋では測量調査事業部に所属していました。市町村役場の税務課で使われる地番図の作成や、土地の価格を比準して算出したりする資料の作成です。航空ファンには知られませんが、この分野での朝日航洋も割合に有名だったのです。

 航空会社が表看板の朝日航洋では、測量の社員は影の存在で、素人扱いされるものですから、それこそ専門外の航空分野のことまで必死に勉強してましたね。(笑)

 Mil-8の背景については、札幌消防航空隊(非公式サイト 下記)に詳しく説明されていますが、概ね、僕が聞いていた話と符合しますし、ポイントを的確に押さえていて、重要な史料価値があります。

 残念ながら、Mi-8PAが朝日航洋から所沢航空発祥記念館に寄贈された際に、こういう話は伝えられなかったのでしょう。西側と東側の設計思想・運用思想の違いに着目して展示されていたなら、倉庫で死蔵されるような事にはならなかっただろうと思います。学芸員の方々に見る目がなかったのかもしれません。

 日本の航空博物館には展示機の何を見るべきか?というガイドが欠落していますが、佐伯さんのサイトは、この欠落部分を埋める重要なガイドブックとなります。ぜひ、これを機会に航空史探検博物館でミルパッチを再評価してあげて欲しいと思います。


その2 (ryutaさんのホームページhttp://ryuta111.hp.infoseek.co.jp/から転載)  03/10/10

Mil-8の記憶

 今から20年以上前の実話 (記憶を辿って書いているので数字等が正確でない部分もあるのでご容赦願いたい。) 某社が羽田⇔成田、大阪⇔関空のヘリでの2地点間輸送を夢見てとある計画を実行した時のお話し。

 現在でも当時でもヘリを使用した定期路線なんぞペイしないのが常識で、ならば考えうる経費で削れる部分は全て削ってみては見たものの採算ラインには到底及ばないレベルであった。
 
 その手詰まりの中、一つの画期的な提案がなされた。
 それは、定員20人以上のヘリをアメリカ製で12億、フランス製で13億するものを新品で3億ちょっとで購入する手であった。なんと、冷戦時代が終結していないソ連から軍でも使用している機体を民間型にして購入しようとしたのである。

 購入するとしても、可能なのか? 輸入した後日本の耐空検査に合格できるのか?
 いろんな障害を乗り越えて、3年がかりでやっと日本に輸入された。
 その名はミル8PA型という、ソ連がミル8型を改良して、日本の仕様に合うよう作られた最初の機体となった。

 輸入してはみたものの、大きな木箱(大きな物置を3倍くらいにした)に分割して梱包された機体を再組立し、地上試運転、飛行試験、新規耐空検査合格までの道のりは途方もない道であった。

 組立段階でわかったことが、日本では機体、エンジン、電気、無線などを担当する整備士は基礎的な部分ではみな知識を共有していたが、ソ連流は違った。組立に立ち会ったソ連のメカニックは専門職に分かれていて、それを横につなげる人が来日しなかったのである。

 またメンテナンス・マニュアルが、ソ連からの問合わせでロシア語、フランス語、英語版ができるがいずれを選択するか?に対して、英語版をオーダーしてみたものの、文科系の人が翻訳したのか意味不明の部分が多く、日本側からの問合わせに対するソ連の対応の速さときたら、亀の歩みのほうが少しはマシであった。

 最大の難関は、綿密に打合せをしたのにもかかわらず、機体のシステムが日本=アメリカの技術基準に合致しない部分があるのが判明したことである。日本及び当時の西側で人員輸送をする航空機の場合、電気、油圧、計器等のシステムが全て2重以上なければならない基準になっているが、ミル8PAは残念ながらその基準に合致しない箇所がいくつか発見された。

 その中で代表的なものを挙げると、ローター・システムのコントロール用油圧システムの2重化は日本仕様にあわせてきたが、肝心の油圧サーボシリンダーがシングル。また、機長席と副操縦士席の計器版がそれぞれ分割・独立していて、機長席には飛行に直接関係のある計器類しかない。ちなみに副操縦士席の計器版には簡略された飛行計器とエンジン計器ついている。
 
 機長席から副操縦士席の計器は見えないため、このヘリを飛ばすためには最低2名のPが必須条件となった。

 ソ連ではこのヘリを飛ばすためにはなんと5名のクルー編成で飛ばしている事実が組立に来日していたエンジニアの話で判明した。パイロット2名、航空機関士1名、航法士1名、通信士1名の計5名で極寒のシベリア大地を飛んでいるのである。まるで、大戦中の大型爆撃機並である。

 資本主義社会で飛んでいるヘリは、VFR(有視界飛行状態)であればパイロット1名、IFR(計器飛行方式)であっても2名である。

 そのヘリがソ連には数千機飛んでいるのであり、もしも仮に社会主義国のシステムが根本的に変化したら、いっぱい失業者がでると思ったほどである。

 たしかに、エンジンを始動するためのスターター・ボタンが機長席の頭のはるか上にあり、機長がエンジン始動しようとすると、席から立ち上がりスターター・トリガーに手を伸ばす具合である。
 来日しているエンジニアが身振り手振りで教えてくれたことによると、どうやらパイロットの2座席の後ろにあるサード・シートに座る航空機関士の仕事みたいなのである。

 また、燃料システムにも重大な基準外の箇所が判明した。輸送TA級の基準で、システムの独立性という点で、エンジン2基に供給する燃料タンクはそれぞれ独立して供給されなければならないのに対して、MiL8の場合は機体側面部に独立したタンクを装備しているが、その燃料を一旦上部サービスタンクに電動ポンプで汲み上げ蓄えたものを2基のエンジンが消費するシステムであった。
 このシステムの多重性・独立性の問題点が、その後のミル8の運命を決めることになった。

 数ヵ月後、順調に組立作業が終わり地上試験、飛行試験とクリアーし、耐空検査の当日となった。
 通常、耐空検査の検査官の人数は1人であるが、今回は3名の検査官が検査に来た。
 結果、TA級としての認可は受けられないことになった。
 耐空検査は3名の検査官が連名で署名、押印した。耐空類別はその他の”X”となり、特殊航空機というレッテルが貼られ、一般世間で思われている定期運送事業の表舞台から、航空機使用事業の裏舞台へ追いやられてしまったのである。

 さて、人員輸送用の28人乗りの一戸建て二軒分もあるような巨大なヘリを他の仕事に転用することになったのである。その当時、大型送電線の鉄塔建設の仕事が盛んだったので当然ながらその仕事に投入されることになった。しかしながら、このヘリの自重が当時、物資輸送のエースであったベル204Bが3トン弱に対して7トンもあり機体全長も倍もあり、とても小回りの利く代物ではなかった。

 なるべく機体の減量化を図るため、ミル8から外せるものは全て外され、エアコン、豪華な内装は剥ぎ取られ構造部材が露出し無残な姿となった。
 かくして、ミル8は物輸現場へ投入された。

 案の定、スポンサーからのクレームは本社営業部へすぐに入ってきた。ミル8は、外気温度が20度以上になると吊り上げ能力が極端に低下し、ベル204212214BSA330Jに比べれば機動力もなく、山上に運ぶ物資が思うように消化出来なかった。あっという間に、日本中のスポンサーの現場から締出しを食ってしまったのである。

 会社上層部は、ミル8の使い道に苦慮し売却を考慮しても他社の引き合いもなく、長期防錆処理後、長い間へリポート脇の芝地にのざらしになった。
 
ところが、冬場に山から高級材木のみを1本吊りする仕事が舞い込み、やっと航空局からパイロット1名での限定運航が認められ、またエンジンの常用出力内での運用から、時間制限のある離陸最大出力を離陸以外の物輸作業にしようの可否についての技術的な問合わせに対する回答がソ連当局からあり、ダメ8とかお荷物と言われ続けた機体が、スーパー8(ハッチ)として蘇ったのである。

 ダメ8だった時の吊り上げ能力が2tいかなかったのに対して、スーパー8になってからの能力は最大4tとなった。この能力は、ベル204・1t、204−2・1.3t、212・1.2t、214B・2.7t、SA330・3tを超える能力となった。

 スーパー8はたちまち材木搬出のエースになり、物輸も20度以下の北海道などに投入され、真冬にその能力をフルに発揮した。スーパー8は90年にロシアで政変が起きるまで大きいトラブルもなく飛び続け、なんと1時間あたりの整備コストが500円と稼働率の悪い手のかかる大型へりの100分の1以下の数値である。残念ながらソ連の崩壊による部品供給がストップし、16年点検もせまり、おしまれながら引退となった。


その3 03/10/11 岡山にも来ました HAWKさん 

 MIL8に関するエピソード、非常に興味深く拝見しました。機体の輸入や実際の運用に関してこれほどの苦労があったとは....。
 考えてみれば当時はソ連との間には厚い壁がありましたから余計に苦労が多かったと思います。
 日本では貴重な機体ですが余りにマイナーだったためか詳しい資料など見たことがありませんでした。ですから余計に感銘を受けました。

 写真は1990年6月6日に岡山空港へ飛来したMIL8です。生きている機体を見たのはこの時が最初で最後です。
 同じ岡山の岡南飛行場にも飛来実績があるようですが残念ながら僕は見ていません。