7月29日の伊藤音次郎展の最終日に音次郎の末っ子井上和子さんの「父、伊藤音次郎を語り継ぐ」と題する講演を聞いてきました。菊田公民館3階のさほど広くない会議室に満員のほとんどが年配男女が集まりました。講演は人間音次郎が中心でしたが、面白いエピソードが聞けました。
音次郎の航空史実は過去の文献にもあるので省略しますが、あまり知られない個人的エピソードで微笑ましかったのは、1916年(大正5年)1月8日に伊藤式恵美第1号機で民間機として初の稲毛海岸から帝都東京への往復訪問した時は吹きさらしの操縦席は寒くてたまらず1升瓶を持ち込んでチビチビやりながら飛んだそうです。その話しを
、戦後も大分経ってから地元小学校で話したところ全生徒から大ブーイングを受けたと和子さんの話しで会場は大笑いになりました。
また、音次郎の長男は1936年(昭和11年)谷津沖に練習生操縦の練習機に同乗して墜落、20歳で亡くなっています。その後、終戦後の音次郎は航空界から去りましたが、それまでに軽飛行機54機、グライダー各種200機余りを製作したそうですが、グライダー界は分かりませんが、一般にはあまり知られていないかと思います。そして終戦後は国から竹林14町歩の払い下げを受けて伊藤飛行機研究所の7家族を引き連れて入植しました。
それから戦後の苦難が始まりご家族は大変な思いをしたようですが、後年、その場所が東京(成田)新国際空港予定地の真ん中になって、1967年(昭和42年)に空港公団へ契約第1号で入植地を譲渡し、習志野市袖ヶ浦に居を移したそうです。
講演が終わって質疑応答になり、地元なので昔の音次郎さんを知っている人や伊藤飛行機研究所に終戦まで働いていた昔のお嬢さんが現在84歳で来られていたりで
、ひとしきり昔話しで和ができました。航空史としてより音次郎人間史で良かったと感じました。もし音次郎が戦後も航空再開に関わっていたら、もっと航空界の大人物になったと惜しい気もしましたが、国からは勲五等双光旭日章と正六位、およびFAIから表彰状を授与されています。そして1971年(昭和46年)に80歳で亡くなりました。
以上、その他もいろいろ出ましたが、長くなるのでこれまでにします。先日の大石治生さんのリポートにはないので賞状類を添付します。