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航空歴史館 掲載05/03/30

 

A3610-1 東京都目黒区 東横線学芸大学前のうどん屋
      Meguro-ku, Tokyo Metropolitan
                        
▽ 大正時代のカーチスのプロペラ

ヒコーキ野郎1976年6月号「うどん屋にあった60年前のカーチスのプロペラ 」から 

まえがき(要約) 

 1976(昭和51)年ごろ、ヒコーキ野郎編集部の記者が、東横線の学芸大学駅前にある”うどん屋”という店の奥で偶然木製のプロペラを見つけました。

 プロペラのそばには「日本で最初の飛行機プロペラ(フランス製)東京代々木原にて 徳川大尉試乗明治末期」と 説明がありました。

 うどん屋の主人に尋ねると6〜7年前に中里善三(故人)という人から3万円くらいで譲ってもらったということでした。中里さんの話から、このプロペラ が、徳川大尉が日本ではじめて飛んだときの飛行機のプロペラであると聞き、説明をつけて店内に飾ったのだそうです。中里さんは腕のよい板金工で飛行機製作のメンバーであり、アンリ ファルマンをを解体するときに記念として貰ったものだと言っていたそうです。

 これが事実なら国宝級のプロペラということにもなりかねないのでヒコーキ野郎記者は早速野沢 正さんとともに、その探求に乗り出したというわけです。

野沢 正さんの記述 (ご本人執筆のものかどうかは未確認)


 明治43年12月19日、日本ではじめて飛んだ動力付飛行機 アンリ ファルマン1910年型についていた木製プロベラが東横線の学芸大学駅前にある”うどん屋”にあるというので、早速出かけてみた。急な話なので、特に予備調査もせず下見のつもりで拝見したところ、一見して、明治末期か大正ひとケタ時代の逸品であること は、間違いないものと直感した。

 早速、アアンリ ファルマン1910年型についていたプロペラを調べてみた。

 徳川好敏著 「日本航空事始」に、12月15日の滑走試験中に橇が地面の突起にぶつかって車輪が抜け、プロペラと支柱2本を破損して困っていたところ、奈良原委員の手元にグノーム式発動機用の金属製プロペラがあり、徹夜で取り付けた、という記述がある。

 したがって、ここにある木製プロペラは、15日に滑走中に破損したものを後に修理したものと、一応推測される。

 しかし、念のために更に調べてみると、次の点でこれはアンリ ファルマン1910年型のプロペラではないことが確認できた。

 @ はじめアンリ ファルマンについていた木製プロペラは、フランスのショピエール社製で、直径が2.6b、ピッチ1.3bであったのに対して、このプロペラは半径1.25bで、ピッチはそれよりもかなり浅いようである。

 A プロペラ ブレードの形態が、ショピエール社製とはちがい、全体的にわずか細身である。

 B ハブ フランジの両側に菱形の止め金がついているが、ショピエール式プロペラではこれをつけでいなかった。

 C  アンリ ファルマン1910年型グノーム50馬力エンジンは、エンジン マウントとクランクケースの中間にプロペラを 配置したロータリーエンジンであるが、このプロペラは軸穴が小さく、ふつうのクランクシャフト直結用のハブ フランジをつけている。

 以上のようなわけで、このプロペラは、アンリ ファルマン1910年型のものでないことは確かであるが、中里さんが話したようにその代用プロペラなのか、そうではないのなら、いったいどの飛行機についていたものなのだろうか。

 この特殊な菱形フランジつきプロベラの正体をつさとめるため、臨時軍用気球研究会時代のプロペラの資料を調べてみた。その結果は一応次のようなものである。

 @ アンリ ファルマン1910年型をはじめ、多くの会式国産機を徳川委員のもとで製作整備した実務者は、中里五一技手と 大島儀三郎作業手の2人を主任として、杉山吉太郎、平野甚蔵両一等卒および数名の大工と助手の兵卒約10名あった。

 会式とは、臨時軍用気球研究会の略称で、所沢ではこの会式の設計主務者である徳川大尉の名をとって、徳川式とも称し、現地の新聞記者が徳川式と報道したため、 一般には徳川式と呼ばれるようになった。

 A 国産の会式(徳川式)には明治44年の1号機から、途中の4号機を除いて、大正5年の会式7号機までの各型があり、その後は制式1号機、2号機の名で製作が続いた。

 B 以上のうち、会式7号機という名の機体にほ、大正4年の会式7号偵察機(1915年塑アンリ・ファルマンの国産化)および大玉5年の会式7号駆逐機(沢田中尉 主務設計の最初の国産戦闘機)およびモーリスファルマン1914年型改造機(通称 改造モ式14年型)の一部の機体だけが、アメリカ製のカーチス水冷式V型8気筒90〜100馬カエンジン をつけていた。

 

 

 

 

 

C 当時、菱形の補強フランジをつけたプロペラは、日本ではカーチス式だけで、今回の木製プロペラは、ハブ フランジ部木製本体および先端部の金属鈑覆いとも、前記の3機種のものに酷似していて、臨時軍用気球研究会ではカーチスエンジンつき以外の飛行機には、同類のプロペラは見当たらない。

 以上により、結論として、このプロペラはアメリカのカーチス社製作で、大正4年頃に輸入したものに、ほぼ間違いないことになる。

 しかし当時、アメリカのカーチス飛行学校で操縦術を習い、カーチス・プッシャー複葉機をもって帰国した日本人民間飛行士数名がいたし、アメリカ人曲技飛行士の何人かが、カーチス・プッシャー複葉機で興行飛行をしていたので、これらの機体の予備品として持ち込んだものを、研究会が手に入れて、前記の機体にとりつけたとも、考えられないこともない。
 
 したがって、この木製プロペラが、はたしてどの機体につけられていたかは、当時の関係者を捜し歩いて思い出話をきくほかに、手がないのである。
 
  なお、当時の資料によると、 このプロペラはマホガニ板の積合材で、ハブ・フランジは鋼鉄製、止めボルトは8本、フランジの穴は前部16個、後部8個、ブレード 端部はカーチス式鋼鈑覆いで、最高回転数は1200回転/分となっている。

 また中里善三氏と中里五一氏の名前のちがい、もし、別人ならその関係も知りたいものである。

                                     (以上 転載許可済み)