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[45-1] 占領直後の東京飛行場
都道府県別・展示保存機総覧 A3611-06 東京都大田区羽田 東京国際空港 Tokyo International Airport, Ohta-ku, Tokyo Metropolitan |
新 零式輸送機11型 L2D2の残骸
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写真で見る東京国際空港の歴史 占領直後の東京飛行場
1945年の東京飛行場1945/08/15 大東亜戦争終結 1945/08/24 GHQ命令 日本航空機の一切の飛行を停止 1945/09/02 GHQ命令 全国の航空施設の良好な状態での維持 1945/09/12 GHQ 飛行場を接収 1945/09 GHQ命令 MC20、DC-3、白菊27機を松戸へ輸送
その他は埋立のため鴨池に投棄1945/09/18 松戸飛行場へ移動の最後の白菊が離陸
参考 松戸及び立川からの終戦連絡飛行1945/09/14 松戸飛行場から緑十字飛行開始
急行便:松戸-伊丹-板付
普通便:松戸-小牧-伊丹-高松-岩国-大分-板付
松戸-仙台-青森-札幌
松戸-新潟-富山-伊丹1945/10/10 緑十字飛行終了 最終機は天候不良にため翌11日福岡を離陸 1945/10/11 立川から米軍C-47により連絡飛行開始 コースは同じ 1945/12/31 GHQ命令 航空に関する事業、研究等一切を禁止 1946/02/06 米軍による連絡飛行停止
以後航空機による終戦連絡業務は地上交通のみによる
撮影1945/09/20 提供杉山弘一
以下の写真は、1945(昭和20)年9月20日、戦艦ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式の 時に示威飛行をしたB-29から撮影されたものです。
緑十字飛行のために松戸へ送られた機体の残りが見えますが、間もなく鴨池に投げ捨てられたものと思われます。
A
Aの拡大
Aの拡大
B
Bの拡大
Bの拡大
C
Cの拡大
Cの拡大
Cの拡大
1945年の東京飛行場地図 1946年の航空写真(地図の赤線の部分)
日替わりメモから転記
〇 空撮 占領直後の東京飛行場
大東亜戦争中に、連合軍が如何に日本の航空力を恐れていたかということが、戦後GHQから発せられた多くの命令書によって裏付けられると思います。軍事航空を徹底的に封じるのは戦勝側として当たり前のことですが、それが民間航空にまで及ぶと少々異常な感じを受けるほどです。つまり、1945年8月24日以降一切の日本国籍の飛行停止、そして同年12月31日
航空局の廃止、
民間航空の一切の団体の解散、
すべての航空機及び部品の購入・所有・譲渡・運転・実験の禁止、
航空力学その他一切の教授・研究・実験の禁止
という徹底ぶりで、歴史上ここまで根こそぎに処置した例があるのかというほどです。よほど日本の航空力を恐れていたのでしょう。しかし、一方で、飛行場は温存させ、逓信省電波局内に航空保安部を作らせて航法援助施設の維持管理は日本人がやれという虫のいい命令も出しています。
それと、日本政府として全国で混乱なく終戦処理を行うためには各地との連絡飛行が必要という懇願に対して、陸軍のMC-20と海軍のDC-3、白菊を真っ白に塗って緑十字を画いたGreen Cross Flightを約1か月間だけ認めました。(白菊は実際には使われなかった)
しかし、東京起点で各地への限定ルートとはいうものの羽田は使わせず、千葉県松戸からという変則ぶりでした。さて、ホームページを休止している栃木の杉山さんから久しぶりに写真の提供がありました。
ミズーリ号での降伏調印式に上空を示威飛行したB-29から羽田を写したものです。見た途端に日本陸海軍機が集結している‥‥と息を呑んだのですが、歴史記録と照らし合わせてみますと、どうもまともな飛行機はGreen Cross Flightのために松戸へ送られ、その後の残存機のようであります。断定する自信はありませんので、機体の種類など虫眼鏡と併せて皆さんの鑑定をお願いします。いずれにしても、羽田に残った機体は鴨池に放り込まれ、松戸で役目を終えた27機は焼却され、航空人たちの呆然自失、悔し涙の前で日本の航空が終わりを告げたのでした。
東京飛行場は、鴨池のみならず海面も埋め立てられて、その後のAラン、Bランを擁する大拡張工事が米軍によって行われ、皮肉なことに、あれほど痛めつけられた日本の民間航空なのに、羽田が再開日本民間航空の拠点として復活し発展していくのであります。
参考 1934(昭和9年)年の羽田地図 提供杉山弘一