日本のボーイング727初期の歴史
1964/01/13 |
日航と全日空の国内短距離ジェット機をボーイング727とする合意成立 |
1964/01/22 |
全日空が、ボーイング社と購入3機、オプション2機、リース1機を契約
臨時ジェット準備室(44人体制)設置 |
1964/04/30 |
全日空がリースしたN68650 東京国際空港に到着 |
1964/05/15 |
日航が、ボーイング社に第一次発注6機を契約 |
1964/05/22 |
全日空 東京〜札幌線にボーイング727就航 |
1964/10/10 |
全日空の727が東京〜札幌で50分の新記録樹立 |
1965/02 |
日航がボーイング727乗員と整備士の訓練をシアトルで開始 |
1965/03/20 |
全日空の727購入一番機JA8301 東京国際空港に到着 |
1965/07/23 |
日航の727一番機JA8307 TONE 東京国際空港に到着 |
1965/08/01 |
日航 東京〜大阪〜福岡線にボーイング727就航 |
1965/11 |
日航が、ボーイング社に第二次発注5機を契約 |
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全日空のJA8302が東京湾に墜落 両社過当競争の悲劇 |
1964年1月、日航と全日空が国内短距離ジェット機をボーイング727と合意するや否や、全日空が電光石化のごとく契約に動き、いち早くリース機を投入したのに対して、既にコンベアCV880を国内幹線に投入して全日空に水を開けていた日航は、のんびり構えていました。
ところが、全日空のリース機(N68650ユナイテッド航空仕様)を導入して、橋幸男と吉永小百合による「そこは青い空だった」の歌をはじめ大々的に宣伝を始めたため、あわてて就航予定を8か月も短縮しすることにして、ボーイング社に第一次分6機発注し、以後、両社とも機数を増やしていきます。
撮影1964/04/30 N68650 東京国際空港到着の日 にがうり
提供 中井アルバム
雑誌広告
〇 ボーイング727の就航
46年前に全日空がボーイング727を飛ばした時の日本航空のショックは大きかったようです。それまでの日航の国内幹線は、お払い箱になった国際線のDC-6Bで間に合わせるし、全日空がCV440とバイカウントで対抗してくるとCV880を回すというので優位に立っていたはずが、ユナイテッド航空についで世界で二番目に採用した超新鋭のセブンツーセブンが橋幸夫と吉永小百合のゴールデンコンビの歌と共に華やかに登場したからです。
常に、下に見下ろしていた全日空に、札幌線で追い抜かれてしまった腹いせのようなニュースが当時の雑誌に載っています。新鋭機といえどもリースした唯一機での運航では、整備による欠航便の代替が必要であり、全日空はその便だけに日航のCV880のウエットリースを申し入れたのですが、もちろん断られました。やむを得ずバイカウント828で代替したという
のです。
ここで目が覚めた日航は、急きょボーイング社に727を発注し、就航予定を8か月も早めたといいます。両社の情勢判断と意思決定のスピード差を物語るものですが、先頭に立てば必ず足を引っ張られるのたとえのとおり、全日空が727を札幌線だけでなく、福岡線にも投入したいという願いは叶えられず、なんと、設立間もない日本国内航空のCV880に東京〜大阪〜福岡の免許が与えられたのです。全日空は、泣く泣く札幌〜東京〜
大阪〜宮崎という奇妙な727の路線を開設したのでした。
まさに、3社による航空戦国時代、政治家を巻き込んでの熾烈な競争の幕開けでした。