佐伯さんのホームページを覗くようになった昨年以来感じることは、現在日本の航空の有様を見るにつけ、戦後「航空再開」切望から独り立ちしていく姿を同時並行で見聞して来た人共通の飛行機に対する熱い思いが底辺にあることを強く感じている。
その現れがDC−3の研究成果になっていると思う。そのDC−3に「追い付け追い越せ」で各種輸送機が世界中で開発、実用化されてきた緯緯がある。⊂の点からも氏の研究心は日本に現れた「DC−3対抗飛馬」にも心意かれるものがあるのではないかと推察する。
かく言う自分も実際に間近でDC−3を見たり、触ったり機内にコツリリ入ったりした若年時代を体験し、郷愁を覚える機体である。しかし、CV−240の実際に飛んでいる姿を名古屋で見るチャンスは巡ってこなかった。もっとも新幹線など走っていない時代の羽田、名古屋間に就航していたCV−340/440は飽きるほど小さな空港ピル屋上から眺めていた。
いわゆる飛ばなくなった飛行機に巡りあえるチャンスは口コミでの情報が全ての当時、いかにその情報をいち早く入手でさるかはまさに「運」しかないが、経験から言えることは自分の飛行機好きをより多くの周囲の人達が認識していてくれるかによる。幸い職場は全国各地から働きに来た人で成り立っていたお陰もあり、帰郷時にどこどこで置いてある飛行機を見たと知らせてくれる幾人かが居たことが幸いしたと思っている。
今回、資材置場こ無造作に放置してあるCV−240の画像を見せ付けられた時は佐伯さんならずとも胸のつぶれる思いがした。
自分がこのJA5130に初めて会ったのは79年9月1日の休日だった。先述の様に、職場の同僚が冬季スキーヘ出かける折、その脇を通った時に見かけたと知らせてくれたのがきつかけで、展示してあればめったに動かないと判断し、夏まで現物を見に行かなかった事を思い出す。
中央道を中津川ICで降りて付知峡へ向かう途中にその機体は機首を若干空に向けて基礎の上に置かれていた。しかも喫茶店として営業していた。同行した職場の同僚たらは付属階段を登り、機内へと消えた。自分は早速周囲を歩さ回って外観撮影を始めるが無粋な避雷針のコン柱が2本立っているのがどうにも邪魔で仕方がない。東亜航空時代の塗装は既に白ちゃけていたが、よく事故報道に登場した「東亜航空」の実物塗装を見るのは初めてだった。
仲間がくつろいでいる機内へ自分も入ってみて飲み物を注文、見回すとテーフルと対面シートが設置されていたが、操縦席は完全な計器類保存状態だったし、オリジナルの座席もついていた。喫茶調理は後方ギャレーを使用して給仕していた。驚いた事に夏場であったせいかもしれないが、非常脱出用窓が外されて、主翼上面へ出ることが出来る。早速翼上に出てそこからの情景も撮影した。
この後、すっかり忘れてしまっていたこの機体の存在を再び思い出させてくれたのは最初に訪問してから9年後の6月5日で、高山市内の学校校庭に自家用ヘリコフターが集合する情報を聞きつけ、撮影に出かけるにあたって他のルートでも行けるのにワザワザこのCV−240の近況を知りたくて寄り道した。
その時の写真は既に提供した通りであるが、確かに機体は無事もとの通りあったが、なんとも悲しい塗装姿でがっかりした。あのオリジナル塗装は変わり果てた素人塗装でのチンドン屋化粧でしかない。傍らの食事処へ入ってみて更に驚いたのは⊂の不思議な塗装になる前に実は二回ほど化粧直しをしていた様子が写真パネルで紹介してあった。その
一つは派手なレインボーカラーにしていた時期も有った事がわかった。喫茶の営業はしていなかったし、前脚のところには間違った解説文があり一層がっかりさせられた。気を取り直して再度機体各部の撮影をした後、高山へと向かった。
最後に当地を訪問したのは91年6月15日で⊂の時も高山への旅行途中だったが、この時は先回より更に驚きを持って見た。まさに解体作業中であった。エンジンも機首もコロンと路上に置かれ、翼をはずす作業中だった。作業員に所業を尋ねると、浜名湖のホテルヘ運ぶとのコメントだがそのホテル名までは聞き出せなかった。
自分がJA5130の痛ましい姿を見たのはこれが最後だった。
しかし、話はこれで終わらないから世の中面白い。
ソリッドモデル製作から始まった自分の飛行機熱。フラモデルがまだ無い頃、3面図を読み取り削りだしていく過程の面白さを経験した事のある中年は多いと思う。広島の上昇クラフも含め全国ソリッドモデルクラフ合同例会が昨年も愛知県犬山を会場場こ盛大に開かれた。その自分が名古屋を中心に活躍している「名古屋三点クラフ」の門をたたいて仲間入りさせてもらい、先輩の高橋 豊氏と出違った頃、クラフの月例会で件のCV−240が話題になった時、破はたしか1973年7月12日富山のポウリンク場駐車場で撮影した機体だと言い出し、翌月の例会で証拠写真を見せてくれた。その富山へほ新潟の三条ヘスーパーコンステレーションでレストランを開設した経営者への面会の帰路だった。このコニーの話は後日又。
つまり、彼が富山で見てから6年後に福岡町へ引っ越して来た事になる。
佐伯氏のホームページを多くの人達が覗さに来ている証拠だと感じたのは富山での展示情報が零せられた事でも良く判る。この情報を目にして、そう言えばと思いあたり、高橋氏と連結を取り合い、ネガの貸与と写真公開承諾を得る事が出来たので同封、提供するものです(上段E-2)。
今後この機体の動向が気になる所だが、いずれ殖え続ける「飛行機ファン」に見つけられる事だろう。どんな姿を佐伯さんのホームページで見られるか楽しみにしている。
2004.2.2.記
Nagoya Aviation Enthusiasts Society
丹羽八十