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宇治市 大久保駐屯地
大久保駐屯地の滑走路の謎

 

A5424-1 京都府宇治市 陸上自衛隊大久保駐屯地
            Okubo Army Camp, Uji City, Kyoto Prefecture
 富士ベルUH-1H 41631
1976 c/n41631 陸上自衛隊へ引渡
  東北方面ヘリコプター隊で用途廃止
  大久保駐屯地 訓練機材

現役時

東部方面ヘリコプター隊旧塗装 霞目駐屯地 撮影1982/10/24 伊藤憲一

東部方面ヘリコプター隊 霞目駐屯地 撮影1994/04/17 伊藤憲一


2007年

位置が昔UH-1Bがあったところにかわっていました。説明板はなく看板は射撃事前訓練場とありました。やはり保存機ではなく訓練用と思われます。

撮影2007/05/27 KUPANBA


2006年

通用門付近 撮影2006/05/28 KUPANBA


撮影2006/01/03  吉田家


× 富士ベルUH-1B 41542 
撮影2003/06/29   KUPANBA
1968/09/29 c/nMH-43 41542 陸上自衛隊へ引渡
1987/03/13 航空学校宇都宮校で用途廃止
  大久保駐屯地 訓練機材
2005/05/29 撤去確認 

2005年

既に撤去されています。2005/05/29創立記念行事で確認 吉田家


2003年

撮影2003/06/29   KUPANBA


 1990年

撮影1990/05/13 Kamiya

 


× 富士ベルUH-1B UH-1H 41660 
 
1980 c/nMH-60 陸上自衛隊へ引渡
  宇都宮校で用途廃止
  大久保駐屯地に保管 撤去

撮影2006/01/03  吉田家   61式戦車
 

 

大久保駐屯地の滑走路とは? 撮影2004/05/30   吉田家

 05/30大久保駐屯地創立記念日行事へ行ってきました。プログラムに「滑走路地区」と図示してある地域で訓練展示や試乗が行なわれました。



 

昭和62年国土交通省ウエブマッピングシステムより

 なぜ滑走路というのか隊員に聞いてみましたが、むかし滑走路があったらしいという程度の答えしかかえって来ませんでした。上の航空写真ではバートルらしき機体がが2機見えますので、或いは戦時中の軍用飛行場から引き続いているのかも知れないと考え、駐屯地などに照会してみました。

 一般に旧京都飛行場と呼ばれているものは、すぐ隣の久御山町にあった逓信省京都航空機乗員養成所(下記)のことをいい いいます。 日本国際工業鰍ヘ戦後鞄産車体となり、東側半分は米軍に接収されたのち陸上自衛隊大久保駐屯地となりました。

 このことについて関係先からのお答えは次のとおりであり、結論として滑走路は、戦後作られたものであ りました。2004/07/10

 

京都府久御山(くみやま)町の回答

 京都飛行場とは昭和14年に逓信省が計画し昭和15年2月に着工され、昭和17年4月に飛行場と乗員養成施設の建設がほぼ完了したとあります。(久御山町史)
 また、乗員養成施設は昭和19年8月に閉鎖され、飛行場は終戦後、昭和22年ごろから開墾が認められ、農家に払い下げが行われました。記念碑は、昭和 53年に乗員養成所関係者により建立され、平成15年に久御山町中央公園に移設されたものがあります。
 お尋ねの駐屯地内滑走路は、詳しい資料が町には無く確実なことはわかりませんが、国際工業の施設でありおそらくテスト用のものではなかったか (注)と思われます。
 資料としては「久御山町史」第二巻、「巨椋池干拓史」があります。

(注) この部分は下記TRONさんの米軍航空写真による考察で明確に否定されました。

陸上自衛隊中部方面隊大久保駐屯地広報課の回答

 大久保駐屯地は当初日本国際航空工業株式会社が所在し(昭和16年以降)戦後その跡地に米軍第6軍の1部が駐留。 (昭和20年)
 昭和30年に返還され32年に姫路から第10特科連隊が移駐し大久保駐屯地が誕生いたしました。
 駐屯地内の滑走路は平成14年度末にその長さを390mから195mへと縮小され(一部駐車場等に
使用されるためであり、土地自体が削られたわけではありません)現在は回転翼機(ヘリコプター)用として運用されています。滑走路を造る途中で頓挫したものではありません。
久御山に大きな飛行場があったという話は聞いていますが、詳しいことはわかりません。
 駐屯地内滑走路は現在も回転翼機用として運用されていますが、昭和30年頃においては単葉単発機の離発着もされていました。
 (32年洛南タイムスという新聞において単葉単発機の転覆事案が掲載されています。いつごろから回転翼機専用になったかは不明です)
 飛行場が開設された年は前述の株式会社が開設された年と見なされるので、昭和16年となると思われます。

 

1948(昭23)/03/30米軍撮影の航空写真による考察 TRON 2004/07/10記

 大久保駐屯地の滑走路の件ですが、駐屯地広報の回答ではどうも戦時中に作られたと述べていないように思われます。

 駐屯地内の「滑走路」と「飛行場」をわざわざ言い分けているところからも昭和16年に開設されたのは駐屯地の西にあった京都飛行場を指していると思われます。その上、すぐ西側に広大な京都飛行場があるのにわざわざ航空機工場の敷地内に滑走路を設けるというのも不自然です。
 気になったので、当該地の米軍空中写真(昭和23年3月30日撮影)を取り寄せたところ、案の定、滑走路はどこにもありません。
 つまり、現在の大久保駐屯地の滑走路は戦後、米軍または自衛隊(保安隊?)時代に作られたと見るのが妥当ではないでしょうか?もちろん、大久保駐屯地の滑走路ができた時期には、京都飛行場は閉鎖されていたはずですが…。

 米軍空中写真(昭和23年3月30日撮影)は著作権の関係で掲載できませんが、現滑走路地域の殆どの部分は造成更地状態であることを確認しました。佐伯