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航空歴史館

掲載04/06/22
更新23/01/28
 

伊丹基地の米海兵隊ベルHTL-4(47D-1)とHTL-5(47G)

4車輪タイプとスキッドタイプ

解説 山内秀樹

4車輪タイプ ベルHTL-5(47G)

ベル HTL-5 NAVY  VMO-2   LS-3 提供?

VMO-2   ベルHTL-5 LS-3
VMO-2を中心とする関連年表

1953/07

VMO-2(米海兵隊第二観測中隊)がカリフォルニア州のMCAF SANTAANAからMAG-16(米海兵隊第16航空大隊)と一緒に西太平洋に展開

1953/07

MAG-16先発隊のVMO-2がCAMP GIFU(岐阜)に展開

1953/07/27

休戦協定が発効

1953/07/13

MAG-16が八尾市のMCAAF HANSHIN(現在の八尾飛行場)に展開

HRS-2(S-55)を装備した米海兵隊ヘリコプター輸送大隊2個(HMR-162[HS]及び HMR-163[HP])を傘下に納める

1953/07/31

VMO-2の一部は、07/31〜08/26にかけて軽空母USS BATTAAN (CVL-29)の艦上に展開し、停戦違反などの不測の事態に備える

1953/08/13

VMO-2本隊はCAMP GIFUから1ST MAW(米海兵隊第一航空師団)の本拠地であったMCAF ITAMI(伊丹飛行場)に移動

装備機はOE-1(米陸軍のL-19を移籍したもの)、HTL-5(ベル47G)及びHO5S-1( シコルスキーS-52)の混成

当時の伊丹は 、F9F-5, F2H-2P, F3D-2等のジェット戦闘機や偵察機、AD-4等の攻撃機がズラリと並び、その間をR4D, R5D, R4Q等の輸送機が発着する状況であった。従って、伊丹のVMO-2はHTL-5やHO5S-1を使用して、八尾との間に連絡便を頻繁に飛ばしてい た

1955/03

VMO-2がキャンプ岐阜に移動

1955/11

追浜基地でMAG-16に合流

1956/04

追浜のMAG-16は、1956年4月に沖縄のCAMP ZUKERAN(瑞慶覧)に移動VMO-2もこれに従う

 

約2年ほど追浜に留まったMAG-16は、1956年4月に沖縄のCAMP ZUKERAN(瑞慶覧)に移動、VMO-2もこれに従 いました。
 
 このころVMO-2のヘリコプターは 、HOK-1(カーマンH-43)に機種統一され、OE-1(セスナL-19)と混成で使用された

1960/10

MAG-16はMCAF FUTEMA(後に日本語の地名に会わせてMCAF FUTENMAとなり、1969年にはMCAS FUTENMAとなる)にVMO-2も共に移動

 以上のような経過の中で、上記の写真は1953年以降に岐阜、伊丹、八尾、追浜のいずれかで撮影されたものと思われますが、伊丹の公算がつよいです。また、HTL-4以降の降着装置はスキッドタイプ なので、-5の4車輪の写真は非常に珍しいものです。空母着艦のために取り替えられていたのかもしれません。

 子供の頃は爆音で機種を聞き分けていましたが、HO5S-1とHTL-5のエンジンの音はそっくりでも 、HTL-5はローターが2翅のためパタパタ音が強く、3翅のHO5S-1と充分に聞き分けられました。 なつかしく思い出しています。

 

スキッドタイプ ベルHTL-4(47D-1)

航空情報第2集 1951年11月発行 ヘリコプター特集より


       
 

       

このHTL-4の所属部隊は、恐らくVMO-6 (コードWB) です。

VMO-6を中心とする関連年表

1950/06/25

朝鮮戦争勃発

1950/07/14

VMO-6がサンディエゴを出港

1950/07/31

神戸入港 

OY-2(スチンソンL-5)が埠頭から離陸し伊丹基地を経由して芦屋基地へ

HO3S-1(シコルスキーS-51)は埠頭から伊丹基地、岩国基地経由で芦屋基地へ

ブリーフィングの後対馬海峡を横断して82日釜山に到着、直ちに釜山防衛戦に投入

VMO-6は、仁川上陸作戦、元山上陸作戦、鴨緑江近くまで進出、そして中国義勇軍参戦に伴う撤退作戦等を通じて米海兵隊の弾着観測支援と傷病兵後方輸送に大活躍。

この時点まで使用してきたヘリコプターはHO3S-1のみ。

1950/12/28

VMO-6が馬山(釜山西方)基地でHTL-4を受領

この時点で、HTL-3(後部胴体に外皮を張り、4車輪式)2機と、HTL-4(骨格剝き出しの後部胴体とスキッド式降着装置)3機配属、前線での使用にはわずかでも大きなペイロードを持つHTL-4が選択された

ベル HTL-3

1951/01

士官4名と整備兵11名から成るVMO-6の分遣隊が伊丹基地に置かれ、主としてHTL-3/-4の整備を担当した

伊丹分遣隊は少なくとも19511月〜6月までは存在した

上記航空情報の写真は、その間に撮影されたものと思われる

1951/01/13
〜16

VMO-6本体は馬山から浦項(K-6)に移動

1951/05

OY-2に代わってOE-1(セスナL-19)の装備が始まる 
装備機種はHO3S-1HTL-4OY-2OE-1となった

1952/03/19
〜29

VMO-6は西部のA-6(MUNSAN-NI)基地に移動

19524月一杯でHO3S-1OY-2の残存機は米本土に送還され、装備機種はHTL-4OE-1に統一された。

1952/06

19526月にはHO3S-1の後継機としてHO5S-1(シコルスキーS-52)が配属され、装備機種はHO5S-1HTL-4OE-1となった

1953/07/15

米本土で多発したHO5S-1の後部胴体の破損事故に伴い、VMO-6HO5S-1も原則飛行禁止

1953/07/23

朝鮮戦争休戦協定締結

1953/08

VMO-6HTL-4は全機米本土に送還

1953/10

HO5S-1の後部胴体補修部品が到着

1954/08

VMO-6HTL-5(ベル47G型)配属

装備機種はHO5S-1HTL-5OE-13機種となった

1955/02

VMO-6HTL-5は全機追浜基地に集結、米本土への船積みを待ち、VMO-6本体は19553月に米本土キャンプペンデルトンに戻った。

VMO-6の米本土帰還に先立って、朝鮮戦争停戦直後の1953813日にはMAG-16VMO-2(HO5S-1OE-1の混成)が米本土から伊丹基地に進出

MAG-16の本隊(傘下にHRS-2(シコルスキーH-19)を装備するHMR-162[HS]HMR-163[HP]を収める)はMCAF HANSHIN(現・八尾空港)に同時に進出

 以上のような経過をたどりますが、スキッドに担架を取り付けたHTL-4には、傷病兵を運送中に暴れ出したため緊急不時着陸、衛生兵とパイロットが患者を担架に縛りつけ、離陸して病院船に送り届けたという逸話もあります。

 意識朦朧の傷病兵がふと気が付けば、キャンバスに包まれているとは言うものの担架ごとローターのダウンウォッシュの吹きすさぶ機外のスキッドに固縛され、見回せば空、そして下には海、頼りになる衛生兵は球形キャビンの中で、患者からは手も声も届かないとなると、暴れたくなるのも理解できます。

 意識がしっかりしていても、このような形態で空中旅行はしたくないですね。

 しかし、HO3S-1(S-51)では胴体左右のスライディングドアーを後方に開き、サイドバイサイドの後部座席の上に担架1基を固縛したため、患者の頭と足が胴体の左右に突き出た格好で飛行していました。
 これも患者にとってはかなりキツイ乗せられ方で、同時に2名の傷病兵を担架で輸送できるHTL-4方式によって改善されたことになっています。

 昨今MV-22オスプレイの訓練基地として八尾空港の使用云々が取りざたされているが、日本における米海兵隊ヘリコプター部隊の最初の駐留基地(いわば発祥の地)が八尾であったことを歴史認識すれば、八尾、追浜、瑞慶覧、普天間と移動した米海兵隊回転翼機部隊の八尾回帰については歴史的に不自然さは感じません。

 そして、伊丹基地のVMO-2HO5S-1HTL(ベル47)にそっくりな爆音(フランクリンエンジンが同じため、但しメインローターが三翅なのでバタバタ音が異なる)を立てながら八尾基地との連絡で頭上を常に飛行していたのを想い出します。

 普天間基地周辺の方々の長年の苦悩は、大阪府民は既に朝鮮戦争直後から経験していたことなのです。