感想 三面図の機体は高左右式6号機ではないか
山口県航空史研究会 古谷眞之助
T・N5号の製作者・高左右隆之は、私の調べた限りでは、山口県で初めて動力飛行機を行なった民間パイロットです。大正4年3月14日、午後6時、および15日午後6時、防府市において自作の機体で県下初の動力飛行(約5分間、7分間)を実施しているので、山口県の航空マニアにとっては最重要人物の一人と言わねばなりません。 T34参照
さて、感想を書きたいと思うのですが、まず高左右が高左右式4号を携えてアメリカから帰国したのは大正3年(1914)3月23日のことです。確かに一世紀前のことではありますが、その頃を指して「神話の時代」と表現するのは、私の感覚からは、ちょっとおかしいと言わなければなりません。せめて「航空黎明期」とでも表現して欲しいところです。筆者の中氏と高左右とは14歳違いでしかないのですから、この時代を神話の時代と言うのなら、中氏ご本人も神話の時代に生きた人ということになります・・・。
のっけからケチをつけて恐縮なのですが、もうひとつ。高左右がアメリカから持ち帰ったエンジンは、ここに書いてあるカーチス式ではなく、ホールスカット式
( Hall-Scott V-8
)60馬力エンジンだったと多くの資料には書いてあります(例えば、モデルアート社、日本航空機辞典上巻など)。
自動車に造詣の深かった高左右が考案したらしいスリー・イン・ワン方式の説明の部分、「左の足はスロットル、つまり自動車のアクセレーターとおなじであり、右足はブレーキ」というところは、他の資料では、右足がスロットル、左足がブレーキ、としています。その方が当然説得力がありますし、私もてっきり中氏の勘違いだと思ったのですが、念のためT型フォードの構造を調べてみると、確かに右足がブレーキで、スロットルは右レバーにあったようです。ちなみに左足はクラッチだったと書いてあります。実際どのようだったかはよく分かりません。
文面から、中氏はこの機体の組立、整備をしっかりやられたように感じられ、機体の構造や分解方法などについての記述は、実際にそれに携わったものにしか分からない実に詳しいものと言わざるを得ません。
この当時、高左右はじめ、坂本壽一ら多くの多くの黎明期の民間パイロットたちは、いわゆる興行飛行を各地で実施していましたが、移動は機体を空輸するのではなく、貨車に分解して鉄道輸送するのが一般的でした。事実、防府市でも高左右は山陽本線を利用して機体を運んでいます。鉄路がない場合は、馬車でした。大正5年、つるぎ号が山口市で飛んだ時は、その前の飛行会が実施された浜田錬兵場(
島根県 )から12台の馬車によって陸路を運ばれています。貨車や馬車での輸送を前提とすれば、機体分解が効率良く行えるかどうかは設計上の重要事項でもあったと思われます。また、機体組立には3日を要したとありますが、かなり小さく分解していたから当然のことで、防府市での場合、到着が3月8日で飛行会が3月14日でしたから、5〜6日を要しています。
なお、文面からは高左右は日本のライセンスを取得していないように感じられるかと思いますが、その後しばらくして実業界に転進した高左右は、大正10年10月10日付けで、我が国の航空免状第29号(三等飛行操縦士)を取得しています。大正2年に取得した万国飛行免状は219号でした。
最後に、「T・N式5号」という機体の呼称について、述べておきたいと思います。中氏は「高左右のTと中島製作所のNの両頭文字を合わせたもの」と書いておられますが、平木國夫氏は航空情報1997年7月号に「一部の航空記者たちは、高左右のTと、中島のNをとって、高左右式T・N飛行機と命名した、と伝えた」と書いておられ、必ずしもそれが正式名称ではない風に書かれておられます。
この件について、高左右の孫にあたる小川氏に再確認したところ、高左右が残した5号機の写真のキャプションとして彼は単に「TAKASOW
5」とのみ記していることから、新聞記者が便宜上そのように呼んだだけであり、正式な呼称としては「高左右式5号」が正しいと私は考えています。
それよりももっと重要なことがあります。それは中氏が書いておられる三面図画が、はたして高左右式「5号」機であるかという点です。以下の資料から、私はこの機体は5号機ではなく、高左右式6号機だと考えています。その根拠として、
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小川氏の保存されている写真「Sep 24 1915
大阪城東錬兵場にてTAKASOW 5」と解説の書かれた写真の機体は、明らかにプッシャー式の機体であり、中氏の書かれているようなトラクター式ではないこと.
資料提供者 小川清之氏
A 「写真集日本の航空史(上)」33ページに掲載された高左右式5号機は、同じく、明らかにプッシャー式の機体であり、中氏の書かれているようなトラクター式ではないこと
B
航空情報1997年7月号の平木氏記事では、同じく5号機として掲載された写真の機体はプッシャー式であり、6号機と説明された写真の機体は明らかにトラクター式であること。
C
小川氏の保存されている写真で、アート・スミスとともに写ったトラクター式の機体に、高左右氏自ら、「高左右六号トラクター上のスミス氏」と書き込んでいること。トラクター式の機体で写真に残っているものは6号機のみであること。
の4点が指摘できると思います。これにより、私は中氏による三面図の機体は高左右式6号機
T・N6だと考えています。
文、図面ともT・N5として書かれていますが、古谷さんの検証のとおり、これは明らかにT・N6であり、中正夫氏の勘違いであると断定します。
理由
・ 1980年刊日本航空機総集第8巻 九州・日立・昭和・日飛・諸社篇 156ページに[高左右 TN-6 トラクター]として三面図と同じ形状の機体写真が載っています。
・ T・N(高左右・中島の頭文字)は、高左右6号機に付けられた記号であり、高左右5号機までにはT・Nの文字はありません。例 : 1980年出版協同社刊 日本航空機総集第8巻の目次
・ 高左右5号機は、アメリカから持ち帰った4号機に改良を加えたものであり、機体はプッシャー式でした。1960年酣燈社刊日本の航空50年によると、この写真を高左右式第4号機としています。
説明では、鳴尾競馬場での撮影のように受け取れますが、傍らの人物などからみてアメリカのようです。機体は、万国飛行免状を取得した時の自作第3号機又は凱旋帰国用に自作した第4号機のどちらかと思われます。
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