古谷眞之助さんによる自費出版三部作の最後の出版です。明治19年三家本鶴蔵なる大工が羽ばたき機を作って飛ぼうとした時から、中国航空協会が創設50周年を迎えた平成30年3月31日までの調べられる限りのすべてを調べて記録した年表に加えて著者がこれまで発表したノンフィクションやエッセーという内容です。
地方の滑空史として高い評価が得られるものと思いますが、その意味で、前二作に肩を並べるものであり、そのことを訴えようとすると前二作の推薦文を繰り返すことになりますので、自信をもって推薦するとだけ述べて終わりにします。
以下は、佐伯邦昭の独断と偏見による全く個人的な感想です。著者から正しくないよと批判を受けるのを覚悟の執筆です。興味のない方は読まないでください。
1
著者の肩書
古谷さんは、肩書を山口県航空史研究会としていますが、本書に限って言えば「中国航空協会
会員」の方がふさわしい筈です。
なぜなら、中国航空協会が、今年創立50周年を迎えその節目を機会に協会と山口県の滑空の歴史を書き残しておくべきだというのが、古谷さんの年来の主張であったと仄聞するからです。
しかし、歴史記録よりも、今の活動にこそお金を使うべきだという風潮があって、それならばと古谷さんが自費出版を決断したのでしょう。私は、山口県航空史研究会の実態を存じません。
2 題名に隠された皮肉
山口グライダー物語の「物語」とは何じゃ? 本書の構成の柱ーすなわち中核となるページは、230ページに及ぶ古谷さんが丹念に調査収集した山口県滑空史年表、その資料及び写真であります。
「物語」とは、講談社の日本語大辞典によれば日本の散文文学の一様式とありますから、年表は「物語」はふさわしくありません。
後半100ページ弱の「エッセイ」はまさに散文型式の物語なのですが、過去に発表済みのものも多くあり、第三者にとっては付録的なものです。
古谷さんは、これに力を入れたから「物語」なのよ、と言いたいのかもしれませんが、本書全体構成からすれば、謙虚に過ぎる、もしくは誰かに対する皮肉?
3 中国航空協会の歴史は広島の滑空史でもある
年表は次の構成であり、中国航空協会が山口県滑空史のなかで
大きなのウエイトを占めていることが分かります。す。
年表 1 山口県滑空史・前期編 黎明期から中国航空協会発足まで
年表 2 山口県滑空史・後期編 中国航空協会発足から現在まで
そして、それを補完する資料の冒頭に次の3点が掲載されています。
昭和42年10月の中国航空協会設立趣意書並びに会則
昭和44年5月の中国航空協会第一回定時総会議事録
昭和45年5月の中国航空協会第二回定時総会議事録
広島県人たる私は感激しております。宮野 修さん、よくぞ保管していてくれました。古谷さん、よくぞ全文を載せてくれましたと。中国航空協会は、昭和27年頃から広島市吉島飛行場で学生らを訓練していた小田 勇さんや宮野 修さんら広島グライダークラブの延長線で中国5県の各クラブや飛行場と連携を図る目的で創立したのでした。
その意図の中には、吉島飛行場が工場の建設などで次第に使えなくなり、練習の主体を山口県防府市の航空自衛隊防府北基地に移さざるを得なかったので、山口県のグライダークラブを取り込んでおこうという打算もあったのでしょう。
いずれにしても、中国航空協会の発起人も総会会場も事務所(小田億)も広島市でありましたから、3点の資料と小田 勇さんらの吉島や野呂山の写真の範囲において「広島県滑空史」であります。 (広島吉島飛行場の歴史 1952年以降 グライダーの訓練と小型機の利用 参照)
4 懐かしい名前
↓の写真は、小田さん操縦のシュペール ラリ(小田億)から宮野さん操縦の三田3改1グライダーを写したものです。防府市内上空です。
宮野 修さんによる裏書
撮影は、毎日新聞広島支局鴨谷記者とあります。愛称鴨ちゃんは、広島支局のカメラマンでした。私は、昭和32年にアルバイトをしていたので懐かしい名前です。上記3点の中国航空協会資料にも鴨谷の名がありますので、彼の小田さん宮野さんらとのつながりは相当に深いものがあり、グライダーの写真もかなり写していることでしょう。毎日新聞社の収蔵資料の中に残っているかもしれません。
5 小田 勇さんの子息のこと
資料と言えば、世界の滑空界に知られた小田 勇さんも相当の資料をもち、その没後は子息の基治さんに引き継がれていると考えます。よって、基治さんを当たれば、広島・山口の滑空関係の資料が豊富に出てきそうなものです。
しかし、基治さんは父親譲りのグライダーマンで相当の腕を持っていたそうですが、何故か中国航空協会とは疎遠だそうで、古谷さんも接触する気がなかったようです。(佐伯も、ある事情で基治さんとは疎遠です)
写真は、基治さんがJA2087三田3改1で飛んでいるのを見上げる父親とハンディトーキーで指示を与える宮野さんです。昭和46年頃の防府北基地ですが、このように中国航空協会を活用していたのですから、基治さんには、心を開いてもらいたいものです。
6 ヒコーキ雲上に既発表の古谷論考及び本書に関連するページ一覧
G01 |
日本のグライダーの初飛行について 5 日仏合作グライダー100年記念講演会の模様と感想 6 日仏合作グライダーの模型展示について |
G04 |
巴式ろ之参型セコンダリーJA0005 中国醸造号について |
G06 |
航空法施行前のグライダーのJA記号について |
G08 |
新制中学校でのグライダー訓練 広島県豊田郡安芸津町立安芸津中学校の記録
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G12 |
幻の滑空飛行第1戦隊 改訂版 追補版 |
G17 |
枕崎飛行場でグライダー飛行 |
G18 |
グライダーの持ち上げ棒について |
G20 |
1952年7月 戦後初の山上発航 |
G21 |
岡崎飛行クラブのグライダー 岡崎市矢作川河川敷 |
G16 |
このグライダーのJAナンバーを推理してください JA0081の可能性 |
G24 |
グライダーの乗降 左か右か |
G25 |
幻の1940東京オリンピック 滑空競技のグライダーで日本人が飛んでいる |
G26 |
小田億のMS885シュペールラリ
JA3191の経緯 |
G27 |
東京軽飛行機研究所製作のグライダー
の疑問 |
G28 |
グライダーの背面飛行について |
G29 |
防府北基地のグライダー滑走路 |
G32 |
チョークの掛け方 グライダーの場合 |
Q33 |
グライダー表示の最高速度に異議あり |
以上