2008/9/11 安芸津中学校グライダー
調査依頼 回答書
中国航空協会会員 山口県航空史研究会会員
古谷眞之助
もくじ
1.機体の特定
@
写真から分かること
A
文部省式1型プライマリーについて
B
宇部グライダー連盟について
2.安芸津中学校の文部省式1型
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飛行の模様
A
なぜ、安芸津中学校にグライダーが存在したか
B
素朴な疑問
C
機体のゆくえ
3.参考文献
1.機体の特定
@
写真から分かること
校庭を飛行中の写真から、主翼下部の登録記号はJA-0070と判読できます。登録記号の
4桁番号の先頭数字が0であることは、滑空機第3種を意味します。ちなみに、第1種、第2種は先頭数字が2です。
現在、活躍している機体のほとんどが第1、第2種です。この登録記号から、この機体は、戦後、運輸省航空局に正式登録された機体であり、また機体形状により「文部省式1型プライマリー(初級機)」と断定できます。
それはまた、世界航空年鑑1993年版の「民間機登録航空機リスト」〔資料1〕にある以下の記述でも明らかです。
資料に拠れば、この機体は航空機登録原簿上では登録されたままで、存在していることになっていますが、この当時の機体が実質的に飛行の用に供されなくなっても登録抹消手続きされていないケースは、かなりの頻度でありますから、1993年時点では実際には飛んではいないと思われます。
もし正式に廃棄手続がされていれば、航空局に問合せしてみられたら、我々マニアにはダメでも、町史編纂室ということであれば、たぶん、廃棄年月日を知らせてくれると思います。ただ、抹消登録はされていないと考えるのが普通だと思います。
さて、このリストに拠れば、
登録番号 |
JA0070 |
型式 |
文部省式1 |
製造番号 |
1 |
所有者 |
安芸津中学校 |
登録年月日 |
1953年9月17日 |
定置場 |
防府市 |
となっています。
ここで注目すべきは、「定置場」が防府市となっていることで、このことは何とも不明で不可解ですが、それについては、私の推測を別項で述べます。また、製造番号1というのも、やや疑問です。なぜなら、この時点(1992年9月30日現在)で、登録されている文部省式1型には以下のものがあり、製造番号が重複しているからです。
JA0007 |
製造番号1 |
東京教育大 |
JA0040 |
製造番号1 |
宇部グライダー連盟 昭和53年2月28日登録 |
JA0073 |
製造番号2 |
布施工業高校 |
JA0097 |
製造番号1 |
和歌山工業高校 |
JA0104 |
製造番号1 |
四国航空協会 |
ご覧のように、製造番号1の機体は安芸津中学校のものを含めて少なくとも5機存在します。本来、このように製造番号が重複することはあり得ないはずです。
しかし、戦後の航空再開期には航空局もまだまだ余裕が無く、混乱していたのは事実です。例えば、登録番号は機体のクラス別に受理順に付与されるべきものですが、当時、実際には番号付与が受付順を無視して前後している明らかなケースが見られます。製造番号にしても、その不備を指摘する余裕も無かったかも知れません。また、この種の機体では、数機の確定受注があれば、同時平行的に製作し、完成後にそれらすべてを「製造番号1」とした可能性も否定できません。しかし、その可能性は低く、単にデータの混乱と受付体制の混乱に起因すると考えるべきだと思います。
さらにもう一つの可能性として、この機体は戦前は多くのメーカーよって製作されています。安芸津中学校の機体はたぶん戦後製作されたものだろうと思っていますが、戦後にしても、どうやら多数の会社が製作したように推測できます。各社がそれぞれ自社での1号機を製造番号1としていれば、このようなことは起こりうると思います。したがって、このリストでもって「安芸津中学校の機体は文部省式1型として戦後初めて作られた機体」と断定表現するのは回避した方が無難と思われます。
また、「JA0040 製造番号1 宇部グライダー連盟 昭和53年2月28日登録」という記述も注目に
値します。なぜなら、貴室に問い合わせされた方が宇部市在住の人という不確かな情報があるからです。宇部グライダー連盟についても、別項で触れます。
校庭を飛行中の写真から、機体の全高(2.3m)を勘案すれば、飛行高度は6〜7bと推測できます。文献にあたると、この機体の飛行高度は5〜15bとありますから、この推定高度はほぼ正しいと言えます。
なお、飛行距離は100b前後だったとの記述があります。安芸津中学校校の校庭に斜めにどれくらいの長さが取れるか検証をお願いしたいところです。もちろん、平地でなくて斜面を滑空すれば、飛行距離は格段に伸ばすことができます。グライダーの盛んなドイツでは、戦前は丘陵地を利用して飛ばすのが一般的でした。例えば、グライダー発祥の地として有名なワーサクッペは、その典型です。
格納庫前の機体の写真。風向風力を示す赤白の吹き流し(正式には風向指示器、wind
sock)が見え、機体がほぼ風に正対してセットされ、V字型にゴム索が張られていることから、離陸直前の状態と推測されます。
ちなみに資料には、ゴムの直径10_、長さは80bとあります。機体の直後に座って両手で支えているのが、アンカーマン。彼は、指示あるまで飛び出そうとする機体を保持するという重要な役割を担っていました。左右のゴム索の先には、それぞれ数人が取り付いていたと思われます。
着陸直前の写真。最初の校庭の写真とは地面の状況が異なりますし、周囲の風景も学校らしくありません。どこが別の場所ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
なお、現在のグライダーでは、着陸直前に「フレア」と言って、操縦桿を軽く引いて機体を上向きに持ち上げる操作を行います。これによって揚力を増して機速を落とし、次第に失速速度に持って行き、機体を滑らかに接地させるためなのですが、着陸直前のこの写真からは、そのような操作が感じられません。或いは、技量の十分でない練習生の着陸シーンかも知れません。なお、実際にこの機体で飛んだ人の話によれば、平地での飛行時間は10秒程度とのことで、もちろん旋回飛行は不可能です。
A 文部省式1型プライマリーについて
この機体のデータは、川上裕之著「グライダーの部屋」に正確な三面図、性能とともに記してあります。
この機体が開発された経緯を簡単に述べます。昭和15年、太平洋戦争は避けられない事態となり、パイロット養成が急務となりました。そこで文部省は、旧制中学校の正課として滑空訓練導入を正式決定します。将来の戦闘パイロットの基礎訓練という位置づけであったことは言うまでもありません。
全国の中学校へ機体を配置するには約1,000機は必要となり、1社ではもちろん対応できる機数ではありませんでした。そこで、基本設計をして、その図面をもとにグライダー製作組合で分担製作されることになりました。ちなみに総生産機数は約3,000機と言われています。
元東大航空研究所勤務、文部省体育官補の山崎好雄氏が企画・基本設計したものを、福岡の福田前田軽飛行機株式会社が試作機を作ることになりました。昭和15年4月のことです。当時プライマリーは550円だったそうです。
上記のような経緯があるので、安芸津中学校の機体が戦前製作されたものか、戦後製作されたものであるかを検証する必要があります。
可能性としては、これほど多く製作された機体であるため、戦中戦後のどさくさでどこかに保管してあって、それを引っ張り出した、ということも考えられなくはありません。何せバラせば機体は大したスペースにはなりません。しかし、ご存知のように、旧日本軍及び民間の機体はすべて、GHQの命令により徹底的に廃棄処分されるか、航空機研究のためにアメリカ本国に持ち去られました。
当時のGHQの命令は絶対的であったはずですから、教育機関が極秘裏にこれを保管し続けたとは到底考えられません。戦前は皇国思想を教育し、敗戦後は手のひらを返すように民主主義を教育した教師たちに、それだけの度量があったとは思えないのです。事実、戦意高揚のために校庭に展示され
ていた航空機は、すべて廃棄されたと聞いています。
となると、戦後製作となりますが、昭和27年3月8日に、待望の「航空機生産の許可」覚え書きがGHQによって出されるに及んで、雨後の筍のように、まずはグライダー製作会社が復活しました。
これらの会社は、手近なプライマリーを手掛けることから業務を開始しました。文部省式1型は戦前、多数の会社で製作されたため、設計図が残っていた可能性は高いと考えるべきです。私の手元には、戦前に巴航空機工業が設計したセカンダリーの青焼き図面があるくらいですから。
では、どこの会社が安芸津中学校の機体を製作したか、ですが、それを特定する手立てとして最も確実なのは、航空局への問い合わせです。後ほど述べますが、航空機登録原簿には「製造者」が必ず記載されます。しかし、上記「リスト」では省略されていますので、公の機関の立場で、是非問い合わせてみていただきたいと希望します。
安芸津町の近場で製作したと考えられる候補は、
山口県防府市の巴航空機工業の「残党」、
戦前、広島県広島市近郊、川内村にあった日本飛行機工業
の二つです。
川内村には広島滑空連盟が使用権を持つ広島滑空場がありました。しかし、この二社は可能性として考えられるだけのことで、何ら根拠はありません。ただ、「近い」というだけのことです。やはり、航空局への問い合わせが必要かと思います。なお、巴航空機工業の「残党」は昭和27年にセカンダリー、「巴式ろ之参型」を製作しています。
〔この項、参考文献「JA0005と黎明期の中国航空協会」ご参照〕
プライマリー機の組立方法は、川上裕之著「グライダーの部屋」をご覧下さい。機体は、逓信省が文部省式に対抗して作らせた逓信省型プライマリー「朝日式駒鳥型」ですので、基本構造にはそれほどの差異は無く、文部省式もほぼこれと同様と考えて、まず問題ないと思います。
実際の運航方法については、上記写真の解説でも少し触れましたが、詳しくは、2000年9月9日に長野県霧ケ峰で復活飛行をした時の模様が以下のホームページに掲載されていますので、そちらをご覧下さい。
http://www.geocities.jp/wjp_glider/pa/kirigamine.htm
B 宇部グライダー連盟について---
JA0040に関連して
安芸津中学校より約半年前に登録されているこの機体の所有者は、宇部グライダー連盟となっています。
このクラブは山口県下関市出身のグライダー教官・弘中正利氏が主催していたクラブで、間違いなく昭和48年頃まで組織的には存在していました。と言うのも、山口大学入学とともに、私はこのクラブにコンタクトを取ったことがあるからです。彼らの活動場所は宇部空港(現、山口宇部空港)でしたが、定期便の増加に伴い、すでにその頃、ここでの運航は許可されず、実態的には休眠状態でした。それで私は学生時代に飛ぶことをあきらめたのですが、実はその当時、中国航空協会は防府基地で活発に活動していたのでした。閑話休題、弘中氏はかなり精力的に活動していましたから、機体を購入したのも頷けます。「問合せのあった宇部の人」とは、おそらく、このメンバーの一人ではないかと私は推測しています。そして、もしかすると、その方が保管しているらしい機体は、安芸津中学校のものではなく、このJA0040機である可能性も否定できません。
なお、弘中氏は、朝日新聞が全面バックアップしている日本学生航空連盟西部支部の教官として、長らく「久住滑空場」で活躍された人です。戦前は満州を活動場所とし、戦後引き上げて山口県航空協会(
実態的にどのような活動をしていたかは不明 )の理事長となり、宇部グライダー連盟でのグライダー運航を模索した人でもあります。すでに故人。〔弘中正利氏については拙著「山口県の航空史あれこれ」ご参照〕
2.安芸津中学校の文部省式1型
@
飛行の模様
安芸津中学校における初飛行は、少なくとも登録された昭和28年9月17日以降であるはずです。この時の模様は、前述のように、当時の新聞を調査すれば記事になっている可能性が高いと思われます。なぜなら、この当時、中学校でグライダーを運航していたのは安芸津中学校のみ、とは言い切れませんが、非常に珍しい存在であったのは間違いないからです。他は、工業高校、社会人クラブ、大学クラブでした。なお、現在、日本には高校グライダークラブは数校ありますが、中学校でグライダークラブのある中学は存在しません。その意味でも、安芸津中学校は素直にすごいと思います。
昭和28年9月に文部省通達で学校グライダー活動禁止令が解除されています。おそらく、「グライダー部」のようなものが安芸津中学校に創設され、然るべき経験豊富な指導者が在任中は、クラブは存続したものと推測されます。しかし、やはり中学校です。何らかのトラブル、インシデントがあって父兄からの反対で廃部に追いやられたか、指導教師の転勤で廃部になったか、そのいずれかだと思っています。自動車の運転の方が遥かに死亡率は高いのに、一般的に「空を飛ぶこと=危険」と思われていますから、やむを得ないでしょう。
蛇足ながら、私はグライダーパイロットで実際に国内外で飛んでいますが、一定の訓練を受ければ、グライダーほど安全な航空機はないと思っています。私の所属する中国航空協会はすでに創立40周年を迎えており、この間、死亡事故は一切ありません。
A
なぜ、安芸津中学校校にグライダーが存在したか
ではなぜ、グライダーとは特に縁の無かったと思われる安芸津中学校校にグライダーが存在していたのでしょうか。まず、考えられるのは、グライダーに理解ある校長の存在、そして不可欠なのは、経験豊富な指導者の存在です。たぶん三度の飯よりグライダーが好きという教師、ないしは外部指導者の存在がなければ、いきなり中学校でグライダーが飛ばせないと思うのです。必ず、そういう人物がおられたはずですので、そこらあたりは是非調査してみていただきたいと思います。
また、戦後間もないという時代がそうさせたとも言えるでしょう。10年前にも満たない戦前には、学業よりも軍事教練が重視され、滑空機はさかんに飛ばされていたのです。運航実績も指導者も豊富でした。今でこそ、中学生が空を飛ぶというと大反対が起こるのは目に見えていますが、まだまだ戦前の息吹は残っていたのだと思います。ちなみに、現在の航空法では、飛行訓練は満14歳から開始できます。技能証明、いわゆるライセンスが取得できるのは16歳からです。
戦前グライダーで飛び、戦後高校教師となって、高校にグライダー部を創設された方がおられます。この方は社会人クラブの主催者でもあって、我が国グライダー界ではとみに有名な方です。元、社団法人三重県航空協会理事、西山さんです。良い指導者がいれば、何でもできるという好例だと思っています。
さらにまた、戦後初の山頂から発航したグライダー飛行が広島県野呂山で早くも昭和27年に実施されたという環境の影響も無視できないのではないかと思っています。この時山頂から発航したグライダーは、安芸津町の隣町、安浦町に着陸しているのです。この飛行は広島県民のかなりの関心を惹きましたから、安芸津町の指導者、教師にも少なからぬ影響を与えたものと推測します。〔この項、拙著「中国航空協会40年史」および「JA0005と黎明期の中国航空協会」ご参照〕
B
素朴な疑問----「宇部市の人」は、何をもって安芸津中学校の機体と判断したか
「宇部の人」はどのようにして、その機体が安芸津中学校の機体であることを知ったのでしょうか。知る手立ては三つあると思います。
ア
この方が安芸津中学校の関係者であり、もともとそのことを知って機体を預かっていた。
イ 登録記号を調査して所有者を知った。
ウ 機体に学校名が入っていた。
この三つです。お話しいただいた問い合せの経緯から考えれば、アの可能性は低いと思います。ウ
の可能性も低い。機体に校名を入れるとすれば、垂直尾翼が最も効果的ですが、お送りいただいた写真を見る限り、記入されているようには思えません。となると、イとなります。もしこの方がグライダー関係者であれば、それなりの知識はお持ちのはずで、当然登録記号のこともご存知だと思います。
この人が元宇部グライダー連盟の関係者と仮定します。連盟では当初保有していたJA0040機が事故等で使用不能となり、その代替機として、学校で使用されていないJA0070機に目をつけ、これを譲り受けた、しかし、何らかの理由で飛ばすこと自体ができなくなり、自宅に保管し続けた----というストーリーが考えられます。全くありえない話ではありません。もともとグライダーは耐用年数が非常に長く、古い機体があちこちのクラブを経て存在するということは、現在でも珍しいことではありません。
C
機体のゆくえ
上記ウに関連しますが、この機体の「定置場…防府市」となっているところが何とも不可解です。なぜ防府市となったか。そのことについて言及する前に、定置場について説明します。航空法第5条に「登録」についての定めがあり、これには、
・航空機の型式 ・航空機の製造者 ・航空機の番号 ・航空機の定置場 ・所有者の氏名又は名称及び住所 ・登録の年月日
以上の事項を航空機登録原簿に記載し、且つ、登録記号を定め、これを航空機登録原簿に記載することによって行う、としています。ここで言う「航空機の定置場」とは、通常、「当該航空機の保管してある場所」を示します。となると、この機体の主たる保管場所は防府市となります。ではなせ防府市か。可能性として考えられるものを以下に書きます。もちろん推測ですが、理論的に成立する推測です。
冒頭示した「リスト」は1993年発行で1992年9月末時点のものです。ところで、「変更登録」というものがあります。例えば所有者の変更、定置場の変更も当然これに含まれます。となると、1953年新規登録後、実際に定置場が安芸津中学校から、防府市に変更され、その後、登録に関してはそのまま放置された、とすれば、このようなことが起こりえます。もちろん、何年のことか分かりません。ただ、何のために「定置場を変更登録したか」がその理由の理論付けが必要になります。
考えられるのは、
ア 中学校での飛行に支障をきたしたので、その後、防府市の自衛隊内で活動するために定置場を変更登録した。
イ 機体に何らかの問題が生じ、これの修理のために「機体を製作したことのある巴航空機工業の残党」のところに持ち込む際に変更登録した。
ウ 変更登録が昭和32年以降とすれば、すでにその頃、自衛隊内での活動を開始していた山口グライダークラブ(中国航空協会の前身)と共同で運航するために移転登録した。
エ 最初から、定置場は「防府市」で届けた。いずれ変更することを前提にそのように届け出た。この推論には必要条件があって、それはこの機体が「巴航空機工業の残党」によって製作されていることです。つまり、防府市で製作され、安芸津中学校に納入される前に登録を行う際、機体が現に置かれている「防府市」を定置場とした、と考えるわけです。
イは、しかし、推測としては無理があります。修理のために変更登録することはまずありません。
エは、可能性としては考えられますが、お堅い学校がされることですから、登録申請時に定置場を安芸津中学校と変更するはずです。
アも可能性として考えられます。また、お役所同士のことですから、我々民間人が依頼するのと違って、省庁間で融通が利いたかもしれません。しかし、プライマリーを運航するには飛行場は広すぎます。また、訓練のための生徒の移動のことを考えると不可解です。それに、当時であれば、広島市には吉島飛行場がありました。
ではウはどうか。学校の所有物なので、簡単に売却はできない、しかし、グライダー部も存在せず、倉庫に置かれたままではもったいない、ここは実際の活動に利用してもらおう、ということになって、所有権は移転しないまま、中国航空協会(もしくは前身の山口グライダークラブ)に貸与した、というものです。ただ、この推測の難点は、わが協会にそのような歴史が残っていないということです。〔拙著「中国航空協会40年史」ご参照〕ただし、山口・広島の両クラブが発展的に合併して正式に中国航空協会が創立されるまでの歴史は、今となってはよく分かっていないのも事実です。当時を知る方はほとんどが他界されています。そのため、全くの推測になるのですが、一つの可能性として、この機体が中国航空協会に貸与されたと考えられなくもない、と言うにとどめます。
そうなると、なぜ「宇部の人」なのでしょうか。なぜ「機体が宇部にある」のでしょうか。残念ながら、その答えは私の調査力と推測力の範囲外のようです。
3.参考文献
@ 日本グライダー史 佐藤博著
A 戦前のグライダー 川上裕之著
B 山口県の航空史あれこれ 古谷眞之助著
C 世界航空機年間1993年度版
酣燈社
D 中国航空協会40年史
古谷眞之助著 協会会員向け配布資料
E JA0005と黎明期の中国航空協会 古谷眞之助著 日本滑空協会機関誌掲載
(注) ホームページ掲載上の都合で、内容を損なわない範囲で体裁と文章を一部修正しました。 佐伯
日替わりメモ2008/09/28