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グライダーの部屋 G-

航空法施行前のJA記号について

問題提起
2008/01/30付調査結果 藤原 洋
関連情報
2009/03/28付調査結果 藤原 洋
関連情報 その2
結 論

 

1 問題提起

 1952(昭和27)年7月31日の航空法施行以前に、例えばJA-0005などの登録記号を記入したグライダーが飛んでいますが、それは何を根拠にしていたのでしょうか。 (4広島市の吉島飛行場について その2 参照 )

 航空法施行以前のグライダーに関しての質問にお答えします。    
                                      
2008/01/30 元航空局職員 藤原 洋

 私が航空局勤務を始めたのが昭和31年なので、それ以前の事実については、航空雑誌から得た情報しか持ち合わせておりません。
 そこで、グライダーの歴史に詳しいと考えられる方(複数)にうかがったところ、以下のような情報を入手できました。

1 航空法は1952(昭和27)年7月15日公布、同施行規則は7月31日施行なので、法的には8月以降でないと正式な登録記号を持ち耐空証明を取得している航空機は存在しないはず。しかしながら、以下のようないくつかの事実から、航空法発効以前の準備段階で、JA記号が付与され、飛行もしていたようです。

(1) 1952(昭和27)年4月28日の講和条約発行後、宮城前でJA0047(?)を付けた02式P1型プライマリーが祝賀飛行を行った。
(2) 1952(昭和27)年4月30日、多摩川スピードウェイでJA2001霧ヶ峰式鷹7型が公開飛行を行った。
(3) 1952(昭和27)年5月3日、清水市三保でJA-0047伊藤式A−2型プライマリーが飛行した。
(4) 1952(昭和27)年6月現在、広島では広島グライダークラブ代表、小田勇氏が中心となって活動していたが、機体は計画中の状態であった。(後に中国醸造号として所有することになる巴式ろ之参型セコンダリーJA-0005 が6月15日に小月基地で初飛行している)
     世界の翼1953年版
     

 また、津山では津山グライダークラブ代表、山本勲氏が制作中の状態であった。
(5) 三保式101型や六甲式2型などはJA記号を付けて飛行しているが、何らかの理由で登録されていない。

2 戦後から講和条約締結までの間の飛行例(多くは不法な飛行)
(1) 昭和20年9月、神奈川県の大和学園(女学校)で日本式鳩型プライマリーが校庭を飛行した。
(2) 千葉で霧ヶ峰式又は日本式鳩型プライマリーが飛行
(3) 長野や静岡でも、早くからグライダーが作られたが、飛行したか否かは不明
 以上ですが、更に追加情報が得られたら連絡します。

 

3 関連情報 佐伯調   3

 1-(1)にある02式P1型プライマリーというグライダーについては、次の投書(世界の航空機1952年11月号読者サロン)が参考になります。
 また、JA-0047は1-(3)の伊藤式A−2型プライマリーに与えられた記号であり、もし、02式P1が1952(昭和27)年4月28日に 宮城前で飛んでいるのならJA-0001、つまり初登録機と思われます。下記関東学院の02式P1はJA0028です。

 

 1年かけての調査結果    藤原 洋  2009/03/28  4

  航空法施行前にグライダーが飛行した件は、残念ながら、その後はかばかしい進展はありません。照会を受けた後、技術部長を経験された元私の上司にも協力をいただき、約1年をかけて、機会ある毎に航空再開時、航空機検査に関係した人(5名程)に聞き取りを致しました。
 
 現時点では、元上司の結論(仮説)として、「講和条約締結時、国際民間条約に従って航空運送事業等を行うことを義務づけられたので、これに従って再開準備を進めており、航空法発効前に、飛行させて欲しいという要望に応えたのではないか」ということになりました。
 しかしながら、このリーダーシップをとったと思われる当時の調査課(後の検査課)長、同補佐官等はすでに故人となっており、核心をついた証言を得られませんでした。しかも、上記の仮説を裏付ける資料は何も発見できませんでした。
 いやしくも、役人が何かの新しい事業を行うには、根拠となる通達や手引き書があるはずですが、そのような物を見つけることができませんでした。従って現時点では仮説もかなり怪しいものです。
  以上が一年ほども時間をかけて得られた結果で、残念ながら、この間題を調べるのには10年遅かったようです。
 参 考
 航空法発効以前にJA記号をつけて飛んでいた航空機も、登録日はすべて発効後の日付になっております。

 関連情報 その2   5

世界の航空機1952年6月号国内ニュース

 固定翼機のニュースですが、グライダーにもそのまま通用します。1952年6月号は少なくとも5月初めの編集ですから、@では各新聞社が一斉に活動を開始しており、その根拠がAのようにICAO(国際民間航空機関)の規定適用が認められての日本国内運行であったことが分ります。登録は航空庁が行い、JAと数字の間にダッシュを入れることにしていたようです。

 既に、GHQの方針により、前年の1951年10月から日本航空が定期航空を開始していますが、グライダーを含む事業や趣味活動での飛行は、講話条約が発効した1952年4月28日から公式に認められたものと推定します。

 それまでは、もちろん製造も禁止されていますが、各地の滑空マンたちはその日を期して保管してあったグライダーを修理再生したり、手作りしたりして満を持していたことが、次のエピソードで証明されます。


航空情報1952年6月号 清水六之助「滑空会の動き」
 

 結 論    6

1951年11月日本国との平和条約が批准され、1952年4月28日に発効するとともにGHQによる指令は効力を失い、日本の自主民間航空が再開されます。ただし、国内法が未整備のために、航空庁はICAOの規定を準用して耐空証明や登録の業務を行っていたものと推定され、航空法が施行された7月31日からこれらが正規のものとなりました。

       世界の翼1953年版