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グライダーの部屋 

 
巴式ろ之参型セコンダリーJA0005 中国醸造号について
 

佐伯邦昭

 

 

(1) 台帳上の巴式ろ之参型 

 正式表記の「巴式ろ之参型」は、便宜上「巴ろ-3」と略します。

台帳上の巴ろ-3 (日本航空協会航空年鑑及びCivil Markings of Japanの各年版 等からのまとめ)

登録記号

型式

製造番号

登録日

所有者

定置場

備考

JA-0005

巴ろ-3

101

1953/02/18?

(巴航空機工業又は山陽帆走飛行クラブ?)

防府市

初飛行1952/06/15
登録未抹消

1954/03/15?

広島グライダークラブ
幹事長小田 勇

広島市

JA-0032

巴ろ-3

102

1953/02/18?

巴航空機工業

広島市

2001/08/21抹消

1954/01/07?

広島大学

 この表で登録日を?マークにしているのは、資料によって年月日がばらばらであり、いずれかに特定するのが難しいためです。

 山口県の航空史あれこれ図書室34参照)によると、巴ろ-3は、防府市の巴航空機工業でグライダーを生産していた堀川勲氏が戦後駐留軍将校の要請で設計製作したものとされています。その将校が乗ったかどうかは明らかでないそうですが、 世界の翼1953年版(1952年12月発行)に「山陽帆走飛行クラブの手で6月15日に初飛行を行った」という説明でJA-0005の写真が出ています。

1951(昭和26)/09/08

対日講和条約調印

1952(昭和27)/01

広島グライダークラブ発会式

1952(昭和27)/03

航空機生産禁止解除(GHQ)

1952(昭和27)/04/28

対日講和条約発効

1952(昭和27)/05/11

清水六之助さんが戦後グライダー初飛行 霧ケ峰 鷹7型グライダーJA2002

1952(昭和27)/06/15

巴ろ-3初飛行 JA-0005は仮登録か?

1952(昭和27)/07/19

巴ろ-3 JA-0005 中国醸造号命名式 吉島飛行場

1952(昭和27)/07/15

新航空法施行

1952(昭和27)/07/27

小田勇さんが巴ろ-3 JA-0005 中国醸造号で野呂山から山頂初飛行(下記)

1952(昭和27)/07/31

JA7001登録 シコルスキR6A 産経新聞

1952(昭和27)/08

日本学生航空連盟の第1回夏季合宿訓練開催 霧ケ峰高原

1952(昭和27)/08/12

JA6001登録 ダグラスDC-4 日本航空

1952(昭和27)/08/22

JA3001登録 セスナ195 読売新聞

1952(昭和27)/08/26

JA5001登録 エアロコマンダー520 朝日新聞

1952(昭和27)/10/06

社団法人日本グライダークラブ発会式

1952(昭和27)/10

グライダーJA000*とJA200*の本登録が始まった模様

1953(昭和28)/02/08

小田勇さんが東飛SAU型で28時間8分の滞空日本新記録樹立

  グライダーの登録についてはどうもすっきりしません。巴ろ-3製造番号101が新航空法施行前にJA-0005を記入しているということは、航空庁の方で仮登録でも受け付けていたとでも考えるしかありません。巴ろ-3のJA-0005とJA-0032の登録日については、これからの研究課題としておきます。

 

(2) JA-0005は広島グライダークラブで中国醸造號として訓練

 駐留軍将校の要請で設計製作されたというJA-0005は、結局その軍人の手に渡ることはなく、広島の中国醸造株式会社から製作費の寄付を受けて広島グライダークラブの手に渡りました。

 以後、JA-0005は中国醸造號として広島グライダークラブが使用しました。
 
1952(昭和27)年7月19日 吉島飛行場 中国醸造號贈呈式にて

 
  広島市の平和記念公園にて(ファインズギガモール店内で許可を得て複写) 

 小田勇さんは、1952(昭和27)年7月27日に広島県豊田郡川尻町の野呂山(840m)からJA-0005で山頂発 航を行い、15分後に同郡安浦町三津口海岸に無地着陸しました。戦後における初の山頂発航です。

  中国新聞記事によると、川尻町観光協会による野呂山滑空場開きという催しでの記念飛行であり、小田さんは、 頂上までトラックで運べるので、秋には全国グライダー大会を開きたいと希望を述べています。しかし、その後の野呂山滑空場の経緯は不明です。

 

(3) 1号機と2号機の 主翼の入れ替え

 このJA-0005中国醸造號は、航空局台帳上では2007年現在生きていますし、JA-0023の方は、2002年から消えています。2機がどうなったかということを上記写真提供者の宮野修さんが古谷さんに送った書状から拝借しておきます。

1952(昭和27)/07

 吉島飛行場でJA-0005のお披露目飛行 翌週から休日に練習飛行開始 約40名参加 小田さんは月に1度くらい来場

 広島グライダークラブ事務局は宮野さんが勤め、機体の整備、滑空場の整地、諸官庁や会員への連絡を担当された

1952(昭和27)秋

 JA-0005大破 防府市で102号機を製造中の岡田さんのところへ持ち込み、製作中の102号機の主翼桁を強化して取り付けた

 その際、101号機の主翼も桁を修理強化して102号機の主翼に転用した

1954(昭和29)/10

 JA-0005大破 廃棄処分 県が用地の処分を始めたこともあり吉島飛行場での訓練も終息

 JA-0032(102号機)は広島大学 へ納入されたが、同大学グライダー部の部員が減少し乗り手がないため、一度は組み立てられたが再度梱包され学生寮に保管され た。以後の状況は不明である。

 そういうことで「巴ろ-3」はもうこの世にないものと思っていましたら、実は、機体の一部が広島市の宮野修さんの旧宅(現在は他県にお住い)に残され、2006年からは山口市の某氏宅に保管されていることが分かりました。

 

(4) 残っているJA-0005の一部


                         撮影2007/07  古谷眞之助さん

 如何せん50年以上も前の製作ですから、相当の荒れようですが、戦後の滑空復活時代の活躍を象徴するものとして、適切な保存もしくは機体の復元をしていただきたいものです。

 

第3種セコンダリー巴式ろ之参型 要目 
 
航空情報1952年11月号 今飛んでいる滑空機 航空局検査課機体係高橋政雄さんの記事より

全幅

全長

全高

主翼面積

取付角

縦横比

水平安定板面積

昇降舵面積

補助翼面積

12.60m

6.50m

1.65m

16.80u

1-2°

9.15

1.50u

0.75u

2.40u

方向舵面積

翼断面

翼荷重

自重

全備重量

滑走速度

1.022u
0.92u

gott532
NACA0012

11.3

116.00kg

186.0kg0

54.0km/h

摘       要

尾翼取付角は昇降舵マスバランス付き-2°-3° 自動車曳航、インチ曳航 ゴム索弱風用山岳帆走飛行  弱風的テルミック帆走飛行練習用として設計された

協力:宮野修さん 中国航空協会会員 古谷眞之助さん  中国新聞社今田記者

参考文献

中国新聞社 小田勇著 翼よ わが命 (発行1990年) 
古谷眞之助著 山口県の航空史あれこれ  (発行2007年) 
三菱重工広島製作所五十年史 (発行1995年) 
広島県史 
広島市史  新修広島市史 都市計画図ほか  
日本航空協会 航空年鑑 
日本航空協会 日本航空史年表 (CD版) 
酣燈社 航空情報 世界航空機年鑑
酣燈社 世界航空機年鑑
鳳文書林 世界の航空機
朝日新聞社 世界の翼
中国新聞
CING-CING-RIN PUBLICATION  Civil Markings of Japan

 

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