もくじ
1 |
はじめに |
2 |
我が国の軍用グライダー事情 |
3 |
滑空飛行第一戦隊の創設と変遷 |
4 |
学連出身パイロット |
5 |
使用されたグライダー(1) ク−1型
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6 |
使用されたグライダー(2) ク−8型 |
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中国航空協会との関わり |
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おわりに |
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日本の軍用滑空機一覧 (
別紙 ) |
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参考文献 |
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ご協力いただいた方 |
1. はじめに
本改訂版は、第一稿を書いた後、元滑空飛行第一戦隊員牧野鐵五郎氏から、同部隊の隊友会「いなご会」諸氏による記録「音無き翼」(巻末資料ナンバーP)の提供を受けた。それによって、主力機ク-8が台湾まで曳航され、同隊がフィリピン、クラーク基地まで進出しようとしていたことを知った。
また、牧野氏からは第一稿の誤りを多くご指摘いただいた。
さらに、日本航空協会の川畑良二氏からは同協会機関誌に前田建氏の記事が掲載されていることをご教授いただいたが、この記事の中で前田氏はク-6(特三号滑空戦車)について触れられている。
この機体の設計主務の一人として山本登氏の名が記してあり、氏が前田航研に勤務していたことが判明した。
本稿とは直接関係ないが、山本氏は筆者の地元防府市に堀川勲氏とともに「巴航空機工業」を設立し、多くのグライダーを製作した人物である。また筆者の所属するグライダークラブ、中国航空協会の元会員もこれに関係していたことが分かった。本稿はこれらの新情報をもとに加筆訂正したものである。
第二次世界大戦中の我が国にグライダー部隊が存在していたことは意外に知られていない。筆者は自らグライダーパイロットであり、このことを残念に思ってきた。
最近、その部隊の構成員の多くが戦前の学連出身者で占められていたことを、牧野鐵五郎氏の著書「私の航空70年史−瑞雲に向かって飛べ」で知るに至って、集められるだけの資料をもとに、このグライダー部隊、「滑空飛行第一戦隊」の始まりから終焉までを追ってみようと考えたのがこの一文を書くきっかけとなった。
第二次世界大戦中に軍用グライダーが本格的に活躍した例としては、昭和15年(1940)5月10日、ドイツ軍がDFS230−1(12機、搭乗員85名)を駆ってベルギーのエベン・エマエル要塞を攻略したことを嚆矢とし、翌年5月20日、同じくドイツ軍によるクレタ島侵攻、及び昭和19年(1944)6月の連合軍によるエアスピードA.S.51「ホルサ」によるノルマンディー上陸作戦時の三つが有名である。
ただし、ドイツ軍によるグライダーの強行着陸は多大な成果を挙げたとは言い難く、クレタ島以降はさしたる活躍はしていない。同時に、戦後グライダーが軍において使用されたのはパイロットの初期訓練に限定されているようなので、グライダー部隊の強行侵攻という作戦そのものの有効性が省みられなくなったと考えるべきだろう。
大型のSTOL輸送機やヘリコプターが開発された現在、それはむしろ当然のことで、グライダーが完全に平和時の「遊び」の手段となったことを筆者は喜ぶものである。
と同時に、戦前、空を愛した若者たちが好むと好まざるにかかわらず軍用グライダーの操縦士として従軍した歴史も明確に残しておく必要を感じるのである。
2. 我が国の軍用グライダー事情
第一次大戦後のドイツは、唯一許されたグライダーを驚異的に発展させ、同時に多くのグライダーパイロットを養成した。第二次大戦開戦当初、破竹の勢いでヨーロッパを席巻したルフトバッフェも、その基礎があればこそ、だったと言ってよいだろう。一方、同時期の我が国は、飛行機には力を入れはしたものの、グライダーとは所詮「遊戯」に過ぎぬと考えている軍幹部も多くいたようである。
我が国で初めてグライダーが飛んだのは、日野・徳川両大尉による動力飛行の前年に当る明治42年(1909)12月9日、フランス大使館付武官、ル・プリウール中尉によるもので、東京上野の不忍池近くで自動車曳航によって行われた。飛行距離約100m、飛行高度4〜6mだったとある。
この時、不忍池に墜落しはしたが機体製作に全面的支援を惜しまなかった相原四郎海軍大尉も約20m飛んではいる。しかし、軍はこのイベントには大した関心は寄せなかったようで、以後長らくグライダーの進展は民間に任された。
陸軍が自ら滑空機を飛ばしたのは、この初飛行から実に21年が経過した昭和5年(1930)のことで、所沢飛行学校の藤田雄蔵中尉(昭和13年、航研機のパイロットとして世界記録樹立)が初歩練習用滑空機を試作し、テストまで漕ぎ着けた。しかし、4月に行われたテスト飛行では発航方法が不適切だったため失敗し、機体は日本グライダー協会に引き取られて、そちらで飛ばされたという。
また、同年5月11日、民間航空界でも有名な海軍機関少佐磯部鈇吉(おのきち)製作の磯部式練習用1型が所沢で飛行し、飛行距離80m、飛行時間5秒を記録している。パイロットは片岡文三郎だった。その後、同機は茨城県鹿島の砂丘で滞空時間20秒、飛行距離120mを記録し、この飛行は航空官立会いの下で行われたため、わが国で最初の滑空機堪航証明、現在の耐空証明が交付されている。
この頃から陸軍は次第にグライダーに関心を持ち始め、昭和10年(1935)に所沢飛行学校に研究班5名の専任者を配置し、滑空機の操縦、整備、研究に従事させることとした。さらに活動に拍車をかけるために、ドイツからグライダーの第一人者ウォルフ・ヒルト他を招聘した。
蛇足ではあるが、ヒルト一行は我が山口県を経由して東京入りしている。昭和10年(1935)9月17日にベルリンを発って欧亜鉄道経由で釜山入りし、関釜連絡船で下関に到着したのが9月30日午後7時30分のこと。当時の国際ホテルとも言うべき山陽ホテルに投宿し、東京へは翌10月1日の急行列車で上京したと記録にあるので、鉄道沿いにある下関の実家の前を通過したことになる。
その当時筆者が生まれていたとすれば、線路脇からせめて小旗を振って歓迎の意を表したかったところだ。彼の来日で我が国滑空界は大いに刺激を受けて一気に活発化したし、また戦後の航空再開後、いち早く進空したのはグライダーだったからで、考えてみれば彼のおかげで今、毎週フライトを楽しんでおられると言えるからである。
閑話休題。彼等が日本に滞在したのは9月中旬から12月中旬にかけてのことで、形は日本帆走飛行連盟主催と言いながら資金的バックはすべて陸軍によるものだった。佐藤博九州帝国大学助教授を通訳者として、ヒルトは各地で精力的に飛行を披露し、また飛行技術指導を行った。それでも、陸軍の一部には根強くグライダーに対する冷ややかな目が残っていたようである。ただし、これを機に陸軍は福田軽飛行機、石川島飛行機(のち立川飛行機)に練習用滑空機の開発を命じている。
そうして生まれたのが、「キ−23、24、25、26」の各機体だった。これらは我が国軍用グライダーの第一世代とも言うべきもので、機体の詳細については別紙「日本の軍用グライダー一覧」を参考にされたい。
しかし、ようやく芽吹いた我が国軍用グライダーは、昭和15年(1940)4月、日華事変勃発によって滑空機開発中断の通達が陸軍大臣名で出されてしまい、これまでか、と思われた。しかし、その直後に上述のドイツ軍グライダー部隊によるベルギー攻略が実施されてグライダーがクローズアップされると、2年後の昭和17年4月には中断決定見直しの機運が起こり、通達改正の基本方針が決定されるのである。まだまだグライダーの効用は確実視されてはおらず、あくまで飛行機の後塵を拝していた。方針の紆余曲折がそれを如実に物語っている。
正式にグライダーの開発が謳われたのは、昭和18年1月、陸軍航空本部「航空兵器研究及び試作方針」においてである。ここに「練習用滑空機、輸送用滑空機の開発」が盛り込まれ、名実ともに本格的なグライダーの戦力化が始まったのである。
3
滑空飛行第一戦隊の創設と変遷
このような状況下、陸軍では昭和17年になって宮崎県新田原の第一挺身団に滑空飛行第一戦隊の母体とも言える「滑空班」を設けた。残念ながら、その正確な月日は特定できない。6月、8月と資料によって異なるし、この戦隊のその後の動静の時期についても、同様に資料によって異なるため、以下異説を「
」で併記しながら部隊の変遷を年表形式で示すこととする。出典は巻末資料を参考にされたい。
異説が多いのは、如何にも注目度の低いグライダー部隊ならではのことかと思われる。また、この部隊に関係された方々の数少ない手記では、当然ご自分の記憶によって記されているため、このようなことが生じたとも言えるだろう。
・昭和17年6月(資料F,P)「資料Gでは8月」
宮崎県新田原の第一挺身団練習部(落下傘部隊)内に「滑空班」が創立された。3名の中尉(大久保、山本、野間)を教官とし、空挺部隊降下者から選抜された25名の下士官から構成されていた。以下、第二次から第五次まで、後述する出身者によって増強されていった。ここでは中級まで教育し、9月中旬所沢に移動。班長に三嶋木大尉が任じられ、飛行実験部の古林少佐が滑空班の指導にあたった。第二次隊員25名、第三次30名と選抜と訓練は継続された。
・昭和18年春(資料F,G)
茨城県下妻郊外「西筑波」(茨城県筑波郡作岡村)へ移動。ここで、ク−1、8による訓練が開始された。なお、現在ここには戦隊の「滑空飛行第一戦隊発祥之地記念碑」が建てられている。
・昭和18年8月(資料A)
全員が所沢の挺身練習部へ転属し、「グライダー研究班」が創設された。班長、三嶋木中尉。飛行実験部の古林少佐と大川中尉が兼務教官となる。古林少佐は開戦前に学連羽田飛行訓練所の派遣将校の経験があり、ヒルト来日時には彼から直接指導を受けた人で、戦隊育ての親とも言うべき人物である。またク−1型グライダーの次席検査官、ク−7型グライダーのテストパイロットも務めた陸軍グライダー部門の第一人者だった。大川少佐は、ク−7型グライダーの開発にも携わり、初飛行時には曳航機、97式重爆撃機のパイロットを務めた人物である。
・昭和18年8月10日(資料P)「資料Fでは10月」
研究班を廃止し、「滑空飛行戦隊」が創立される。戦隊長北浦尊福中佐(陸士34期)。部隊付古林忠一少佐、第一中隊長三嶋木巌夫大尉、第二中隊長佐藤二郎大尉、第三中隊長山口利夫中尉。各中隊は曳航機として97式重爆9機、ク-8型グライダー18機を持っていた。この戦隊は別名、挺身飛行団東部一一七部隊とも称し、以下のような部隊歌が制定された。熊谷見習士官の原案を西条八十が作詞し、作曲は大中寅二によるものである。(歌詞は資料Pより転記)
1 世紀の嵐 吹きすさび
大空戦の真中に
うぶ声挙げし空挺の
新鋭 空の奇襲隊
ああ我等百十七部隊
2
筑波を仰ぐ ふるさとに
挺身兵の意気高し
鍛えし技は 闘魂は
御陵威に開く桜花
ああ我等百十七部隊
3 編隊 燦と雲を蹴り
太平洋を 大陸を
音無き翼 征くところ
凱歌はつねに我を待つ
ああ我等百十七部隊
4 五条の訓を畏みて
醜の御楯とこぞり立ち
生還帰せぬ益荒男の
見よ 殉忠の熱血を
ああ我等百十七部隊
・昭和18年12月19日(資料P)
各地より滑空飛行第一戦隊に転属してきた元学生たちは陸軍特別操縦見習士官を命じられる。
・昭和18年12月26日(資料P)
見習士官は95式T型練習機により技能審査を受ける。その後、第一中隊に75名、第二中隊に25名配属
・昭和18年12月28日(資料P)
「資料Aでは昭和19年1月」
第一中隊福島県原ノ町へ移駐。1月15日1式双練による飛行訓練開始
・昭和19年3月17日(資料P)
原ノ町に派遣された第一中隊、坂戸に移駐
・昭和19年6月12日(資料P,@)
第四次隊員は坂戸にてク−1型での訓練開始。教官と訓練生5〜6名が同乗し、高度600mで離脱。慣熟と定点着陸が主なる訓練だった。
・昭和19年8月1日(資料P)
ク-8型の操縦訓練開始
・昭和19年9月8日(資料P,@)
第二中隊、再度西筑波へ移動。同期生99名が揃う。9月28(29)日には修業式実施
・昭和19年11月(資料G,O)
部隊編成改正により、「滑空飛行第一戦隊」と改称。戦隊長古林中佐。なお戦隊は第一のみで、第二、第三戦隊はない。この時点での戦隊の位置付けについては別紙Aを参照されたい。
・昭和19年11月17日(資料P)
フィリピン進出命令発令。任務は無線機の輸送
・昭和19年12月6日(資料P)
フィリピン進出を命じられた滑空飛行第一戦隊の第一次出陣部隊、西筑波を発ち、宇品に向かう。ただし、宇品で乗船待機中の特操見習仕官30名は原隊復帰となる。
・昭和19年12月14日(資料P)
第二次フィリピン出陣部隊、西筑波を発ち、門司に向かう。
・昭和19年12月19日(資料P)
第一次部隊の乗船した空母「雲竜」、東シナ海で米潜水艦によって撃沈
第二次フィリピン出陣部隊、門司を出港
・昭和20年3月(資料P)
フィリピン作戦挫折のため、第二次部隊に帰還命令下る。
・昭和20年5月(資料P,@)「資料Aでは8月」
北朝鮮「宣徳」へ移動。宣徳は北朝鮮の東北海岸に位置する。付近には民家も少なく海岸に数軒の漁師集落があるだけだったという。ここではまだ米軍の空襲もなく、移動当初は比較的のんびりしたものだったが、やがて戦局の悪化に伴い訓練は厳しさを増していった。なお、同じ北朝鮮の「新安州」へ移動計画があったが中止となっている。
・昭和20年6月28日(資料P)
宣徳飛行場にて夜間訓練中事故発生。3名殉職、2名重症
・昭和20年7月(資料Pでは23日、25日,@,A)「資料Fでは8月」
沖縄烈号作戦が発動される。いわゆる特攻作戦である。隊長は古林忠一少佐、準備担当大川大尉、隊員は特操少尉8名(神吉、岩佐、阿部、佐波、石津、大里、竹内、藤井)、下士官8名で、作戦機としてク−8U型(機数不明だがおそらく2機)、曳航機は97式重爆撃機が用意された。8月5日、戦隊は福生に向け宣徳を発ち、福生へ移動。特攻作戦では、グライダーに機関砲付小型四輪駆動車(95式四輪駆動自動車、12.7mm機関砲2、20mm機関砲1搭載)を1台ずつ搭載予定だったようである。予定では8月13日に福生を出発、8月16日北九州、8月20日新田原、そしてここから、8月20日から24日の間に新月の夜をついて沖縄に特攻をかけるという計画だった。敗戦の日まで実戦さながらの厳しい夜間訓練が続いたが、敗戦のため中止となった。なお、特攻要員として、上記の第一次要員の他に第二次第三次までの要員が決定されて待機状態だったという。
・昭和20年8月26日(資料P)
平壌で待機中の部隊、大邱へ向け南下開始。翌日ソ連軍により停止される。
以後、一部の隊員は、いわゆるシベリア送りとなり、遠くキルギスのタシケント近郊、アングレンまで移動し、過酷な抑留生活を強いられる。
また、第一滑空飛行戦隊とは別に、昭和19年6月〜8月にかけてグライダー運航を目的とした以下の中隊が第八輸送飛行部隊隷下に創立されている。
第十三輸送飛行中隊 岐阜・所沢 97式重爆撃機9機
第十四輸送飛行中隊 立川・坂戸 97式重爆撃機9機、ク−8Uグライダー18機
第十五輸送飛行中隊 新田原 97式重爆撃機9機、ク−8Uグライダー18機
4
学連出身パイロット
滑空飛行第一戦隊の部隊の編成は第一次から五次まで行われており、一次、二次は将校3〜6名、下士官20〜25名程度であり、三次になると戦前の民間パイロット養成機関、乗員養成所出身者が中心を占めた。これは推測だが、一次、二次は部隊幹部と整備要員の確保と養成、三次は曳航機パイロット養成を主眼としたものだったのではないだろうか。そして第四次は特別操縦見習士官が主体だった。
この特別操縦見習士官こそが戦前の学連出身者で、もちろんグライダーパイロット養成が主眼だった。横山創氏(陸軍特別操縦見習士官第一期生元滑空第一戦隊隊員)の記憶では、99名が学連出身のパイロットで、氏を含む99名は昭和18年12月から訓練を開始したという。なお、第五次要員は少年飛行学校14期出身の下士官生徒で構成されていた。
当初、グライダー部隊の戦術は圧倒的な制空権の下で行うというものだったが、昭和19年を間近に控えたこの頃にはすでに制空権は米軍側にあったため、編み出された戦術は、暗夜を利用して秘密裏に敵飛行場に接近し、20〜30km手前、高度2,000〜3,000mで離脱して編隊で滑空して飛行場に強行着陸し、搭載した機関砲付小型四輪駆動車(イメージ的に近いのは米軍のジープか)で暴れまわるというもので、パイロットも兵員も、もとより生還を期すものではない特攻作戦だった。グライダーパイロットの訓練は以下のステップを踏んで大型グライダー操縦士となったという。
一式双発高等練習機・・・原ノ町で行われ、まずは単機での操縦訓練から開始
一式双発高等練習機・・・3機による密集編隊飛行訓練。ここまで約300時間
ク−1型グライダー・・・単機操縦訓練。曳航機には99式軍偵察機を使用
ク−8型グライダー・・・単機操縦訓練。曳航機には97式重爆撃機を使用
ク−8型グライダー・・・3機による昼間密集編隊飛行訓練
ク−8型グライダー・・・3機による夜間密集編隊飛行訓練
地上訓練
・・・・・・・・・・・ 機関砲付小型トラックの操縦、射撃、爆破訓練
これらをすべて終えるまでには飛行時間約1,000時間を要した。地上訓練は、グライダーパイロットといえども敵地に着陸してしまえば兵員同様に戦う必要があったために設けられたもので、飛行訓練の終了間際に行われた。この頃になると昼間は地上戦闘訓練を実施し、仮眠ののち夜間の飛行訓練が行われたという。訓練エリアはそれぞれの飛行場上空で行われ、また、長距離訓練には関東平野全域上空が使用されたという。
牧野鐵五郎氏(元滑空第一戦隊曳航機操縦士、元学連教官)によれば、第四次隊員は昭和19年6月12日、坂戸飛行場でク−1型による飛行訓練を開始し、高度600mで離脱してからは定点着陸を主眼とする訓練が繰り返し行われたという。ク−1型は彼らが乗り慣れた単座機とは異なり、全備重量1.3トンもある大型機である。指定点を大きく外すと人力で発航位置まで押し戻すのが大変だったため、これを外すと仲間からどやしつけられたと書かれている。
容易に推測できるように、訓練科目の中で一番難しいのは夜間の3機密集編隊飛行だった。隠密行動を旨としたため、翼端灯は最小限に絞り込んだ状態で行われ、僚機の位置もやっと確認できる状態。当然、編隊長機は2番機、3番機に十分配慮する必要があった。
特に旋回時には、外側列機はスポイラーを完全に閉じても遅れ気味となり、逆に内側列機は旋回半径が小さくなるため増速して失速を回避しなければならず、そのために編隊長機より前に出てしまうという事態が生じた。このあたりはスロットルワークでの微妙な調整が可能な飛行機とは違って、グライダーならではのことだった。横山創氏は「旋回計の針幅以上の旋回はできなかった」と述懐されており、大きなバンクは取れなかったということになる。
筆者はグライダーパイロットであるが、飛行時間200時間程度の駆け出しに過ぎず、グライダーでの編隊飛行の経験はもちろんない。スポイラーの開閉とピッチのアップダウンで速度調整するしかないグライダーでの編隊飛行は至難の業だったと思われる。しかも、現在のスポーツ用グライダーからみれば超大型グライダーであり、操縦桿のリアクションに時間がかかったであろうことは容易に想像できる。
ただし、横山氏は最終訓練で搭乗するク−8U型グライダーの操縦性については、「スポイラーは良く効き、8m/sくらいの急速降下が可能だった。また、3舵とも滑らかで癖がなく、慣熟すれば操縦しやすい機体だった」と述べられ、また「猛訓練の結果、夜間に基地飛行場から20〜30km、高度2〜3,000mで曳航の97式重爆の編隊からいっせいに編隊離脱し、翼端灯の光度を抵抗器レバーでようやく視認できる範囲まで絞って密集編隊を組み、飛行場の指定点に指定時刻にピタリと着けることが可能となったのであった」と感想を述べられている。もともと腕の良いパイロットであられたのだろう。
5
使用されたグライダー(1)
陸軍二式小型輸送滑空機 ク−1型
部隊で使用されたグライダーは、上述のようにク−1型とク−8型である。この二つの機体について詳しくみていくことにする。なお、第一世代の陸軍グライダーには飛行機同様「キ」ナンバーが使用されたが、この機体から、陸軍は開発ナンバーにグライダー専用の「ク」を用いている。因みに「キ」とは「機体」を意味し、「ハ」とは発動機、つまりエンジンの開発ナンバーである。グライダー開発ナンバーが「グ」とされず、濁らない形で「ク」とされた経緯については分からない。あるいは単に濁るのを嫌っただけのことかも知れない。
戦隊の要員養成過呈で最初に使用されたク−1型は正式名を「陸軍二式小型輸送滑空機」と言い、福岡の前田航研工業が設計製作したものである。社内では「前田式2600型」と呼んだが、もちろん皇紀2600年に由来する。
前田航研工業の社長前田建一は応召中にガリ版刷り80ページにも及ぶ「グライダーノ戦時輸送トシテノ一考察」という論文を書き上げて軍関係者に進言しており、元前田航研工業社員の澤柳喜助氏(西日本航空協会会員、相模原市在住)によれば、同時にク−1の中央胴体の製作を初めていたらしく、ドイツの活躍に変心した陸軍航空本部からは「よかった!」と言われたという。前田航研工業の面目躍如たる逸話である。そして昭和15年9月に同社社長前田建一を設計主務とし、それ以前に多くの民間用グライダーを共同開発した九州帝国大学の佐藤博博士を協力者として設計が開始された。翌16年8月には試作第一号機が完成し、9月1日には大刀洗飛行場で初飛行している。陸軍側の主任検査官は陸軍航空技術研究所の甘粕三郎中佐、次席は古林忠一少佐、技術面担当は野田親則中尉で、操縦したのは前田の機体で数々の記録を樹立した田中丸治広、曳航は九五式一型練習機によって行われ、曳航パイロットは島安博だった。検査官の一行は立川より百式司令部偵察機二型(キ−46)で飛来した。余談ながら、初飛行当日に参加した澤柳氏によれば、この機体は「性能向上機と銘記され、胴体も翼も鏡のようにピカピカで外板の段差などなく、近寄れば顔が写るほどだった。大刀洗の要員もため息をついて眺めていた」とのことなので、どちらかと言えば、グライダーよりも新型偵察機に関心が集まったようである。
ク−1型の諸元は、全幅17.00m、全長9.56m、全高1.78m、主翼面積30.0u、アスペクト比9.6、自重700kg、全備重量1,300kg、滑空比16.1、滑空速度80〜90km/h、曳航速度150〜200km/h、着陸速度69km/h、最小沈下速度1.62m/s(80km/h時)、構造、木製主材骨組合板羽布、中央胴体ナセル、双尾翼ブーム形式。主翼は中央部矩形片持式、外翼は軽い上反角をもつテーパ翼。乗員1名(ただし、この機体で訓練を受けられた牧野氏の記憶では、操縦席は並列2席で正副操縦士が操縦することができたらしい)兵員6〜8名となっている。離陸時にはタイヤを使用し、着陸時にはこの車輪を引き上げて橇を用いた。同時代のドイツやアメリカ、イギリスの機体がどれも翼幅がほぼ20mで兵員9〜15名の搭載が可能であったのに比べれば若干小振りである。
前出澤柳氏の著述によれば、同社六本松工場から運ばれた部品を大刀洗で最終組立し、連日の徹夜で操縦系統、計器関係の調整を行ったとある。また試験では操縦系統に軽いトラブルがあったが、その場で解決できる程度のものだった。検査官から2号機以降にはスポイラーの設置が求められたともあるので、1号機にはスポイラーが付いていなかったことが分かる。
この機体の特徴は何といっても「中央胴体ナセル、双尾翼ブーム形式」であり、この形態は日本初のもので、この案そのものは前田航研工業で設計を行っていた木村貫一のアイデアによるものだった。また「多座」という点でも日本初だった。ドイツのGo242
GOHTAがこの形態を取っている。同機の出現は昭和16年に原型機が初飛行し、翌17年には部隊配置となっているから、ほぼク−1型と同時期である。どちらが先に構想したかは正確なところは分からない。ただし、世に出たのはク−1型の方が先のように思えるので、ク−1型のこの形態は世界で初めてグライダーに採用されたものと言えるのではないだろうか。
この形態はその後に開発される日本国際航空工業、ク−7型「まなづる」試作輸送滑空機にも採用されている。「まなづる」は日本のグライダーでは最大の、名前のとおり美しい機体で、乗員2名、兵員32〜40名の輸送能力があったが、試作機のみで終わり、その後エンジンを装着してキ−105となり、昭和19年12月15日初飛行、10機弱が製作されたようである。戦後、我が国でも見かけた米軍輸送機、C−119フェアチャイルド「フライイングボックス」もこの形式である。なお、前田航研工業のク−1型製作技術は、戦後のSM式206型複座セミ・ソアラーにも生かされている。また、澤柳氏によれば、ク−1Uと称する単胴式のものはモックアップまでできていたが、試作機までは至らなかったのではないか、とのこと(本人は召集のため確認できていない由)。またク−1Vと称する全翼式の構想図も描いたと言われている。
さて、ク−1型は昭和17年8月には正式採用され、同社糸島工場で量産が開始された。その後六本松工場が手狭になったため、大日本青年航空団、元岡飛行場に近い糸島工場で生産が続けられた。総製作機数には100機説、75機説がある。発注機数が100機という資料があるので、100機製作説は誤りではないか。75機説では、前田航研工業で25機、日本国際航空工業で50機としている。昭和19年8月に前田航研工業では10号機が完成、20年になって15〜16機製作したので、全部で25機程度ではないかという証言が残っている。一方、日本国際航空工業の平塚工場では50機製作の記録が残っている由。大型グライダーであるからかなりの機数と言えるが、ほぼ同性能機、アメリカのCG−4が実に13,909機生産されたこと(8社で分担生産)と比較すれば微々たるものと言わねばならない。イギリスのエアスピード「ホルサ」でさえ3,655機生産されているのである。彼我の航空工業力の決定的差を痛感させられずにはおれない数字である。
陸軍は経営基盤の弱いグライダー工場での量産能力を疑問視していたようで、グライダーといえども飛行機工場で製作すべき、と考え、陸軍指導で「寺田航空研究所」(南海電鉄系)と「国際工業」(鐘紡系)を合併させて日本国際航空工業を発足させている経緯があることから、この機体の量産のウェイトは日本国際航空工業側にシフトしていったと考えて良いだろう。前田航研工業は昭和18年12月21日付けで、本機開発に対して陸軍大臣より「陸軍技術有効賞」を受賞している。受賞文は以下の通りである。
「右は木製高翼単葉双胴式の大型滑空機にして、列国に先んじ従来の滑空機の概念を打破し独創的大型高翼面荷重輸送用滑空機の設計試作に成功し、爾後の大型滑空機の研究に貴重なる資料を提供し、国軍戦力に寄与する処顕著なり。依って茲に陸軍技術有効賞を授与す。陸軍大臣東条英機。備考、本賞状は外部に出す場合は特殊飛行機とし、公開せざる事」
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使用されたグライダー(2)
陸軍四式特殊輸送機 ク−8U型
滑空飛行第一戦隊の主力グライダー、ク−8U型は正式名を「陸軍四式特殊輸送機」と言い、日本国際航空機工業によって製作された。その試作機ク−8T型は陸軍一式輸送機(キ−59、寺田航研式TK−3型)を原型としている。この機体の大きさと木金混製、高翼という構造に注目し、これからエンジンを取りグライダーとしたのがT型だった。設計は関口英二、笹尾庸三で、T型の試作機は昭和16年7月に完成し、さらに改良を加えて同年12月にはU型が完成した。初飛行は昭和18年5月20日(22日説あり、資料F)で、同年8月10日(10月説あり、資料F)から量産が開始され、昭和20年3月まで619機という我が国グライダーとしては最大の製作機数を誇った。陸軍の航空部隊編成制度によれば、「飛行戦隊」は本部と3中隊から形成され、装備する飛行機は、戦闘隊以外では、中隊単位で9機、別に本部に1機が定数とされていた。第一線機は常時活動できることが編成上の建前だったため、3分の1の第一線予備機が戦隊に配備されていたとある。部隊では97式重爆撃機1機に対してク−8Uが2機の割合で配置されたようである。残された写真を見る限りでは、機体が数十機並んだようなものはなく、しかも、部隊としては第一戦隊と上述した第十三、十四、十五輸送飛行中隊のみである。この部隊の装備機だけを合わせてもおそらく100機にも満たなかったはずだ。残りの約500機は一体どこにどのように配置されたのだろうか。
ク−8Uの諸元は、全幅23.20m、全長13.31m、全高3.51m、主翼面積50.70u、アスペクト比10.5、自重1,700kg、全備重量3,500kg、滑空比18(資料Eでは15.9)、滑空速度150〜180km/h、曳航速度180〜220km/h(最大224km/h)、着陸速度120km/h、最小沈下速度1.8m/s、構造、木金混合製骨組軽金属合板羽布、主翼は取付角6度、上反角1度。乗員2名、兵員20〜24名となっている。離陸時にはタイヤを投下し、着陸時には橇を用いた。機首には円形のプレキシガラスが装着され、前方の視界確保に寄与していた。主翼は高翼で、2桁式木製半片持式で支柱が2本、わずかにテーパさせて翼端は切り落とされている。上面には開角15度のスポイラーを装備していた。同時期のアメリカのCG−4やイギリスのホルサよりは性能的に勝っていると言っても良いだろう。
操縦席は並列複座。胴体部はほぼ正方形で、操縦席部分ごと右に90度開くようになっており、そこから兵員や軽装甲車を下ろしたようだ。牧野鐵五郎氏「私の航空70年史」によれば、「機内には前方に一段高い2名の操縦席があり、胴体中央部には横長の座席が両側にあって、天井には落下傘の降下の際に自動開傘のフックを掛ける鋼索が1本装備されていた。物資の搭載は、前方の操縦席部分が大きく右方向に開くような装置になっていた。着陸後、操縦席部分を結合している2本のボルトを抜き、急ブレーキを掛けると、操縦席が惰性で開くという離れ業もあった」とあり、興味深い。
着陸すれば、そのような離れ業を使って機首部分を開き、そこから軽装甲車がまず飛び出し、続いて兵員が飛び降り、敵基地の航空機を銃撃、爆破するという構想だった。再び牧野鐵五郎氏の「私の航空70年史」から夜間訓練の模様を引用する。「暗闇の彼方から滑空機が音もなく飛行してきて、飛行場に着陸すると、すぐさま操縦席が大きく開かれて、中からエンジンを掛けた4輪駆動車が走り出して来た!
飛行場の傍らに臨時に設けられた仮想敵機に猛烈な勢いで走り寄ると、バリバリバリと機関砲を発射、模擬手榴弾を投げるとまた次の目標に向かって走り去る。次々と同じように自動車が走ってきては走り去り、将に実戦さながらの物凄い夜間訓練が行われた」。
確かにこの機体は我が国での最大製作機数を誇ったが、それでも前述のように米軍CG−4の13,909機に比べれば、その5パーセントにも満たない。本来グライダーによる強襲作戦は、圧倒的な制空権下、落下傘降下に比べれば、一度に、また確実に、兵力+火砲を送り込むことができる点に有利性があった。我が国のグライダー部隊も当初は開戦時の南方の圧倒的制空権下での投入を意図されたものであるらしい。しかし、戦局の悪化後に計画された特攻作戦は、仮に実施されたとしても、敗戦直前のあの時期であれば、第一撃は不意をついての強襲ということで、それなりの成果が望めたとしても、その後の攻撃では、暗夜とはいえ事前にレーダーで捕捉され、敵飛行場に着陸する前にことごとく撃墜されたと考えるべきではないだろうか。部隊の本領には「挺身部隊ハ全軍ニ挺身シ、偉大ナル空中機動力ヲモッテ最モ堅要ナル時期ニ於テ、長躯ヨリ敵ヲ奇襲シ、敵ノ戦略要点ヲ確保シ、戦捷ノ途ヲ拓クモノトス」とあるが、ただただ勇ましいだけで実体が伴っていないのは、隊員とて承知していたことではないか。なお、この機体には連合軍側から「Goose」、後には「Gander」というコードネームが付けられていた。グース、ガンダーにはガチョウ、ガンという意味の他に、前者には「まぬけな女」、後者には「とんま」という別の意味もある。連合軍は我が国グライダー部隊そのものを、それこそ「へ」とも思っていなかったのだろう。悲しい話である。
7
中国航空協会との関わり
この原稿の第二稿を書き終えて、筆者の所属するグライダーがクラブ、中国航空協会の大先輩に原稿を読んでいただいたところ、中国航空協会の前身、広島グライダークラブに、元滑空飛行第一戦隊の隊員だった方がおられたことが判明した。
その方は東広島市出身の田中義夫氏で、いわゆる学連出身者ではなく、従軍期間は長くて、もともとは落下傘部隊員であった。パレンバンに降下の予定であったが部隊に手違いがあり、これには参加していない。広島県福山市の部隊にいた頃に滑空部隊の要員募集があってこれに応募。福山の部隊からは約50名が応募したが、検査で残ったのはわずかに2名。最終的には立川で適性検査が行われ、田中氏のみが合格した。
彼はそれまで飛行機の操縦訓練を受けたことがなかったため、まず文部省式1型で訓練に入り、その後99式高等練習機で飛行機の訓練も受けたという。ク-8型要員となってからは台湾まで作戦飛行を行い、台湾では夜間にトウモロコシ畑に着陸したとのこと。しかし、最終目的地であったフィリピンにはバシー海峡の制空権が圧倒的にアメリカ側にあったために到達できず、作戦は頓挫する。結局そこから引き返して終戦は坂戸飛行場で迎えた。部隊では、ク-8型のことを親しみを込めて「ハチコー」と呼んでいたとのことである。
戦後、広島グライダークラブ発足とともに入会。大型グライダーを操縦していただけに、ゆったりした操縦桿の使い方が印象的だったということである。氏は昭和29年1月、事業用及び教育証明を取得。広島グライダークラブの教官として活躍されたとのことである。 この調査を開始した当初、まさか、この部隊員に我がクラブの関係者がいるなどと思いもしなかったため、非常に驚くとともに、滑空界の狭さを痛感させられた次第。
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おわりに
滑空飛行第一戦隊は特攻を目指しながら、敗戦ぎりぎりで悲劇を免れた。それでも訓練中に所沢で1名、西筑波ではク−8Uの主翼が折れて搭乗員6名が死亡するという事故が発生している。さらに、牧野鐵五郎氏によれば、昭和19年6月28日、「宣徳」で、着陸してきた飛行機が夜間訓練ため待機していた隊員たちに突っ込み、地獄絵のような事態となり、3名が死亡、2名が重傷を負う事故も起きている。最終的には、空母雲竜とともに上海で消えた26名、昭和20年5月22日、浜松沖で米艦載機に撃墜されて亡くなった者7名を含め、合計39名の戦死者を数えた。
また、特別攻撃隊が編成される時には、隊員すべてに隊長から紙が配られたという。そこには、「特別訓練(実は特別攻撃隊の編成)に参加することを、1.熱烈希望する。2熱望する。3.希望する」と書かれていて、いずれかを選択して提出を求められたのである。すぐさま部隊にはピーンと張り詰めた重苦しい雰囲気が漂ったという。それはそうだろう。無慈悲な選択(これで選択と言えるかどうか)を迫ったものであるし、いくら戦前の皇国教育を受けた者でも全員が素直に「熱烈希望」を選択できたはずもない。
冒頭述べたように、筆者はグライダーを愛する者の一人として、現在それが軍用としては用いられずに、スポーツ、遊びという分野に限定して活用され、飛行機の進展同様に確実な進歩を見せていることを率直に喜ぶものである。二度と再びグライダーが軍用に、それも愚かな特攻兵器として使用されることのないことを切に祈りたい。
(2010/1/3改訂版 記)
9 日本の軍用滑空機一覧
別紙参照
10 参考文献
@「私の航空70年史」
牧野鐵五郎 元滑空第一戦隊曳航機操縦士、元学連教官
A「グライダー部隊」について 横山 創 陸軍特別操縦見習士官第一期生元滑空第一戦隊隊員
B「昔のこと」 澤柳喜助 元前田航研工業社員
C「それぞれの
8・15」 呉 正男 特別幹部候補生 97式重爆撃機通信士
D「特攻隊員たちへの鎮魂歌」 神坂次郎
PHP文庫
E「日本グライダー史」 佐藤 博 木村春夫編集 海鳥社
F「日本のグライダー」 川上裕之 モデルアート社
G「航空ファン1990/3,12月号」 秋本実
「陸軍輸送機の系譜・海軍輸送機の系譜」の項
H「航空ファン1993/1,2,3月号」
秋本実 「日本の軍用滑空機」の項
I「太平洋戦争日本陸軍機」 横森周信 「陸軍の滑空機」の項
J「男爵の愛した翼たち」 藤原 洋
藤田俊夫 日本航空協会
K「航空事始」 村岡正明 東京書籍