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日本のグライダーの初飛行について

目 次

1  問題提起 大日本滑空始翔乃地碑から発する日本のグライダーの初飛行日の疑問

  神栖の碑と日本航空史年表へ疑問に答える

  ルプリウール中尉の浮揚飛行をグライダーの本邦初飛行と認めるか アンケートの結果

  試論 わが国初の滑空飛行について 

   日仏合作グライダー100年記念講演会 の模様と感想

  日仏合作グライダーの模型展示について

   国立公文書館所蔵資料から 

1 問題提起
  
  大日本滑空始翔乃地碑から発する日本のグライダーの初飛行日の疑問

◎ 神栖市 砂山都市緑地 大日本滑空始翔乃地碑 撮影2004/05/24 坂井正一郎



大日本滑空始翔乃地 1943(昭和18)年7月11日建立
 題字は大日本飛行協会副会長 陸軍中将 堀丈夫

由来記
 1930(昭和5)年7月11日我国の滑空の父、と称される磯部鈇吉氏が、配下の若者を引き連れ、自作の滑空機をもって、この鹿島の砂丘で、我国初めての滑空機堪航(耐空)検査としての飛行を行い、滞空22秒という日本最初の公認記録を記した。
 当日の操縦者は片岡文三郎氏、逓信省検査官は駒林榮太郎氏、手伝いの若者の中には戦後まで我国の滑空界のリーダーとして活躍した清水六之助氏などがいた。


 この石碑には、「始翔 」「我国初めての」「日本最初の」と いう文字が刻んであり、あたかも1930(昭和5)年7月11日が日本のグライダーの初飛行 という印象を受けます。

 グライダーの始祖が磯部鈇吉(おのきち)さんであることはよく知られていますが、グライダーの初飛行については、この碑文をはじめとしていろいろな記述があります。

 曰く、昭和5年磯部鈇吉さんが所沢で組み立てたディクソン式プライマリー機を所沢で飛ばした、曰く、昭和5年3月ツエーグリング型初級グライダーを新潟陸軍飛行場で飛ばした等々‥、そして日本航空協会の航空史年表(CD版)には、5・11片岡文三郎,磯辺式1号グライダーで高度10m,距離80m,滞空8秒を達成しわが国初の滑空に成功 とあります。歴史派マニアとしては、グライダーと言えども代々木練兵場での飛行機初飛行に比すべきものとして、どれかに確定したいところです。

 神栖市の碑の建立の日付は、飛行のちょうど13年後の昭和18年の同じ月日になっています。また、建立に大日本航空協会副会長の堀中将(明野や所沢飛行学校長を歴任)が関わっていたとなれば、当時、陸軍がようやくグライダーの有用性を認め始めた時期にあいまって、中等学校への滑空の普及などが十分に意識されての事業ではなかったかと推察されます。

 よって、日本のグライダーの初飛行については、この昭和5年説もひとつの仮説として検討しなければいけないと思います。

 なお、大日本航空協会発行の年表と碑の記述が、日付も滞空時間も違っていますが、これについても理由を知りたいところです。

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2 神栖の碑と日本航空史年表へ疑問に答える
                       
財団法人日本航空協会常務理事 文化情報室長 榎本正信


 上記のご指摘、ご質問につきまして以下でお答えします。

  まずグライダーの本邦初飛行について、当協会発行の『日本航空史年表』とそれの増補版である同CD版における記述は以下の通りです。

認める 1925(大正14)/321 馬場源次郎,初の国産グライダーを製作,滑空

認めない 1930(昭和5)/511   片岡文三郎,磯部式1号グライダーで高度10m,距離80m,滞空8秒を達成しわが国初の滑空に成功

となっており、明らかに矛盾を呈しております。オマケにCD版では「磯部」を「磯辺」と誤って記載しています。そして両年表では 認めないの次の事項/6月(日付なし)で書籍版は「磯部鈇吉」、CD版は「磯辺おの吉」が“グライダー倶楽部を創立”と記しています。この箇所を見る限りCD版の制作時にチェックが至らなかったことが解ります。CD版を購入された方には深くお詫び申し上げます。

 ついでに申しますと磯部吉(イソベオノキチ)は、しばしば磯部吉と誤記されますので注意が必要です。金“へん”に、夫の“つくり”で構成される鈇は大きな斧で“マサカリ”の意味だそうです。

 さて、ご指摘は茨城県鹿嶋市の記念碑の飛行データが認めないと異なるということですが、 認めないは飛行場所が記載されていませんが、所沢で試みたものですから違って当然です。帝国飛行協会の機関誌「飛行」で磯部鈇吉が述懐している記事によれば、 認めないの飛行に気をよくした磯部は航空局に相談を持ちかけ、グライダーにも“堪航証明”が必要となったものです。そして試験飛行を実施すべく適地を捜した結果、鹿嶋の砂丘になりました。そして所沢と鹿嶋での試験飛行はいずれも磯部鈇吉が開発した滑空機を片岡文三郎が操縦したものですから、誤記ではありません。

 1930(昭和5)年の航空事情を記載した帝国飛行協会発行の『航空年鑑/昭和6年版』を調べますと、 認めないや鹿嶋の飛行を本邦初の滑空と特に認定したような記述は全く無く、年史には同年1018日磯部のグライダーが滑空機初の堪航証明を受けたとあるだけです。そして飛行については同年鑑の民間航空界の動向説明で、104日に駒澤練兵場で軍と民の関係者を集めて、磯部のグライダーの公開飛行が行われた際の状況だけが掲載されています。当時は 認めないや鹿嶋の飛行よりもこれらの方が重要だったのでしょう。

 記念碑はそれから13年後の戦時一色で負け戦が続き始めた時に建立されたもので、碑文を読みますと「大日本滑空始翔之地」と銘打った碑により、滑空訓練を盛り立てて飛行兵の大量育成に結び付けようとしたものではないかと想像します。
 経緯は不明ですが題字を担当した人物/堀丈夫陸軍中将が、帝国飛行協会等の団体を集め戦時体制に改組した大日本飛行協会の副会長も兼任していた訳で、これを以って帝国飛行協会や大日本飛行協会が“国内初滑空”と認定したことには無理があるのではないでしょうか。
 
 碑文からは設置者が判然としませんが、この碑は5年ほど前までは近くの武田製薬の工場敷地にあったものを現在地に移設したものです。移設に際して当協会へ打診や連絡などはありませんでした。碑の制作に当たって著名人の支援を得ることは珍しくなく、ヒコーキ雲にも掲載されています、高知市のフランク・チャンピオンの慰霊碑の碑文は帝国飛行協会会長の大隈重信の“撰”と記されていますが、設置者は地元の有力者です。

 また記念碑はその性格上、独断専決、自賛的な傾向が珍しくありません。同様な例を挙げますと、日本の宇宙開発の先駆けとなったペンシルロケットに関して、秋田県の道川海岸に「宇宙ロケット発祥之地」、東京の杉並に「宇宙ロケット発祥の碑」(東京都A3657参照)、同国分寺に「日本の宇宙開発発祥の地」と銘打った記念碑があります。この銘について、とやかく言うよりもその趣旨を前向きに理解したほうが楽しいのではないでしょうか。


グライダーの本邦初飛行は1909(明治42)

 
次に本サイトの関心事の本邦初滑空ですが、当協会の刊行物からお答えしますと、【2】の古谷さんのご指摘のあった仏人、ル・プリウールの上野、不忍池の湖畔と判断されます。

 それは当協会が1975(昭和50)年に刊行しました『日本航空史/昭和前期編』(絶版)の808ページの第5章スポーツ航空の冒頭に簡単な記述があり、最後に「これがおそらく日本最初のジャンプであったろう。」と判断を示しています。
 
 そして当協会発行/1966(昭和41)年の『日本民間航空史話』(在庫)のなかで滑空界の重鎮であった佐藤博九州大学名誉教授は上記 認めないの飛行が本邦の実質的な滑空界のスタートと理解すると著しています。つまり認めるやル・プリウールの飛行は後に続かなかった単発的な事象と評価したのでしょう。しかしながら『日本航空史年表』はこの初滑空については触れずに冒頭の 認める、認めないだけです。言い訳がましいのですが、同書の凡例(書籍版だけに記載)に「国内については対象とするのは1910年から1980年まで」とあり、内容を初動力飛行からに限定しているとことわっていますが物足りなさは否めません。次に制作する際の課題です。

 折角の機会ですので、最近我々も知り得た、後に続かなかったものの注目すべき黎明期の滑空飛行を紹介して、前述の不備をいくらかでも埋めたく存じます。

 詳しくはhttp://kako-navi.jp/spot/spot/purpose/park/787などを参照いただきたいのですが、兵庫県加古川市の播磨富士ともよばれる高御位山/タカミクラヤマ(300b)の山頂に、「飛翔」と称する“関西初滑空”と控えめですが大変優美な形の記念碑が山頂に据えられています。地元では知られているようですが、碑文によると後に日本航空輸送研究所の操縦士となって殉職した渡辺信二が、磯部よりも早く1921(大正10)年に自作のグライダーで山頂より滑空していたというのです。近在の方は是非、登って先人の情熱を確認いただきたいと思います。そしてこの飛行について直木賞作家、阿部牧郎が「飛翔記」で1976年に「別冊文藝春秋」137に発表しています。興味のある方は大きな図書館や古書店を当ってみてください。

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 ルプリウール中尉の浮揚飛行をグライダーの本邦初飛行と認めるか アンケートの結果

ルプリウール中尉の浮揚飛行をグライダーの本邦初飛行と認めるか

 
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インターネット航空雑誌ヒコーキ雲閲覧者の反応

二者択一で質問した結果 2008年1月21日現在 

認めない   それは初飛行とは認められない  9人
認める     凧飛行でも初飛行だ        2人

Aさん 認めない
 プリアールの話は日本航空協会の定期講演で聞きました。飛行か否かと言うことであれば、飛行とは言えないように思います。大きな凧に人間が乗って浮揚したのとあまり違わないでしょう。飛行機凧というのがありますが、その大型版でしょう。操縦装置があったかどうか分かりませんが、ライト兄弟が飛行実験で飛行機の凧を飛ばしたのと同様だと思います。

Bさん 認めない
 理由=仮に浮揚したとしてもあくまでも単独飛行が必須で、何らかの形で地上と繋がった状態では駄目です。切り離して3秒でも5秒でも滑空状態が必要です。「凧飛行」は、例えば舟を他の動力船が曳航したり、故障車を他の車が曳航するのと同様で単独性が無いので駄目です!「凧飛行」が認められるなら日本の昔話にあったような気がしますが、巨大凧に乗って・・・・???と言うような。

Cさん 認めない 
 
凧のように地上と繋がった形の空中浮揚では滑空または飛行とは言えないでしょう。ただし、凧とは違い有人機体が単独で空中浮揚したとしても、搭乗者はなにも機体コントロールがまったく出来ない(考慮されてない)状態で単なる人間バラスト(重り)だけで地上に落ちるまでの飛行(それも飛行というより勢い、慣性でただ空中を走ってる?)の場合と、現代のような操縦舵はなくても搭乗者がそれに見合う運動、例えば身体を動かして体重移動でコントロールをしてある程度の機体姿勢を変えてなんとか着陸する若干進化した場合と2種類があると思います。 

 前者は、現実にヨーロッパの気球時代には何例もあり日本でもヨーロッパ気球時代より以前に岡山の表具師幸吉の話しもあります。もし前者なら、明治より以前の表具師幸吉が初飛行でも良いような気がしますが・・・(笑)。もっとも幸吉の話しが事実ならですよね!(大笑) どんな歴史も常に書き換えられるものですから。

Dさん  認めない
 凧飛行は、曳航、モーターグライダーによる動力飛行等とおなじく、「滑空機」「無動力機」本来の飛行では無いと考えられます。しかし「浮揚した」という事実はあるわけですから、注釈として記載する必要があると思います。

Eさん  認めない
 飛行の条件として、私が考えるのは、「航空機としての機能を備えた機体で『自由滑空』を伴うものである」というものです。この際、平地からの離陸であるか、山頂からの離陸かは問題ではないと思います。かつて多くのグライダー記録は、山頂からの発航によって成し遂げられています。ルプリウールの場合、前半部分は条件を満たしていますが、引き続けられたという点で、後半部は満たしていません。

 現在のグライダーは基本的にウィンチや飛行機の曳航によって離陸しますが、グライダーパイロットとしての個人的思い入れからすれば、被曳航時には「飛んでいる」とは思っていません。感覚的には「ただ、引っ張られている」という思いで操縦を行っています。確かにどちらの場合も、操縦桿をコントロールすることで上下左右の微調整はしますが、それは曳航を効率的に行うため、または安全を確保するためです。

 一定の高度に達して曳航索を切ります。そして、索を切った瞬間から、「ああ、今、自分はグライダーで飛んでいる」と強く感じます。自らの意思で飛ぶ「自由滑空」の始まりはまさにこの時からなのです。以上、極めて感情的感覚的な判断ですが、 認めないに投票します。

Fさん 認めない
 私は、索から離れなければ飛行ではないと考えます。

Gさん 認めない
 
やっぱり認めないでしょうか。でも、空への気持ちは感じられますよね。

Hさん 認めない
 曳航索が切り離されない状態のグライダーですが、私も「凧と同じ」と考え 飛行とは呼べないと思います。

Jさん 認める
 どうも曳航状態での飛行を初飛行と見なさない意見が、ヒコーキ雲の読者の間では多いようですが、私の考えは?@ル・ブリウール中尉の場合は初飛行と見なす、です。
 私自身パラグライダー乗りであり、ピュアグライダーの方の意見「曳航索を切った瞬間から自由飛行の開始」という感覚はよく理解できるのですが、曳航されていても地面を離れた瞬間の感覚というのはまた別のものがあります。特に初めて飛んだときには。以上、感情的な感覚から。
 ル・プリウールの機体作成には東大の田中館愛橘博士が協力しており、その後の博士の経歴から見ても、本邦初の理論に基づいて科学的に行われた最初の重航空機開発であったように思われます。田中博士と相原中尉は臨時軍用気球研究会のメンバーであり、この機体開発の経験がその後の彼らの活動にまったく無関係だったとは思えません。 

 参考までに、ル・プリエール中尉と彼の機体の写真が載っているサイト
    http://www.noii.jp/com/aikitu/koku/kikyuu2.html

Kさん  認める
 私は、凧飛行?も初飛行に入れて良いと思います。かの、リリエンタール先生もグライダーを作り、自由飛行の前に凧飛行をしたのではなかったでしょうか?多くの先人が、飛行機械らしき物を作り崖から落としたり、地上を這い回ったりしましたが リリエンタールは理論にのって製作し、凧飛行を行ったと思います。

Lさん 認めない
 飛行に関する知識や定義は判りません。ただ、イメージとして、索などで何かに繋がっている状態は、赤ん坊の伝い歩きを連想させます。手を離して、あんよが出来る状態が、初飛行と言えるような気がします。あくまで、イメージですが・・・
 ただ、日本航空協会あたりが公式に記録として残すのであれば、注釈をつけておくべきだと思います。

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4 試論 わが国初の滑空飛行について 中国航空協会 古谷眞之助 

 


執筆
   中国航空協会 古谷眞之助

所載 社団法人日本滑空協会発行 JSA INFO 2010.Feb

評 佐伯邦昭

  インターネット航空雑誌ヒコーキ雲がグライダーを取り上げるきっかけになったのは、日本の滑空初飛行という神栖市の大日本滑空始翔乃地碑の写真からでした。しかし、滑空初飛行については、碑が示す磯部鈇吉氏によるものか、或いはル プリウール中尉の曳航飛行がそうなのか等々、いまだに定説がありません。

 古谷さんは、その中で意見を述べていますが、更に研究をすすめて、1921(大正10)年10月17日に神戸の高御位山から飛翔した渡辺真二をもって、わが国初の滑空飛行なりとの試論を展開したのが、この記事です。

 徳川・日野の初動力飛行の定説の中にあって、グライダーの初飛行は、いつ、誰が、どこで成し遂げたのか、グライダーをこよなく愛するが故にもやもやを吹き飛ばしたという筆者の情熱を感じますので、日本滑空協会機関誌ではありますが、書評に取り上げる次第です。


・ 定説が生まれなかった背景

 筆者は、まず、滑空初飛行の定説がない背景として、軍が滑空に関心を示さなかったことを挙げています。航空後進国として世界に追い付け追い越せの軍事風潮の中では、無動力飛行から飛行理論を身に付ける余裕などなく、とにかく最新の航空機を入手し、生産して飛ばすということにのみ目が行っていたことはうなずけます。だからと言って、それが滑空機飛行などの十分な記録が残っていないことと結びつくかどうかは、もっと検証の必要があるように思います。

・ 滑空飛行の定義
 次に、論考を進める上で基本となる「滑空飛行の定義」について、筆者の見解は、人力、自動車、ウインチ、航空機によって曳航されている時は、索を通じて動力を貰っている状態なので、いかに機体が浮揚しようとも被曳航飛行であって「滑空飛行」とはいえないとしています。

 それは、自身がグラーダーパイロットとして、曳航されている間はいかに安全に高くひっぱりあげて貰うかに全神経を集中しており、自らの意思で索を切った瞬間からがパイロットの腕、つまり「滑空飛行」に移行するという経験によるところのもので、なるほどと思います。よって、明治42年のフランス海軍ル プリウール中尉の不忍池畔での曳航飛行は「滑空飛行」にあらず、初滑空飛行とは認められないと切り捨てられる訳です。

・ 渡辺真二説

 そこで、記録にある限りの黎明期の滑空について1785(天明)年から1930(昭和5)年までの17例を挙げて検証し、最終の結論が、1921(大正10)年10月17日渡辺真二による飛翔を「初の滑空飛行」であると結論づけました。

 渡辺真二の飛行は、304mの高御位山(たかみくらやま)に自作のグライダーを担ぎあげ、数人が人力で押し上げる形で離陸させ、松の大木に尾部をぶっつけながらも急峻な崖を利用して降下し、何とか松林に安着したというのです。安着ということは操縦によって水平飛行に戻したことを意味するので、これこそ「滑空飛行」だという訳です。

 その発空地点には、40年後の1961(昭和36)年には滑空記念碑が建てられ、当時の神戸市発行のパンフレットには「日本グライダー発祥の地」と記してあったそうです。

 主題の「わが国初の滑空飛行」であるかどうかについては、文献に現れる具体的な飛行方法の中で、 渡辺機の滑空比や飛行時間などを多角的に検証した上で、筆者の定義する「滑空飛行」を満足させる最初のものである と結論付けています。

 門外漢の評者としては、それが正しいかどうかについての判断は避けますが、この論考が滑空界の歴史に一石を投じるものであ ることを強調したいと思います。動力飛行の百年が何かと取り上げられる今日、専門家ないしは専門機関がグライダーの歴史にきわめて冷淡であることに業を煮やした古谷眞之助さんの声に皆さんが耳を傾けてほしいものです。

 

補足 古谷眞之助

 1 佐藤博著、木村春夫編「日本グライダー史」1999年発行によれば、
◎ 明治42(1909)、フランス武官ル・プリエー海軍中尉、相原四郎海軍大尉の協力を得て竹の骨組み複葉グライダー製作、1226日、上野不忍池端で、自動車曳航にて試験飛行実施。滑空距離約20b。 

◎ 明治43年、伊賀氏広男爵が自作単葉グライダーで、やはり自動車曳航により、高度1b、距離15bを飛行。東京板橋競馬場。 

◎ 大正5年、先代の田中省己が自作単葉グライダーで何回か滑空を試みた。 

◎ 大正10年、東京帝大航空研究所小野助教授は高級グライダーの製作着手、しかし大正12年の関東大震災で焼失。 

◎ 昭和5年、所沢陸軍飛行学校教官藤田中尉はプライマリーを製作。試験飛行では曳航方法が悪くて離陸しなかったが、のち、磯部鈇吉の日本グライダー倶楽部で長く練習に使用された。


2 村岡正明著、「航空事始 不忍池滑空記」1992年発行
によれば、ル・プリウールの飛行についてはもう少し詳しくて 

◎ 明治42125日、ル・プリウール、第一高等学校グランドにて、自動車曳航により試験飛行。大人が搭乗すると飛行せず、123歳の子供を登場させると、飛行高度2b、距離10bの飛行が可能となった。 

◎ 明治42129日、不忍池畔の空き地で、フランス海軍中尉ル・プリウール搭乗し、自動車曳航により、飛行高度46b、距離約100bの飛行に成功。日本海軍相原大尉は20bまで上昇するも墜落。 

◎ 明治421226日、同氏、同地にて、自動車曳航により、同じく高度810b、距離約130bの飛行に成功。 

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5 日仏合作グライダー100年記念講演会 の模様と感想 古谷眞之助

 
 2009年129日、東京大学安田講堂で開催された掲題講演会式典に出席してきました。以下、その時の模様を簡単にレポートします。

     PR版から

日仏合作グライダー100年記念講演会式典

本年は、1909年12月に在日フランス大使館付ル・プリウール武官、相原四郎海軍大尉、及び田中舘愛橘東京帝国大学教授によって日本で最初に航空工学に則ったグライダーが飛行してから100年目に当たります。このため、これを記念するとともに、今後の日仏の学術・科学技術における交流を更に推進する契機となるよう下記の催しを企画しました。

主 催 : 東京大学、在日フランス大使館、航空宇宙会
後 援 : フランス航空宇宙工業会日本委員会、日本航空宇宙工業会、日本航空協会、朝日新聞、㈳日本滑空協会、㈶日本学生航空連盟、日仏工業技術会、日本航空宇宙学会 他
協 賛 : 法人/フランス航空宇宙工業会日本委員会、在日フランス大使館、川崎重工梶A褐v算力学研究センター、五甲商事梶A全日本空輸梶A三菱商事梶A日本航空、三菱重工業梶A潟tロムページ
    個人/相原宏徳、桜井達美、戸田信雄、鈴木和雄、諏訪吉昭
日 時:平成21年12月9日(水)14:00〜16:30 
場 所:東京大学安田講堂 レセプション(
山上会館)

14:00-14:30              開会の辞
              -    濱田純一/東京大学総長
              -    フローランス・リヴィエール=ブリス/在日フランス大使館科学技術参事官
              -    保立和夫/東京大学大学院工学系研究科長

14:30-15:45              基調講演
              -    村岡正明/航空史家:「航空事始」
              -    ジャンポール・パラン/フランス航空宇宙工業会(GIFAS):フランスと日本の
                航空学の歴史的十字路 1905-1935
              -    ミッシェル・テオヴァル/フランス航空宇宙工業会(GIFAS)会長:GIFASとフラ
                ンス航空産業の活動
              -    ブノワ・リュロー/在日フランス大使館商務官:フランスの大学及び欧州プログ
                ラムにおける航空学研究の未来
              -    鈴木真二/東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻教授:航空イノ
                ベーションの原点と将来

15:45-16:05              相原四郎大尉、田中舘愛橘教授の関係者紹介
              -    相原宏徳氏
              -    松浦明氏

16:05-16:20              グライダーの模型及びCG紹介

-    ベルトラン・サンマルタン/ダッソー・システムズ:航空学研究におけるデザイン、建設、シミュレーションへのテクノロジーのインパクト

16:20-16:30              閉会の辞-    五代富文/航空宇宙会会長(実行委員会委員長)

  私の講演会出席の目的は、以下の2点でした。

 認める     明治42129日、上野不忍池で飛んだ駐日フランス大使館付き武官ル・プリウール中尉によるグライダー飛行の詳細を知る。

   認めない     主催者は、この飛行をどのように位置づけているかを知る。

 

認めるに関しては、リチャード・アンセン氏のよる「ル・プリウール2号機」の五面図に基づいて製作された1/10の模型展示、及びCGによって、説明は十分とは言えませんでしたが、まずまず理解できたと思います。

 

 

 以下の2枚は当時の実写写真として紹介されたものですが、プリウールの表情には余裕と自信が感じられますし、また飛行ぶりも安定感が感じられます。彼はこれに先立つ125日、当時の第一高等学校校庭でも試験飛行を行っています。この時は人力のみによる曳航で、大人が乗ると浮揚しなかったため、子供を乗せて行ったところ、高度3.6m、飛行距離10mは飛んだとのことです。実に23人もの子供を代わる代わる乗せたそうですから、自動車による曳航を行えば、十分浮揚できると自信を深めたに違いありません。

 この機体の製作には、プリウール中尉と懇意だった相原四郎海軍大尉、当時の東京帝国大学教授、田中館愛橘も協力し、まさに日仏合作機でした。機体の骨組みには竹を使用し、翼面には絹布を使用していました。機体前面にエレベーター、後部の箱型の3葉の垂直尾翼の中央が可動式のラダー、複葉の下翼の端にはエルロンを装備していました。

 ゆくゆくは機体にエンジンをつけて飛行するつもりだったようですから、その点ではライト兄弟と同じです。三者の大いなる好奇心、理論に裏打ちされた行動力がこの機体を完成させ、飛行を実現させました。製作は私費で行われ、学生が手助けしています。また、プリウールはこの時期に講道館で加納治五郎に入門し、柔道の本を著してフランスに紹介していますが、これは、柔道の受け身が墜落の際に役立つと考えたからと言いますから愉快な話です。

 村岡正明氏の著書「航空事始」によって事前知識はありましたが、このグライダーにはしっかりした3舵を使った操縦装置を備えていたこと、また、自動車によって最初から最後まで曳航され続けた飛行であったことが以下のCGにより再確認できました。このCG上映では、離陸から着陸まで単に画像が流されただけで、詳しい解説がなかったのが何とも残念です。当日基調講演を行われた村岡氏に詳細な解説をしていただきたかったと強く思いましたが、何せ時間不足でした。

 以下は、当日上映されたCGの離陸から着陸までのシーンの主な写真3枚です。


       着陸した瞬間。曳航され続けていた


     会場でピアノ線を使って飛行した模型

 実は、ずっと曳航され続けたのか、あるいは途中で離脱し、自由滑空を伴った飛行だったのかは、私にとって最大の関心事でした。と言うのも、私は我が国で初めて「滑空した機体」を追っているからです。ずっと曳航され続けたのであれば、これは「滑空飛行」とは言えないというのが私の見解です。CGの着陸する箇所では分かりにくいですが、間違いなく被曳航のまま着陸しました。

 この機体がエンジンのない飛行機として完成度が高かったことは、1226日の再度の飛行実験において、タッチアンドゴーや波状飛行を実施し、飛行距離約200mを達成したことからも明らかです。「初滑空」云々を別にして、確かに我が国航空の幕開けを担ったグライダーであったことは誰にも否定できないことかと思いました。適当なエンジンさえあれば、我が国初の動力飛行も決して夢ではなかったでしょう。

 さて、認めないについてですが、講演会は、時間が2.5時間のところに演者8名と多くて、私の関心のあった、飛行そのものについての言及はわずかなものでした。主催者側の東大、フランス大使館、航空宇宙会は、この飛行を我が国初のグライダー飛行と正面切って謳ってはいません。案内文には「日本で最初に航空工学に則ったグライダーが飛行してから100年目」とあり、さすがに「初滑空飛行」とはしていません。

 この講演会では、プリウールの飛行はひとつの事実、きりの良い時なので、むしろ日仏との航空の関係を強調して、アメリカ偏重の我が国航空界の目をフランスに向けさせる「道具のひとつ」と考えているように感じました。

 仏大使館はフランス航空工業界の紹介に必要以上の時間を費やした感があります。そして東大側も仏側のひどい時間延長に対してあまりに寛容すぎました。そのため、その後の項目は時間不足も甚だしく、もうひとつの関心事であった相原、田中館両氏のご子孫の方々との対談では、司会者が「手短に」とか「簡単に」とかを連発してしまう始末で、二人の人となりのほんのさわりの部分だけで終わってしまったのが何とも残念でした。

 ともかく、この機体が「初滑空した機体ではない」ことははっきりしました。

 となると、我が国で初めてグライダーで滑空したのは誰か。大いに気になるところですが、これについては別の機会に書かせていただきたいと思います。   (2009/12/13)

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6 日仏合作グライダーの模型展示について ET

 
 
私自身グライダーに関してはさほど関心がありませんが、2011年9月の連休中に東大を散歩していたら工学部11号館のロビーに講演会を記念して作成されたグライダーの模型とパネルが展示されていました。

      





 解説の中で田中館愛橘博士の名前の英名が間違っていると思いましたので展示先に確認のメールを送ったところお礼の電話がありました。

 この飛行に関して、私なりの簡単なメモも添付しておきます。

 明治421909)年129日東京・上野不忍池の畔で日本初の滑空飛行が行われた。

 日本初のグライダーは、駐日フランス大使館付武官ル・プリウール海軍中尉、相原四郎海軍大尉及び東京帝国大学教授物理学者田中館愛橘博士の共同制作で、空に魅せられたこの3人が知り合って、わずか数カ月で作り上げた好奇心と情熱の結晶であった。当時の日本は、未だその6年前にライト兄弟が世界初の動力飛行に成功したこともごく一部の人しか知らないような航空に関して無知な状況であった。
http://www.geocities.jp/michinokumeet/kikou/kikou19.htm

 3人が設計・制作した機体は最終的には動力飛行を考えていた。もし実現していたならば、国産機による国内初の動力飛行となっていたことであろう。

 3人の出会いから滑空飛行後の相原大尉とル・プリウールの人生が、村岡正明著、「航空事始 不忍池滑空記」(東書選書127、東京書籍株式会社)で知ることができる。なお、同じ著者で同名の以下の本が別の会社からも出ているようである。
http://HOME・SITEMAPpage1.nifty.com/starhall/nasa/firstflight1909.htm

 2年前はその百年目であった。これを記念して東京大学で講演会が行われた。(上記参照)

 日本初の滑空飛行に関しては諸説あるが、現在ではこの不忍池での飛行が最初とするのが定説となっているようである。フランスでは日本の初飛行と言えばこの飛行を指すとのことである。

これらの説は古谷さんの説からすると異論があるかも知れ ないが。

  相原大尉は留学先のベルリンで飛行船の墜落事故がもとで明治441月死去、日本初の航空事故犠牲者となった。

 2004218日東京・新橋の航空会館で、村岡正明氏による「上野不忍池の初滑空」−明治421909)年の航空事始−という講演があった。その最後に、上野不忍池の湖畔に初滑空の記念碑が無いのが残念であるとのコメントがあったが全く同感である。小生の自宅から近い場所というだけではなく、東大からも目と鼻の先にある場所でもあるからである。

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7  国立公文書館所蔵文書から 佐伯邦昭   公文書館

 国立公文書館が所蔵する故海軍大尉相原四郎関係の資料から、少なくとも同館はル プリウールの滑空機飛行を成功したと断じています。 

国立公文書館所蔵 撮影2017/05/30 翔べ日本の翼展にて 佐伯邦昭



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