HOME・SITEMAP 日替わりメモ グライダーの部屋目次


 
航空歴史館 掲載16/04/25

 

幻の1940東京オリンピック 滑空競技のグライダーで日本人が飛んでいる

 

中国航空協会古谷眞之助さん配信のコアラの国から2016/04/12版より

 

 
 1940年、幻となってしまった東京オリンピックの競技種目にグライダーが予定されていたことをご存知の方はそう多くはないと思う。

 アジアで初の、そして有色人種国では初めて開催されることに決まった東京オリンピックでグライダーが正式競技として決まったのは1938年3月のことだった。この背景には、ドイツのワルター  ゲオルギ教授を中心とする国際滑空学術委員会の運動があった。

 人間の体ではなく、グライダーを使って競技する限り、そのグライダーは同一設計のものでなくてはならないとされて、設計コンペが行われ、選ばれたのが、ここに示した機体、ドイツ滑空機研究所開発のOlympia Meise( オリンピア・マイゼ)である。しかし、残念なことに日中戦争の影響から東京五輪は結局、日の目を見ることはなかった。
 
 ドイツ滑空機研究所の設計図面は世界中に配られたので、我が国でもこの機体が製作されている。

 ここオーストラリアで飛んでいるKen Ueyama 氏にご登場願おう。氏が搭乗しているのがこの機体、マイゼである。



 1940 年の東京オリンピックに出場する予定の機体はこんなデザインだったであろうと推測して、このような塗装にされたのだとか。

 もちろん、この機体は我が国で作られたものではないが、それでも70年以上も前に作られた機体が、今も優雅にオーストラリアの空を飛び続け、しかもそのオーナーが日本人で、かつそれらしい塗装まで施されているとなると、日本人グライダーマンの一人として、これほど嬉しいことはないではないか。マイゼは書物の世界のもの、と思っていただけに、ただ、ただ吃驚するばかりだった。