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航空歴史館

神戸港 徒然の記 飛行艇と飛行艇母艦 (抄)

世界の艦船 2009年8月号の原作者原稿から

元原稿及び写真提供 中井八郎 (抄 佐伯邦昭)

 

 
● 飛行艇の故郷 神戸 (小見出しは世界の艦船から借用)

 川西航空機株式会社が“飛行艇の川西”と呼ばれるようになったのは九七式大艇を生産してからである。九七式大艇は同社鳴尾製作所で215機製造され、海軍はもとより大日本航空の南洋航路の花形としても活躍した。

 川西は、続いて開発した二式大艇の量産を見越して深江の浜(現神戸市東灘区深江)の埋立地に甲南工場を建設し、ここで二式大艇の5号機から生産した。筆者は中学校のグランドから胴体の太い飛行艇が大阪湾で離着水しているのを眺めており、後に甲南工場へ学徒動員された級友から二式大艇という名前を聞かされた。

 しかし、手間のかかる割に生産効率の悪い二式大艇の製造は131機(鳴尾の4機を含む)で打ち切られ、極光の生産に切り替えられてしまった。それも、1945年5月11日の空襲で工場は大損害を受けそのまま終戦を迎えた。

 “飛行艇の川西”が復活したのは、終戦から10年後の1955年である。発足間もない海上自衛隊が米軍からグラマンJRF-5グース飛行艇4機の引き渡しを受け、12月6日に追浜基地から飛来して、新明和興業と名を変えた甲南工場の滑りを上が った。整備を受けた4機(9011-9014)は、鹿屋航空隊(1957年3月から大村航空隊)で、UF-2が就役するまで使用された。

参考写真 海上自衛隊撮影 対馬竹敷で訓練中の大村航空隊JRF

 飛行艇としては、続いて2機のPBY-6Aカタリナ(5881-5882)が供与されたが、JRFもPBYも水陸両用機であり、その整備は大阪の伊丹飛行場に隣接する新明和伊丹工場で行われた。
  (
思い出A55011957年頃の新明和興業伊丹工場  参照)

 PBYの2番機5882は、滑走路をオーバーランして側溝に突っ込む事故を起こしている。

参考写真 海上自衛隊撮影 対馬竹敷で訓練中の大村航空隊PBY

 

 そして、海上自衛隊待望の新鋭機として、1961年度からグラマンUF-2アルバトロスを取得した。1号機(9051)と2号機(9052)は、グラマン社で受領した海上自衛隊員により日本へ空輸された。最終的には6機(9051-9056)を受領した。


タイプされているキャプションは中井さん自身の手による 以下同じ

参考写真 海上自衛隊撮影 大村航空基地のUF-2

 

● 米水上機母艦との出会い

 UF-2が配属される1年前の1960年2月7日に、神戸港第6突堤へ水上機母艦AV-13ソールズベリーサウンドが接岸した。水上機母艦といっても米軍はフロート付きの水上機を廃止していたので、西太平洋前線での飛行艇基地として補給や整備を行うものであった。私が初めて見た水上機母艦である。




 

● はやともに乗ってきた飛行艇

 1960年12月6日、神戸港中突堤に海上自衛隊の掃海母艦はやともが入港した。

 はやともは、1960年に米海軍のLSTを購入して佐世保重工で改造していたものである。初めて見る同艦の上甲板に米軍マークを描いた飛行艇がおり、疑問を抱いて引揚げたのだが、後日、航空雑誌で「海上自衛隊の対潜哨戒飛行艇開発に関連」していたものであることを知る。

 新明和興業では、同社が開発した飛行艇の波消し装置、低速で着水するための大迎角フラップとそのためのBLC装置等により、波高3メートルの荒海でも着水することができ、艇内からソナーを海中に降ろして潜水艦を探知する飛行艇を開発していたが、これら の装置を実験するために実物の四分の三程度の実験艇を飛行させる必要があり、海自を通じて米海軍にUF-2(後のHU-16D)の供与を要請していた。

 あいにく、米海軍には供与できる機体がないため、アリゾナの砂漠に空軍のグラマンSA-16A水陸両用機があり、UF-1(後のHU-16C)と同型なので、これを譲り受けて、追浜で海上自衛隊へ引き渡した。

 はやともに積まれて神戸へやってきたSA-16Aは、翌7日に甲南工場に陸揚げされた。ご承知のように、大規模な改修が行われてまるで別飛行機の姿に変わった。名称はUF-XS、ナンバーはオ-9911となり、1962年12月25に大阪湾での初飛行後、大村において試験を行い、1967年12月9日、甲南工場へ最終飛行を行った。 (SA-16AからUF-XSへの転換は航空史探検博物館A4402-3UF-XSの改造母機について 参照)

参考写真 海上自衛隊撮影 大村湾におけるテスト

 以後、長らく海上自衛隊下総航空基地へ保管された後、1967年から清水市の東海大学航空宇宙博物館で屋外展示され、更に、VTOL・STOL機の系譜を蒐集しているかかみがはら航空宇宙科学博物館が引き取って、1996年から展示されている。その経緯の中で、清水市三保の松原においては、後の救難飛行艇US-1の塗装と同じパターンに塗られており、恐らく下総航空基地の保管場所で試験塗装をされた姿で東海大学へ払い下げられたのではないかと推定される。しかし、各務原市は痛んだ機体の修復と共に塗装も元のガルグレイに波高観察の白線という姿に戻して展示している。(A4517及びA44022参照 この項は佐伯邦昭独自の推考


● 米海軍飛行艇の終焉

 1965年11月12日、関西汽船の客船から深江の浜沖合に飛行艇母艦キュリタックAV-7が停泊しているのが見えた。同艦は、ジェットエンジン推進のマーチンP6Mシーマスターの支援用として改造されたが、P6M生産が中止になり、同型艦2隻と共に対潜哨戒飛行艇マーチンP5Mマーリンの支援任務に着いていた。 しかし、1967年に米海軍がマーチンP5M飛行艇の使用を停止するとともに退役した。



 P5Mの運用中止を全く知らなかった私は、1967年4月6日新明和で修理しているP5Mを覗いてみようと深江の浜へ出掛け、東側の広場にSGマークなど4機を確認したのであるが、1か月半後に試験飛行を楽しみに行ってみると、QEマークなど10機ばかりが並べられている。よくみると解体中の姿であった。

 これらは、いつの間にか姿を消した。P5Mよさようならであった。

 

● 戦後国産飛行艇の系譜

 P5Mと入れ替わるように、甲南工場内では海上自衛隊のXP-S対潜哨戒飛行艇の試作1号機が完成に近づいていた。UF-XSの試験結果を十分に取り入れたこの野心作は、1967年9月20日に進水を行った。機尾からそろりそろりと下りて水上に浮かぶというもうひとつパットしない進水ではあったが。

 PX-Sは、1970年10月21日に部隊承認を得、PS-1型航空機の制式名が与えられた。

 試作2機、量産型21機が生産されたが、作戦行動がロッキードP-3Cオライオンの方が優れている等のために、唯一岩国にあったPS-1部隊の第31航空隊とともに1989年3月31日限りで姿を消した。野心作とは言え、事故で7機も失われるという欠陥も抱えた飛行艇であった。

 新明和工業は、PS-1の欠陥を克服し、伝統ある飛行艇技術を継承するためもあって、洋上へ進出する救難飛行艇、陸上基地も使える飛行艇の開発を進めた。

 それがPS-1改=US-1である。胴体の上半分を白、下半分をアイボリー、機首と尾翼はオレンジ、後部胴体に太い黄色の帯を描き、いかにも救難機らしい人目に立つ姿で(上記UF-XSでの塗装推論参照)1974年10月1日に初号機(9071)がロールアウトした。US-1は、6機(9071-9076)生産され、すべて-1A型に改造された後、既に全機退役した。

 US-1の7号機からは、エンジンを強化したUS-1Aとなり、14機(2007-2020)生産された。天皇皇后両陛下の小笠原訪問に際しお召機に選ばれたのもUS-1Aの輝かしい歴史の一こまである。現在、岩国の第71航空隊及び厚木基地(1機派遣常駐)で運用されているが、続いて量産されているUS-1A改=US-2の就役に伴って順次退役しつつある。

 US-1A改=US-2は、US-1A運用経験から「よりよきグレードアップした救難機」として開発された。フライバイワイヤ、自動操縦装置、与圧、エンジンとプロペラの換装等、前形式とは比較にならないほど近代化された飛行艇であるが、協力会社の不祥事により、2年遅れるなどのトラブルがあり、着手してから7年後の2003年4月22日にようやく1号機がロールアウトした。

 量産型の3号機は更に遅れて2008年晩秋に工場外に姿を現した。試作1号機が赤白、同2号機が青赤で、まさに試作機といった外観だったのに対し、紺色一色の鉄道の貨車を連想させるような予想もしない塗装であった。

 

● 結び

 今後、岩国基地の飛行艇7機体制を維持しながら、常に風とウネリを伴う海という自然と折り合いをつけながら発着させる飛行艇乗り達は、孤独な冒険を強いられていくのである。

 わが国で唯一の飛行艇メーカーである新明和工業の甲南工場で製作されたり修理された飛行艇は、神戸港の港湾区域の一部を一時的に独占して離水し着水を行い、滑走中はボートになる。

 UF-XSに始りUS-2に至るまで何十機という飛行艇を眺めてきたが、撮影するマニアのカメラとレンズは一昔前には予想もできなかったデジタルになり、しかも超高級である。

 あらゆる面での技術の進歩を実感するものである。

    (文責 佐伯邦昭)

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