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航空歴史館いしぶみ
 
 
A6420-2 広島県廿日市市(登山口は大竹市松が原町 ) 通称飛行機山
       Hikoki-Yama, Hatsukaichi City, Hiroshima Prefecture
 

浅田砲兵大尉殉職乃碑 撮影2003/08/03 佐伯邦昭

 事故は1923(大正12)年7月17日に起きました。

 飛行第4大隊(後の太刀洗飛行第4連隊)は、広島の第5師団との聯合演習のためにサルムソン2A2 乙式1型偵察機4機を空輸することになり、淺田砲兵大尉と津村曹長の1007号機は7月17日午前7時40分友機とともに福岡県太刀洗飛行場を離陸しました。

 この日は雲が深くて地上が認識できないため、山麓をたどろうとしたらしいのですが、濃霧のため僚機ともはぐれ、広島県佐伯郡三和村松が原の河平山(こうひらやま 標高550m)の山頂の樹木に脚柱を引っ掛けて墜落しました。操縦していた淺田建二砲兵大尉は殉職し、同乗の津村曹長は負傷しました。事故を目撃した当時の三和村など5ヶ村(現在は広島県大竹市松ヶ原町、碑の行政区域は広島県佐伯郡大野町)の住民が淺田大尉の遺体を山頂から運び、お寺に安置して陸軍が引き取りに来るまでの3日間鄭重に供養しました。

 その献身的な扱いに感激した遺族から多額の謝礼金が贈られ、そのお金で翌1924年2月にこの殉職之碑が5ヶ村によって建立されました。

 以後、河平山は飛行機山と呼ばれるようになり、555mの山頂を中心に九つの峰があって、現在は河平連山(こうひられんざん)として尾根伝いに約3時間のハイキングコースが整備されています。殉職之碑は最初の峰(0号峰という)に近い山林の中にあります。歳月とともに淺田砲兵大尉殉職之碑の文字も読みにくくなっています。

 なお、ハイキングコースとしては、ミニ八ヶ岳などとして有名で、河平連山で検索すると写真入りの詳しい案内を見ることができます。 

2003/08/16追加

日本航空史 乾の巻 昭和11年4月1日 日本航空協会発行 p.882

(前略) 浅田大尉は1007号機を操縦,津村曹長を同乗して午前7時40分友機と共に太刀洗を出発、(中略) 大尉は墜落の刹那破壊せし機体に圧せられ、足は座席に突っ込み、頭部を粉砕されて絶命。同乗津村曹長も数ヶ所の重傷を負へるも、これを報告せんとして棘の間をよろぼひつつ辛ふじて山腹に到たりし時、柴刈の土地青年岡麟三氏に遭遇救助さる。