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航空歴史館

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呉海軍工廠の思い出 裏方の見た呉海軍工廠 CD頒布
 1 呉海軍工廠で見た水上機の思い出
  2 呉海軍工廠 艦載機 による空襲の観察記録
  3 呉海軍工廠の職員バッジについて 

須賀雄介

      

裏方の見た呉海軍工廠 CD頒布のお知らせ

須賀雄介氏が呉海軍工廠会計課資材班で働く傍ら、船舶、車両、航空機を趣味とする人間の目から観察した記録(A4換算76頁)です。下記の1〜3の思い出を読んで頂ければ分るように、既存の雑誌書籍の技術将校や作家の型式的或いは空想補完的な作品とは全く異なり、当時のマニアの目でしっかり観察してやろうという意図をもって各工場、軍艦、水上機や外部施設などをチェックされていますので、七十年前の呉海軍工廠の姿が眼前に蘇ります。

須賀氏は、先般、朝日新聞呉版がドイツUボートの呉入港の連載を載せた時も彼に直接取材をしており、記憶の確かさとともに技術への見方も的確であるとの保証つきです。

呉市役所が2014年度から行う呉海軍工廠歴史の全面的見直し事業にも資料として採用されました。これを機会に、須賀雄介氏のご好意によりCDを頒布します。希望者は、下記へお申し込みください。

メール sa@hicat.ne.jp 頭にdanをつける  佐伯邦昭宛

送料込みで1枚2000円とさせて頂きます。送金先は申し込みのメールに記載し、入金確認後に発送します。

       

 

 

A6410-5 広島県呉市 呉海軍工廠
      Kure Navy Yard, Kure Citi,
Hiroshima Prefecture
   

1 呉海軍工廠で見た水上機の思い出

 94式 2号水偵 95式水偵 零式3座水偵 零式観測機 零式小型水偵 特殊爆撃機晴嵐

 

 

子どもの頃 ヒコーキと言えば水上機 
 
 そもそも私が飛行機の虜になったきっかけが昭和一桁後半時代子どもの頃、地元新聞社航空部の水上機ハインケル
HD25(国産型)2機と横廠式イ号甲型1機が始まりである。
 
その格納庫は当時の住居から約4kmのところの内海にあり、交通の便が良かったので学校から戻ると家には上がらずランドセルを放り投げて「○○君と飛行機見に行く。お金!」と言っては飛び出し、かなり頻繁に見に行ったことであった。
 
  時にはクレーンで海面に下ろして滑走離水まで、またその逆に着水から揚収作業までを見ることができたが、何れも静止水面で爆音とともに航跡を引き、水煙を上げての離着水のシーンを目前にして子供心を躍らせたことであった。
 またレール付き台車に載った機体の下でフロートをコンコンとノックしてみることも出来たし、機体下面に風車式発電機の小さいプロペラがあったこや、パイロットや機関士の名前まで覚えている。
  この
23年後には天気さえ良ければ殆ど毎日我が家近辺の上空を飛ぶ大日本航空の旅客機フォッカー・スーパーユニバーサル水上機型(写真)と、一時期は14式水上偵察機改造旅客機(以下水上偵察機は水偵と略称)がのんびりと飛んでいた。


 やがて戦時となると 、昭和15年に高知新聞社が15年の春に高知県民に呼びかけて寄付を募り、
献納した飛行機が95式水偵であった。(写真は、KAZUさん提供、昭和15年11月17日に献納式と裏書されている)
 更には海軍航空隊(佐伯?)の水偵が編隊で飛来することもあった。後年呉海軍工廠勤務中に目撃する空母以外の艦載各種水偵など、考えてみると水上機に直接関わったわけではないがプロペラ機の時代、身近の飛行機は総て水上機であったことに改めて気付くのである。

 

 呉海軍工廠では94式・95式水偵零式三座水偵零式観測機、潜水艦専用の零式小型水偵、それに1回きりだったが潜水艦<イ400>に搭載の特殊爆撃機晴嵐も至近距離で見ることができた。
 遠い過去のこととなったが、これらに関する記憶を手繰り寄せ、戦後明らかになった資料などを加味しながら、今ではすっかりマイナー機種となってしまった水上機に、あまり明るくはないスポットライトを当ててみた。

 

1 942号水偵

 当時は艦載水上機と言えば殆どが複葉機であった。この94式水偵も例外ではなく3座複葉のせいか、実際のデータ数値よりかなり大きく見える双フロート機である。
 優れた安定性に加え複葉羽布張り木金合成機体とは思えない
1.2kgに及ぶ燃料搭載量は、航続時間11.5時間という当時の実用単発機としては驚くべき“長足”を生み、正式採用後には早々と横須賀〜バンコク間の単独飛行でその優秀性を立証した。
 この安定性を産んだ翼型構造の優秀さに着目したドイツから譲渡の申し入れがあるなど、川西航空機の傑作機として知られる名機である。
3座の中の風防の無い最後部席(通信)左右外側にスライド引き揚げ式シャッター(透明樹脂製)による座席覆いがあるのが外見上の特徴である。

 

 

2 95式水偵

 
かつては水偵として馴染み深い機体であったが、零式観測機と交替していったので艦載機としては特に近くで見た記憶はない。
 しかし呉海軍航空隊が訓練に使用していたので飛行中を見る機会は度々あった。フロート機(単フロート)ながら垂直旋回、宙返り、急降下に続く急上昇などのまるで戦闘機並の身軽な動きでの訓練は時々見られた。
 宙返りはパワー不足か不利なフローとのせいか急降下で加速後、急上昇して宙返りに移るが、ループの頂点直前で力尽き?失速、そのまま横転に変じて急降下で立て直すなどは珍しくなかった。
 様々な動きの中で爆音の極端な変化が聞こえるが、見ていても距離があるのでタイムラグが大きく実際にどの時点であの短い「グオーッ!」という爆音を発しているかは理解できなかった。

 この後退角付き上主翼や羽布張り機体には第一線機の暗緑色や迷彩色ではなく銀塗装がよく似合い、軍用機としては異例の“可愛”さを覚える好きな単フロート複葉水上機である。日中戦争初期にはこの艦載機が活躍し、その身軽さから空中戦を演じ、相手を撃墜するなど戦闘機としても華々しく奮戦したことが新聞などで報道されたことであった。
 本機は90式水偵の発展型で中島製である。模型キットがあれば例え1/72であっても張り線を省略せず絶対に丁寧に作ってみたいが、残念ながらそのキットは見たことがない。 

 

3 零式三座水偵

 呉海軍工廠での配置部署が決まるまでの
45日間は座学や分散している部署関連施設見学に歩き回ったが、ある場所で建物の後が港内が見渡せるようになっていて突然目の前150mに戦艦「日向」を真横から見ることになった。予期しなかっただけに間近に見るその偉容に一同が感嘆の声を上げていたが、見ていると艦尾のカタパルトの下の海面に見慣れない水上機が浮かんでいるではないか。
 よく見ると低翼単葉、色は薄緑色系で距離があったせいか、その機体はまるで自動車のように光り輝いていた。それまでは写真で見たことも無かったのでその姿とカラーに驚いたが、それが零式三座水偵との初対面であった。
 この時の強烈な印象は今も鮮明である。当初の脚部支柱は左右各
2本とその横方向にV型張り線があったが、後期型は支柱がV型左右各2本づつに変更され張り線は廃された。 

 さて水上機には不可欠のフロートの大きさであるがこの機体を例に上げると全長7.94m、最大幅1.06m、最大高1.08mであり、屋内でこのサイズを目測で描いて見るとその巨大さが凡そ見当がつくと思う。これが2個とは驚くかもしれないが、許容過荷重4,000kgを水面で支え(浮かせる)、更には高速で滑走すると思えば理解できるだろう。

 99式艦爆と並び日本機には珍しいハインケル系を思わせる翼型の、日本、いや世界的に見ても双フロート機では最も美しいフォルムの愛知航空機製の低翼単葉水上機である。なおエンジンは三菱「金星」40シリーズで、フロート後端には船のような舵があり、垂直尾翼と連動させることが できる構造になっている。

 

 

4 零式観測機

 通称「ゼロカン」である。時折港内での離着水を見かけるその殆どはこれである。風の強い海面が波立っている日に、離水直前のフルパワーの爆音を轟かせながら蹴立てる波は強烈なプロペラ後流で砕け散り、まるで白煙を噴出しているように美しい光景であった。
 三菱製にしては異例の水上機であるが、零戦、雷電の設計スタッフだった元技師の話によると、水上機とは無縁だった三菱はフロート製作に当たっては経験豊かな川西航空機へ技師を派遣し、そのノウハウを求めたとのことである。

 この機体は空冷エンジンに付き物のカウリングの下にあるべきオイル・クーラーが見えないことにお気付きだろうか。実は正面から見るとフロート支柱の機体側付け根近くに円形の穴が見えるがそれがオイル・クーラーである。開口部が小さいため奥行きで冷却面積を稼いでおり、こうした事により最高速度が1.5〜2ktアップしたという。

 港内に着水し母艦(空母の意味ではない)に近づくと後部席の乗員が出てきてパイロットの頭上を跨ぐ形で立ち、先ず主翼上面から吊り上げ索を取り出しておいて翼上に上がり策を支えに写真のように立つ。

 母艦のクレーンのフックは既に適度の位置・高さに下ろされて待っているので、フック目掛けて接近。真下に来て 索をフックにかけた瞬間クレーン(海軍ではデリック)巻き上げON
 プロペラは直前で停止しているが行き足が残っているので通過する。吊り上げによって引き戻された最初の揺れ戻りの時には既にフロートは水面を離れている。


 この短い一連の作業では先ずフックの真下の一点を目指すパイロットの技。これは横風があれば陸上とは異なり、最早飛行機と操船の混合ワザと言えるかもしれない。それに艦上からピタリの高さに降ろして待つフックの高さ。移動する不安定な翼上に立って一発で 索を掛ける乗員。索を掛けた瞬間巻上げ
ON.
 この三者一体の揚収作業は実に見事なものであるが、水面から離れたフロートから海水を滴らせ、前後に軽く揺れながらゆっくり引き揚げられるあの光景はもう見る事は できなくなった懐かしい光景である。
 日本の第一線複葉機の最後を飾るものとして戦艦・巡洋艦などには必ず見られ、後席の半ドーム状の風防が外観上の特徴であり、水上機では特に馴染み深い機体である。

 ここまでに述べた95式水偵以外は主翼折りたみが可能で、94式水偵・零式観測機の複葉機は後方へ、単葉の零式三座水偵は上方へ(横V型)折りたたむことが出来るが、その状態は滅多にないのか一度も見たことが無く、写真でもごく僅かしか見た事がない。

 

 

5 零式小型水偵

 1等潜水艦の巡潜乙型(2,100tクラス)搭載機である。潜水艦が動力用蓄電池搭載・交換のため専用岸壁に接岸中に搭載機を出すことがあり、私の部署が近かったため時々至近距離で見る機会があった。低翼単葉、双フロート型。機体・主翼の殆どが羽布張り。
 艦内収納時は資料によると主翼4分割・プロペラ・胴体・左右フロート・前後の脚柱・水平尾翼・垂直尾翼の
12の部分に分解するとのことであるが、それは艦橋前部から一体構造で前方に大きく突き出したよく目立つ水密格納筒(耐圧円筒形で横置き下半分は甲板下に埋設)に収容された。
 発艦は組み立て後、格納筒直前から艦首に向かって甲板上に設置された緩い登り傾斜付きの固定カタパルトで発進し、帰投収容は一旦着水後母艦の起倒式クレーンで揚収する。波浪、うねりの大洋へあの華奢な機体で現代の
US-1A並みの離れ業とも言うべき着水は、手に汗を握り息詰るようなシーンが想像される。

 潜水艦による飛行機運用にこれほど積極的だったのは日本海軍だけであるが、それにしても340HPで視認基準点皆無の大洋での単独索敵行動、そして現代のようなナビゲーターなど無い上に潜水艦作戦そのものが隠密のため通信封鎖とあれば母艦との合流の困難さは想像を絶する。折角母艦上空まで戻りながら日没のため母艦からの懐中電灯による懸命の合図が届かず、やがて悲劇の待つ方向へ飛び去ったという潜水艦乗組員からの悲しい話も聞いたが、仮に母艦を見つけたとしても、あの貧弱に見えるフロート支柱で暗い大洋への着水。こうして想像するだけで何ともやり場の無い暗然たる気持ちになる。


 一見華やかそうに見える裏にはこのような過酷さや悲劇があったのである。
 塗装色は通常の暗緑色よりも青味を帯びた更に暗い色であったが、あれは行動圏が総て濃紺の大洋だったせいだろうか? エンジンは「白菊」などと同系の日立「天風」でカウリング周囲に並んだバルブロッカーカバーのいぼいぼと胴体下面の垂直安定板が特徴。設計:空技廠 製作:九州飛行機。ひ弱な機体に似合わずアメリカ本土に爆弾を投じた唯一の日本機である。写真はカタパルトを離れた瞬間。フラップに注目!

 

 

6 特種爆撃機「晴嵐」

 
戦後存在が明らかになって「海底空母」と言われた超大型潜水艦3隻の中の「400」(常備排水量5,223t)が戦争も末期の昭和19年末呉工廠でトップを切って完成し、前記岸壁に接岸係留された。
 総トン数、
1等駆逐艦最大級「秋月」の2倍に及ぶ船体の大きさもさることながら、甲板上の構造物の巨大さに目を見張らされたが、これが「晴嵐」3機を収納する格納筒である。

 

 

 

 

 

 

  仕事の関係で近くを通る機会があるので時々近寄って見たが、ある日ふと沖の方を見ると低翼単葉水上機が鮮やかなオレンジ色の機体を輝かせながらこちらに向かってタキシングして来る。馴染みの零式3座水偵とは違うようだがやがて目前に接岸中の400の左舷側で停止した。
 これでその日は珍しく艦上の巨大な起倒式クレーン(
3.5t)が立ち上がっていた訳が分かった。見る間にその飛行機を吊り上げて前甲板のカタパルトの発射台座に載せたのである。

  さあ見てくれと言わんばかりで、先ず初めて見る光沢を放つオレンジ色(試作機を示す色)に目を見張り、さらに全く意外にもエンジンがこれも初めて見る液冷型で、側面から見るその全体像の流麗さに心を奪われたのである。

 後年エンジンが艦爆「彗星」と同じアツタと知ったが、現役軍用機のエンジンと言えば星型空冷式しか知らなかったし、側面から見る液冷エンジンの先細りの流麗な機体と細長いフロート、それに当時のオレンジ色が実によくマッチしているのである。そして特異な型のフロート支柱も印象的で、仕事は放ったらかしでしばらく釘付けになった。この時は艦も搭載機も完成直後のことで、何か搭載関係のテストに飛来したもののようで、次の機会には残念ながらそこにはもうその姿は無かった。

 短時間1回きりで詳細に観察できなかったが、ごく少数生産機を間近(約30m)に見られたのは本当にラッキーであり、水上機の中では格別に印象に残る機体である。ウルシー攻撃作戦航海中に終戦となり母艦ごと米軍に拿捕され,何れもアメリカに持ち去られ徹底的に調査された。
 大型潜水艦に複数の爆撃機を搭載し敵要地に接近して爆撃機を放つというこの構想は、アメリカにポラリス潜水艦のヒントを与えたという説もある。

 アメリカの徹底した調査結果の一部はMonogram Aviationの[AHoseUP3]で詳細に紹介され、格納筒への収納状態などが精密図面でよく示されている。


後 記

 これまでに身近にあった飛行機といえば以上のとおり水上機ばかりが格別に縁が深く、今でも何かと関心がある。
 かつては海上自衛隊・小松島基地へ「
US-1」が来ると聞けば駆けつけ、TVローカルニュースで小豆島のホームビルト機の離着水シーンを見ると俄然“寝た子”が目を覚まし、早速取材局に確かめて車ごと島に渡り見に行くなど、高齢になった今日でもこの気持ちだけは一向に衰えていない。

 従って当然飛行艇にも多大の関心はある。しかしこれは過去の軍用機に加え世界軍用現役機としては恐らく唯一のUS-1Aがあり、さらに「改」試作機が完成した。これらに就いては高度な現代的専門知識が必要なのでここで素人が触れることは差し控えた。ぜひ専門家にお願いできたらと願っている。

 

 

 

2 呉海軍工廠 艦載機による空襲の観察記録 2

 

来襲機の模型は筆者製作

 

1945(昭和20)年3月19日  《呉へ米軍機大挙襲来!》

                              

 当時 私は呉海軍工廠に勤めていた。日本中の重要工業地帯が連日のように戦略爆撃を受ける中で帝国海軍の根拠地・軍施設の要衝である呉軍港 一帯が無傷のまま置かれていることに不気味さを感じていたが、やがて1945(昭和20)年3月19日“真珠湾攻撃報復”のツケが選りに選って私の周辺に回ってきたのである。

 前夜が当直勤務で、その時は自席で朝食の最中であった。
 07:10の朝礼放送直前に「警戒警報」抜きで突然「空襲警報」のサイレンが鳴り、それがまだ鳴り止まないうちから港内の艦艇の発砲音が俄かに激しくなり、軍港上空を弾幕で覆い始めた。
 それまでにも警報そのものは珍しくなかったが、今日はどうやら本物らしいぞと朝食を中止して立ち上がり、西の空を見るとゴマ粒のような点々が一面に見える。多くの人々は先を争って防空壕へ避難したが、私は初めて体験する空襲の模様を見たいという生来の野次馬根性と、飛行機ファンである私のアメリカ機に対する好奇心が恐怖心を抑えこみ、一向にわが身をかばおうとはしなかった。

 西方からの侵攻第1波F6F・F4U・SB2Cの戦闘機・爆撃機連合の6〜70機の大編隊は、凄まじい弾幕をかいくぐってあっと言う間に停泊艦・工廠施設目掛けて殺到してきた。かつてニュース映画で見た「真珠湾奇襲攻撃」とは全く逆の光景が目前に展開されたのである。当日目撃及び情報による主要停泊艦は戦艦「伊勢」「日向」、空母「龍鳳」「葛城?」 、巡洋艦「大淀」他1である。(※戦史によると他にもあった。)

 侵攻機は、B29のような大型機ではなく空母艦載機であるから編隊から順次離脱して急降下攻撃である。それを目掛けて応戦の25mm機銃(海軍に機関砲の呼称はない)の目視できる曳光弾が文字通りの十字砲火で追いすがる。
 間断なく海陸から撃ち上げる高角砲弾(※海軍では高射砲と言わない)の上空炸裂により飛散する弾片は、鋭利な刃物のようになって地上に雨のように降り注ぎ、「ピーン!」「ピーン!」と金属音を発して 、弾丸のような猛スピードで唸りながら跳ね飛んでいく。この破片落下中は高速のため見えず地面からの跳ね飛びだけが見え、思わず身の縮む恐怖の光景である。
 もはや屋外に人影は全く無い。

 空を覆う爆煙の中を敵機のもぎ取られた主翼が板切れのようにくるくる回りながら落ちてくる。しかし敵機は果敢な攻撃を繰り返し、急降下中は恐らく息も詰るであろう程の集中砲火を冒して超低空まで突っ込んでくる。
 そしてシーブルーの黒っぽい機体のキャノピーの中でパイロットはカーキ色の衣服に同色の頭巾のような飛行帽にゴーグルも付けない素顔を、中にはサングラスの顔を地上に向けて飛び去って行く。それを近くの屋上の25mm機銃が猛射を浴びせるが、射手が本番に不慣れでうろたえているのか曳光弾道を見ていると後方に外れっぱなしで何とももどかしく「もっと前!前を狙え!」と叫びたくなる。

 500mほどの所にある丁錨地の陸地側から50mの所に艦尾を、艦首を沖に向けて係留中の戦艦「伊勢」の司令塔部分が一際高く見えていたが、そこへ目をやった瞬間左舷側に至近弾を受け、あの高い司令塔の2倍を越す高さの巨大な水柱がどーっと立ち上がった。そしてスローモーション映画のようにゆっくり落ちてくる。空対陸海の攻防戦は一層熾烈を極め、絶え間ない猛烈な発砲音、上空での炸裂音に怯えて右往左往飛びまわる鳩の一群までがとばっちりを受け、その中の1羽が羽ばたきを完全停止のまま一直線に落下した。

 こんな光景を鉄骨波型スレート張り建物のコンクリート基部を盾に、興奮に息を弾ませながら見ていると、突然「ズシーン!」と全身にこたえる衝撃が襲い一瞬よろめいた。
 何事かを考える間もなく斜め上空で想像を絶する万雷のような巨大な炸裂が起き、再び体が揺さぶられた。目もくらむ閃光、巨大な火の塊と白煙。それを中心に細い縮れた線状の白煙を引きながら放射状に拡散する無数の弾子。炸裂の規模、形状からそれがこの対空戦の頂点をなした戦艦「伊勢」「日向」の36cm主砲による3式対空弾の斉射(せいしゃ:複数の砲塔が同時に発射する)であることは直ぐに判断できた。
 これは心理的効果を狙ったものか、低空を乱舞する単発機には直接効果的とは思えないが、建物を震わせ板塀を揺り動かすほどの衝撃を伴う2隻の戦艦主砲による対空弾発射の凄絶さは今も色あせずに網膜に焼き付いている。
 この国内での3式弾の発射は異例と思われるが、それが戦史に全く見られないのが長年の不思議である。当日の空襲については文献に散見されるが、いずれも肝心の筆者が避難して詳細に目撃していないことが考えられる 。

 結局約1時間に3波の攻撃を受けたが、目立った損害は空母「龍鳳」艦尾に直撃弾で炎上、(※空母にしては珍しく港内奥に停泊中だったが、艦尾飛行甲板が上に大きくひん曲がり、油槽火災のような物凄い黒煙を上げながら自力微速で港外へ脱出)巡洋艦「大淀」(※当時の連合艦隊旗艦。通信機能を買われたといわれる)浸水大傾斜、工廠関係は砲熕部砲身工場と造機部?工場に命中弾があったが全体的に見れば工廠施設の被害は軽微であった。

 アメリカ軍の200機に及ぶ攻撃も日本海軍の猛反撃にたじろいだのか、静止目標という同じ条件での日本軍真珠湾攻撃に比してこの呉軍港攻撃は決して誉めた戦果とは言えず、おかげで「真珠湾お返し」の1枚目のツケは案外安上がりで済んだ。しかし我が方も戦艦の巨砲まで派手に撃ち上げ、文字通り「泰山鳴動」した割に撃墜数は1桁に過ぎず、3波の攻撃の始終を“観戦”した私のジャッジはアメリカ軍の「判定勝ち」であった。

 「3月19日」というと反射的にこんなことを思い出すが、あの熾烈を極めた攻防戦をヘルメットも無しで単身“観戦”した無謀さを思い、若気の至りと苦笑を禁じえないのである。

(追記)
 なお、敵機も去り警報解除されて退避していた皆が自室に戻り、ワイワイがやがやと喧騒の中で自分は朝食の最中であったことを思い出し、再び食べようと戻ると、36cm主砲の発射、上空での凄絶な炸裂に伴う建物の振動で上方から埃が降り注ぎ、朝食の残りは総てがパーになるという甚大な個人的被害を受けた。結局この朝食の続きは11;20からの昼食時間までオアズケになった。

 戦史によるとこの日の攻撃目標は艦船・航空機関係で、隣接の第11航空廠も攻撃目標になっている。

 

3 呉海軍工廠の職員バッジについて 3

 1945 年終戦まで呉海軍工廠の職員が付けていたバッジのスケッチです。小さなバッジ、それも他工場のものまでを知りうる立場で働き、60数年後の今もこのように記憶をよみがえらせることのできる人は、この方以外には存在しないと思われます。

 通勤用・現場用と2種類ありましたが、デザインは全く同じでサイズが異なるだけです。現場用の大きい方は円形の物で直径約45mm で、その他の物も見合ったサイズです。通勤用は同型で直径12〜3mm と言うところです。

 材料は約3mm のアルミ製で表面は平面・磨き仕上げです。極く一部の年配の人の中には同型でもアルミではなくクローム・メッキで表面が微かに球面状の物が見られたので、本来はこのようにもっと“高級”だったかも知れません。

 輪郭に沿った塗りつぶし部分は溝になっていて、これが職階を表します。この溝が無色=2等工員 黒=1等工員 赤=職手(しょくて)を表し、この色分けは各部共通です。更に上役の工手(こうて)は現場バッジでもぐっと小さく1円玉位の円形。周囲に沿った幅広の暗い赤で囲まれた白地の中心部円形に黒色の錨マークが付いていました。これは各部共通だったと思います

 図が総てですが、それぞれがその部を象徴するデザインとなっていますが、念のため説明します。

造船部=この造船部の楕円形は何を意味しているかはついに確認できずに終わりました。一説には船体とかドックという説もありましたが、私はこの形からはその両者のいずれをもイメージできませんでした。

造機部=これは言うまでも無く推進器のデザイン化

製鋼部=精錬溶融した鋼材の第1次鋳造素材とでも言うか、鋼鉄インゴットの断面

図です。この8角は2t タイプなど小型の物ですが、大きいものは次第に画数が多くなり、70t タイプでは小判型断面でした。

砲熕部=一見して分かりますね。砲口の条溝を表します(コの数は不正確)

水雷部=漢字の「水」の字です。

電気部=説明不要です。

火工部=実はこれには悩みました。工廠から隔離状態で行く機会が少なかったため思い出せませんでした。「火」の文字から水雷部のような形をいろいろ想像して思い出そうとしましたが、それとは全く違った形がふと浮かびました。しかしそれが火工部と言う決め手はありません。そのイメージは非常に鮮明ながら他に当てはまる部が無いし、見方によっては縦に置いた砲弾を連想させるような気がするので、確かな根拠不在のまま掲載しました。「填」の字は「装填工場」(メイン業務名にあるはずですが不確実)です。

総務部=工廠全体統轄を意味するであろう真円形です。「運輸工場」以外の部署名を知らないので馴染みのあった「運」にしました。

会計部=この横長六角形は何と思いますか?ソロバン玉です。「材」(材料課)の他に「計」(計算課)「給」(給与課)「購」(購買課)があります。

医務部=もちろん「十」で中の「療」は診療所があるのでそのつもりです。

(※記載番号は総て架空です。)

各実験部=砲熕・製鋼・電気・魚雷・造船各実験部は固有のデザイン・バッジは無く関連部のバッジ文字を「実」で表していた。「潜水艦部」は恐らく造船部バッジに「潜」の文字ではないかと、これは根拠無しの想像です。元技術少佐(造船)の著書によると特殊な潜水艦に関わったときの話にも「潜水艦部」なる語句は皆無でしたので建造に全く無関係の部門のようです。

各部固有のカラー

造船部=黄 造機部=緑 砲熕部=赤 製鋼部=紫 水雷=青 電気部=桃

これらの色は1等工員=細線1本 職手=細線2本 工手=太線1本で表現される現場帽子の線にも着色され、所属部が一見して分かりました。

非生産部門の総務部・会計部にはこのカラーは無く、帽子の線は両部とも「白」でした。

医務部は不明。

このカラーは材料・資材供給部門では各部・各工場からの請求伝票の上端が総てこの色が着色されているので、整理・分別・出荷準備・配送現場では非常に有効で、他の部への間違いなど起こり得なかったはずです。

 

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