撮影2009 RBO
追 憶
この砲台は、昭和18年6月から10月の間に海軍小禄飛行場が、対潜水艦用基地として整備拡充されるに伴い、海軍施設山根部隊によって施工、整備された15糎(センチ)水上砲台6基中の1基である。
昭和20年4月上旬、米軍沖縄上陸に際し、これらの砲台は、那覇西海上の海域に出現した米海軍軽巡洋艦1隻を撃沈したといわれている。米軍の猛烈な砲爆撃により、この1基を除き、他はほとんど原型をとどめぬまでに破壊された。
大田實海軍少将指揮下の沖縄方面根拠地隊将兵は、首里方面の戦闘に陸軍部隊とともに勇戦奮闘しつつ、この小禄飛行場周辺陣地を確保したが、昭和20年6月4日、小禄飛行場北部に米軍が上陸するに至り、当間(当砲台付近)、安次嶺(ここから北方800m付近)、気象台前(現陸上自衛隊第1混成団本部付近)の戦線を死守したが、戦況我に利あらず、6月6日小禄飛行場周辺陣地から豊見城74高地(旧海軍司令部壕所在地)へ移動し、遂にこの地区の戦闘も終焉した。
This battery will accompany doing the maintenance expansion
as an antisubmarine base in October, 1943 from June, and be 1 of
maintained 15 centimeter 6 in water battery inside.
The U.S. military Okinawa is said in the beginning of April,
1945 that these batteries sank one U.S. Navy light cruiser that
appears in the sea area on the Naha west sea upon landing.
Severe ordnance of the U.S. military shot and was destroyed
another by the time the prototype was hardly stopped exAHuding
this 1.