神奈川県藤沢市本藤沢にあった藤沢飛行場の航空写真です。 現在の荏原製作所の藤沢事業所に行く機会があり事業所紹介で見る機会があり、お願いして頂きました。
U-2の緊急着陸記事(リンク)やグライダーなどの定置場などで時々名前が出てきますが当時の飛行場を俯瞰した航空写真は初掲載です。
撮影 1966年頃 荏原製作所 南から北方向に撮影
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藤沢飛行場は1964年10月31日に供用停止となり 翌年から荏原製作所の工場が建設されています。 飛行場であった時代の航空写真を見ながら変遷を辿っていきたいと思います。
1966年7月28日 国土地理院航空写真より
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1956年3月10日 国土地理院航空写真より
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1946年8月15日 国土地理院航空写真より
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1944年10月14日 国土地理院航空写真より
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1943年に藤沢カントリー俱楽部を閉鎖し横須賀海軍航空隊の基地となり翌1944年6月1日に藤沢海軍航空隊が置かれているので上記写真は使用開始後間もないものと思われます。
1946年の写真では飛行場としての形状が出来上がっていますね。 1946年の写真は米軍の占領下ですが1年足らずで使用を辞めているということで飛行場の状態を確認すると面白いものが写っていました。 飛行機の左翼が破損したまま放置されている機体があります。 米軍機でしょうか? -> B-25でした。
1946年8月15日 国土地理院航空写真 滑走路北端拡大
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新 ヒコキチさんから藤沢飛行場についての詳しいお話を頂きました。
1,戦前と戦争直後
1946/08/15 国土地理院航空写真
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東側は幅25メートル、長さ1050メートルで、旧日本海軍時代、米軍時代は誘導路兼、予備滑走路として使用していました。
1946/08/15 国土地理院航空写真拡大
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オーバーランしたのは米軍のB-25ですね。(西側滑走路の北端から崖の下の畑に突っ込んでいます。) 米軍が駐留後、一年余り使用していましたが、滑走路が西側は幅60メートル、長さは945メートルと短く双発機には無理があったようです。 米軍は一年余りで撤退しています。 飛行場としては機能出来なかったようです。
撮影 1964年 戦後残っていた掩体壕 ヒコキチ
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2,航空再開後
1956年3月10日 国土地理院航空写真より
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1956/03/10 国土地理院航空写真拡大
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米軍使用後 放置状態の飛行場跡地に目をつけて、航空再開直後、かつての勇士が集まり東洋航空を立ち上げました。そして、奥行き100メートル、横幅25メートルの格納庫をつくりました。
ライセンス生産のFD-25及び自社生産のTT-10の組み立て生産のために。(リンク) 土地は旧地主から
そっくりそのまま借りていました。
1960年台初期 滑走路 東側滑走路の南端です ヒコキチ
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元日本海軍が使用していた滑走路は、特に西側の幅の広い方は、砂利道状態のガタガタでした。 東側は穴は空いているものの、西側に比べれば程度少しはよかったです。
東洋航空は、この内、法で定めた着陸帯を差し引いた
824メートルx 25メートルの部分を滑走路の供用部として、運輸大臣に申請し、認可を得ています。
そして、テナントとして日本飛行連盟や民間航空会社、団体に貸していました。
西側は砂利道状態なので飛行機には使用せず、もっぱら航空少年団や大学の航空部等のグライダー訓練に貸していました。
この"砂利道滑走路"、よく農家の人が リヤカーに肥やしを積み、押していました。その臭いが たまんなかったです。
2−1, 日本飛行連盟
セスナ170B JA3014 日本飛行連盟
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現在も残る格納庫(奥側)、現在もある関東航空計器(左側)。
撮影 1964年 スチンソン L-5 JA3168 ヒコキチ
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撮影 1964年 スチンソン L-5 JA3168とヒコキチさん ヒコキチ
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撮影 1964年 江の島上空 2000ft上空より ヒコキチ
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更 江の島上空です。1964年と言えば、ちょうど東京オリンピックの年です。江の島ではヨットレースがおこなわれました。
L-5に搭乗したときに撮りました。エルゴの乗り心地最高でした。(ヒコキチ)
2−2,赤十字飛行隊
新聞記事転載 掲載社名不明 提供 ヒコキチ
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写真は藤沢飛行場での1964年7月の赤十字飛行隊発足後、初手柄を掲載した新聞記事です。
パイパーペーサーJA3078。
元日本海軍 凄腕パイロットの川上氏です。
2−3,飛行少年団
1964年3月号 学習コーチ 表紙 提供 ヒコキチ
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この藤沢飛行場で、航空少年団の青少年たちが"西側砂利道滑走路"を駆け巡り、H-22セコンダリーひばり号(JA0081)を飛ばしていました。
車両曳航で、ビュイックとか大型のアメ車で引っ張っていました。
高度800フィートぐらいに達するとレリーズレバーを引っ張り、離脱、場周経路の飛行に入りました。一周約3分。
撮影 1964年 JA0081 HIBARI ヒコキチ
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撮影 1964年 ヒコキチさんとJA0081 ヒコキチ
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撮影 1964年 航空少年団とJA0081 ヒコキチ
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写真の場所は、西側滑走路の北端付近。
米軍駐留時代、B-25がオーバーランして崖下に突っ込んだ、ちょうどその位置付近です。
ちょうど向こう側、東側滑走路の北端にスチンソンL-5Eが止まっています。
飛行場から場外離着陸場へ 荏原製作所工場進出
1966/07/28 国土地理院航空写真
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1964年10月31日に書類上の閉鎖です。実際は8月には撤退作業が進んでいました。
10月から本格的に建設は始まりました。 まずは南西側に社員寮のアパートが何棟も建設されました。 同時に北西側に工場が順次建設されました。
一部は1965年の4月から稼働を開始しています。
西側滑走路が撤去されて工場がつくられ、次に東側滑走路も順次、壊されて、工場等やスポーツセンターや駐車場等がつくられました。しがし、東側のほうは工事のスピードが遅く、特に東側滑走路の南側部分は閉鎖後、20年ぐらいは滑走路の形態を残していました。
日本飛行連盟が赤十字飛行隊の運用を委託されていましたので、「飛行場」として閉鎖後も「場外離着陸場申請」を出し続けて、東側滑走路の南側半分を使用し、パイパーPA-20ペーサー等で夏期間に限り、湘南海岸パトロールを実施していました。
新 旧 藤沢飛行場のその後
戦後の滑走路と1966年頃の建物位置重ね合わせて画像処理しました。(イガテック)
1972/08/12 国土地理院航空写真 西側滑走路がまだ残っています。
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1988/11/03 国土地理院航空写真 西側滑走路の中心部分のみが残っています。
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1997/05/26 国土地理院航空写真
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2007/10/27 国土地理院航空写真 南側が大きく変化しています。
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ヒコキチさんからの上記写真説明
南西側は敷地を切り売りしてしまい、分譲住宅街となっています。
「修道院入口」交差点の左側に三分の二程のスレート張りの元格納庫(現在
荏原電産)が見えています。その北裏を北西に通っているのが、かつて滑走路を横切っていた農道です。
格納庫の左側は草地のエプロンでした。
格納庫から約90メートルあけて西側に滑走路(東側滑走路)が南北に通っていました。
「老人福祉センター」の交差点を左(西に)に行く道がありますが、この界隈(両サイド)の敷地を切り売りしてしまい、現在はマンションや分譲住宅、運送会社などの敷地と化してしまいました。
南側に目を向けると、草地となっている場所がありますが、かつての西側滑走路の南端です。
その右側約40メートルあけて、南北に東側滑走路がありました。
右側に白っぽくなっている場所が元東側滑走路の南端付近です。(U-2の静止した場所)
右側のグレーぽい四角ぼいコンクリートの蓋は企業庁大庭配水地の蓋です。
南側にある企業庁の配水地は、まだ滑走路があるとき、いち早くつくられましたので、このコンクリートの外壁のすぐとなりに東側滑走路があったので、これを基準に測っていけば、滑走路の元位置は明確です。
地図の南端側には国道1号(藤沢バイパス)が東西に走っています。引地川と交差しています。
標高47メートルの台地の上にありましたので、南側に酒造会社のエントツがありますが、支障ありませんでした。
この飛行場で、むかしL-5とかエアロンカ、パイパーペーサー、セスナ170Bとか飛行機曳航のソアラーが飛んでいました。
格納庫にはFD-25とかTT-10やベル47ヘリとか、いっぱい入っていました。
荏原製作所の正門入って少し行きますと、南北に空き地が通っていますが、これが滑走路が かつてあった場所です。
これで、荏原制作所も1965年の創業開始から大部、敷地を売り払っていることが わかりますね。
当時、藤沢駅から神奈中のバスが「飛行場行き」が出ていました。
ワンマンではなく、まだ車掌さんがのっていました。
道は舗装されてなくガタガタでした。修道院の坂をのぼり切ると藤沢飛行場でした。そしてエントツが見えて来ました。
撮影2021/04/21 ヒコキチ 現在の関東航空前バス停
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当時、格納庫をみてデッカイ格納庫だなぁと印象があります。
セスナ170Bとかベル47ヘリとか、いろいろ入っていました。
飛行機好きでしたので、たまんなかったです(笑)。
格納庫が見えています。手前が草地のエプロンです。燃料のドラム缶が無造作にころがっています。
撮影1964年頃 ヒコキチ
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この格納庫 現在、北側三分の二程が残っています。貴重ですね!!
皆、格納庫が残存していることを知らないです。
雑木林と草地や畑に囲まれた、 のどかな飛行場でした。
撮影1964年頃 ヒコキチ
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格納庫の、南側には旧日本海軍の えん体壕(カマボコ型)がいくつもありました。
大戦中は建物としての格納庫はなく、みな航空機をえん体壕の中に隠していました。上側に草を生やかしてカモフラージュして。
写真でもわかりますが、格納庫の右側にカマボコ型のえん体壕が見えています。
エプロンは草地でした。ドラム缶に燃料が保存してあり、手回しでポンプで、吸い上げて燃料を機体に入れていました。
東洋航空も地主から土地を賃貸していたので、余計な出費を控えていました。
東洋航空、立ち上げてから1〜2年で赤字に転落していました。
ライセンス生産と販売がうまく行かず、行き詰まったようです。
(藤沢飛行場は) たった11年で閉鎖となりました。
ここでNHKドラマ「雲のじゅうたん」の撮影もおこなわれました。
(1976年4月5日から10月2日まで放送)
フランク永井主演の映画「君恋し」も。 (1961年 日活 紹介リンク)
また「出撃」という映画も。 (1963年 日活 紹介リンク)
藤沢市も協力して、買い上げてくれる企業を探していました。1958年ぐらいから既に。
そしたら、東京にあった荏原製作所が手を上げて、条件がマッチングしたようです。
17万坪ぐらいを買い上げました。協力会社も含めて。
日本飛行連盟1964年当時のパンフレット
画面をクリックすると文字が読めるサイズになります。
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日本飛行連盟1964年当時のパンフレットです。
駅から藤沢飛行場までの行き方が書いてあります。
当時、藤沢駅から飛行場まで タクシーで160円でした。
藤沢飛行場を飛び立った4機の編隊。エアロンカとパイパーペーサーです。
左側に飛行場の丘が見え、真下に引地川と旧国道1号(現・県道43号線)が交差しています。
飛行ポジションは。引地川に沿って、江の島海岸方面へ編隊は向かっていますね。
まだ、下側の景色も のどかですね。
撮影2019/04/11 ヒコキチ 清掃事業所の煙突
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藤沢飛行場時代、ランドマークだった清掃事業所のエントツ。
当時、風向きを知るのに大変役に立ったとのこと。 藤沢飛行場時代を知る人は必ずこのエントツの話しが出てきます。
また、グライダーが上昇気流の発見にも役だったとのこと。
当時、高度成長期時代でもあり、毎日、もくもくと煙が出ていました。祭日も土曜日も昔は関係なかったです。
U-2のパイロットも このエントツの煙を見て着陸方向を判断したのでしょうね。
"燃料切れ"で滑空状態ですから、とっさに上空から見て 太い方の西側滑走路に決めたのかも。 「燃料切れ」と
公式発表しているけど、ホントかな!?(笑)
エンジンを新しく換装して初めての飛行だったということだったので、不具合が生じた可能性も・・。 CIA所属機出し、本当のことなど言いませんよね。??!
END