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航空歴史館

藤沢市  東洋航空工業株式会社の歴史

生産した機体、整備した機体

 

東洋航空TT-10  JA3026 JA3049 
東洋航空 Fletcher FD-25B JA3041 JA3050 JA3051 JA3092 
岡村N52 JA3024
De Havilland  DHC-1 Tipmunk JA3090 G-ANAG
De Havilland  DHC-2 Beaver JA3046 3047
Cessna 170B JA3039 JA3045 JA3048
Cessna 175 JA3124
Cessna 180 JA3109
ElCoupe N93588
10 霧ヶ峰7JA2001 三田式1型JA2017 萩原H-22B(JA0001かJA0081か?)

 

A3723 神奈川県藤沢市本藤沢  東洋航空工業株式会社
    Toyo Aircraft Industry, Fujisawa City, Kanagawa Prefecture
 
東洋航空工業株式会社

・ 東洋航空工業株式会社の履歴  (各航空雑誌、各年鑑及び室伏近義著「空」により作成)

1943 海軍藤沢飛行場開設(元藤沢カントリー倶楽部)
1945 海軍藤沢飛行場を米軍が接収
1952 藤沢飛行場接収解除
1952/06/08 日本グライダ-クラブがJA2001日本電建号により訓練を開始
以後、滑空訓練場として使用
1952/06 東洋航空工業株式会社創業 藤沢飛行場に工場建設
1952/06 Fletcher FD-25の生産ライセンスを取得
1952/12/30 TT-10 初号機 JA3026初飛行
1953/02/25 FD-25B 初号機 JA3041登録
1953/03/28 東洋航空藤沢飛行場を供用開始 1200m コンクリート舗装
1953/04 横浜市戸塚のビクター工場を買収し部品工場とする                      
1953/10/15 FD-25B  JA3050 藤沢飛行場南の崖に墜落 操縦士と野位ヤエ女流飛行士負傷
1954/ FD-25B  JA3051をタイに輸出 
1954/ 資金不足により工場閉鎖
1954/05 国際航空整備(株)がFD-25B未完成機体6機を輸出向け整備のため工場再開
1954/09/16 FD-25A 初号機JA3092初飛行
1954 FD-25A 5機をカンボジアに輸出
1955/01 洞爺丸台風被害の北海道倒木薬剤散布機に挑戦するも不発
1956 源田航空幕僚長がFD-25A調査のため来社 雨で飛行中止のため沙汰やみ
1964/10/30 東洋航空藤沢飛行場廃止
1969/04/10 解散

1953年頃の雑誌広告

・ TT-10、FD-25を作った会社

 九七式飛行艇に携わった橋口義雄氏など川西の技術陣が主体で創立した東洋航空は、日本の再開航空において忘れられない存在です。東洋TT-10とライセンス生産のFD-25B(単座) 、 FD-25A(複座)はあまり成功とは言えなかったのですが、FD-25のために新設した大きな組立工場の中には、日大の岡村N52や横浜訓盲学院のCessna 、米軍人のElCoupeなどがおりますし、ヒラ―のヘリコプターやパイパー軽飛行機も手掛けていたようです。

 航空情報1953年3月号のTT-10の模型が風洞試験をしている写真の解説には、日大工学部航空研究会が協力しているとありますので、戦後ようやく立ち上がった航空機製造として同社にも木村秀政教授が積極的に関わっていたことを伺わせます。それでN52が藤沢にある理由がわかりました。

 そして、更に忘れられないのは霧ヶ峰とともにグライダー復活の拠点になっていたことです。地形上気流の状態がよい上に海軍が残した1200m滑走路で自動車曳行ができるというので、戦後初めての滑空指導員研修会が行われたのをはじめとして、ここで訓練を受けた人は多いです。

 残念ながら、ライセンス生産の赤字が原因で会社も飛行場も消滅し、跡地は荏原製作所になり、今は海軍時代の燃料庫が戦中の姿を留めるだけです。歴史派マニアとしては、戦争遺跡も大切ですが、およそ10年間に及ぶ生産業務と飛行場が日本の航空史に果たした役割についても、しっかりと記憶されるべきであると考えます

 

 

 

 

東洋航空TT-10の生産風景

運輸技術研究所(調布 元中央航空研究所)で風洞実験 航空情報1953年7月号


運輸技術研究所における強度試験(曲技飛行可能な航空法によるU類) 航空情報1953年7月号


撮影1952/12/25 胴体艤装 航空情報1953年7月号


胴体羽布貼り 航空情報1953年7月号

 

東洋航空TT-10 JA3026   26

JA3026の経歴

  c/n531
1952/11/29 JA登録 東洋航空工業 日本青年航空連盟 愛称ふじ 定置場藤沢飛行場
1962/07/11 抹消登録
  小金井工業高校が購入
1979/07/25 都立航空高専→産業技術高専
2009/05/18 日本航空協会重要航空遺産認定

提供 JAHS


撮影2011/03/07 Twinbeech

 

東洋航空TT-10 JA3049

JA3049の経歴

1952/12/30 c/n532 初飛行
1953/03/26 JA登録 東洋航空工業 使用者JYAA日本青年飛行連盟 きりしま号 定置場藤沢飛行場 
1953/04/09 日本青年飛行連盟使用事業免許取得 基地藤沢飛行場
1955/06/12 藤沢飛行場で墜落炎上
1956/10/16 抹消登録

撮影1954/07/20  福井正夫

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東洋航空 Fletchar FD-25B   FD

JA3041

1953/02/25 c/n1 JA3041登録 東洋航空工業 定置場藤沢飛行場 
1956/02/22 抹消登録

世界の航空機1953年7月号から転載

撮影 東洋航空機工業 JAHS

 

東洋航空 Fletchar FD-25B   JA3092

JA3092の経歴

1954/09/09 c/n2 JA登録 東洋航空工業 定置場藤沢飛行場 
1961/08/14 抹消登録
  都立航専へ譲渡 展示中

撮影 1955年頃 大野芳希

 尾翼に日の丸があるのは、カンボジア空軍への売込みに当たっての国産機宣伝のためか?

撮影1959/04/29 戸田保紀

 日の丸は既になく、東京航空高専へ譲渡する前の状態と思われます





 

東洋航空 Fletchar FD-25B   以下FD-25A JA3050又はJA3051か?




 

JA3050の経歴

1953/07/10 c/n531
1953/04/13 JA登録 東洋航空 定置場藤沢飛行場
1953/10/15 藤沢飛行場南の崖に墜落 操縦士と野位ヤエ女流飛行士負傷
1953/11/24 抹消登録

 

JA3051の経歴

1953/10/14 c/n1
1953/04/13 JA登録 関東航空計器 定置場藤沢飛行場
1953/11/25 タイ国へ売却
1962/06/25 抹消登録

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カンボジア空軍のFD-25A 世界の航空機1954年12月号グラビア  カンボジア



 FD-25Bとありますが、複座型のFD-25Aが正しい

 





                               カンボジア国防大臣搭乗


参考 フレッチャー社製FD-25軽攻撃機 世界の航空機1952年9月号

201311/20

〇  東洋航空工業株式会社が生産した機体、整備した機体

 あまり記憶されていませんが、東洋航空工業株式会社は、60年程前に国産機輸出第1号としてフレッチャーFD-25Aをカンボジア空軍に送っております。(扱いは丸紅系の国際航空機鰍ナした) 

 プノンペン飛行場での写真を見ると複座型であり、練習機として採用されたように見えますが,主翼下には小型爆弾をさげる装置も付けていたはずですから、堂々たる武器の輸出でありました。

 ただし、そのときに工員としてタッチした室伏近義さんの自著「空」によりますと、会社は常に倒産の危機にあって相当にドタバタした中での製造であり、あるいは、源田航空幕僚長が調査に見えたりしていますが、自衛隊への採用も不発に終わっています。

 航空機製造事業の自立がいかに難しいか、今も昔も同じことであります。しかし、くだらぬ武器輸出三原則などない時代に軍用機が輸出された歴史はしっかりと記憶しておくべきでしょう。しかも、それが国産機の初めての輸出でしたから。

 なお、カンボジア空軍への輸出型をすべての文献がFD-25Bとしていますが、東洋航空工業が手がけたFD-25は、初めの単座をFD-25B、複座型はFD-25Aとして登録しています。複座型を輸出するに当たって馴染みやすいBに付け替えたとも解されますが、そのあたりの事情を含めて東洋航空工業株式会社の実態にはまだまだ不明な点が多いです。2013/11/20

 

 

岡村N52 JA3024    

JA3024の経歴

  c/n1 横浜市岡村製作所 エンジンはPAA支配人から寄贈のコンチネンタルA-65                  65馬力
1953/04/07 初飛行(於、浜松?) 
1953/08/05 JA登録 日本大学 (毎日新聞社又は朝日新聞社名で登録した模様)
1957/07/17 抹消登録

撮影 1955年頃 大野芳希

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ElCoupe N93588    エル

航空歴史館O3-16参照






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Cessna 170B JA3039   170

JA3039の経歴

1953/02/05 c/n25324 JA登録 青年飛行連盟 定置場藤沢飛行場 
1953/04/09 日本青年飛行連盟使用事業免許取得 基地藤沢飛行場
1954/06/01 和歌山県で大破
195407/23 抹消登録

藤沢飛行場 世界の航空機1953年7月号から転載

 

Cessna 170B JA3045

JA3045の経歴

1953/07/20 c/n25368 JA登録 横浜訓盲学院(後に横浜航空) 定置場藤沢飛行場 
  横浜訓盲学院 事業免許取得1953/03/09
1969/07/11 田崎隆一 定置場長野飛行場 以後個人を変遷
  登録未抹消

撮影 1959年 戸田保紀

 

Cessna 170B JA3048

JA3048の経歴

1953/03/23 c/n25369 JA登録 富士航空 定置場藤沢飛行場 
1960/11/01 阪急航空 定置場東航飛行場
1966/03/05 調布飛行場で強風により転覆
1966/09/07 抹消登録

撮影 1959年 戸田保紀

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De Havilland  DHC-1 Tipmunk JA3090   デチ

JA3090の経歴 

1953/05/28 c/nCI-0944 G-ANAG
1954/08/31 JA3090登録 青木盛夫 定置場 藤沢飛行場
  佐久間信義
1960/08/22 抹消登録 香港へ移籍

 G-ANAG 撮影1954年 藤沢飛行場 福井正夫



撮影 1955年頃 大野芳希

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De Havilland  DHC-2 JA3046 3047   

JA3046の経歴

  c/n449
1953/03/06 JA登録 大和航空 定置場藤沢飛行場
1958/05/21 宮崎県東臼杵郡北川村大崩山で墜落大破
1958/06/05 抹消登録

日本飛行機全集1954年版から 民間水陸両用機研究参照

JA3047の経歴

1953/03/06 c/n452 JA登録 大和航空 定置場藤沢飛行場
1955/08/29 北海道北見富士で墜落
1955/09/17 抹消登録

撮影日不明 藤沢飛行場 福井正夫


3046又は3047のどちらか不明の写真

撮影日不明 藤沢飛行場 福井正夫


撮影日不明 藤沢飛行場 福井正夫

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Cessna 180 JA3109     180

JA3109の経歴

1957/07/20 c/n32914 JA登録 横浜訓盲学院 定置場藤沢飛行場 
1969/02/08 タテバヤシエアロ 定置場館林飛行場
1974/06/12 Cessna 185Aに形式変更 以後 田崎隆一→日本航空学園
2005/11/04 抹消登録 ニュージーランドへ売却

撮影 1959年 戸田保紀

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Cessna 175 JA3124    175

JA3124の経歴

1959/04/02 c/n55802 JA登録 海洋航空(後の水産航空) 定置場調布飛行場 
1966/09/02 喜多一郎 定置場東航飛行場
  登録未抹消

撮影 1959年 戸田保紀


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霧ヶ峰7 JA2001   

JA2001の経歴 

  萩原木材工業製作 霧ヶ峰鷹7 c/n2 
1952/05/11 独立日本航空青少年大会(多摩川)で初公開飛行
1952/10/24 JA登録 日本グライダー倶楽部 日本電建号  定置場読売玉川飛行場
1958 使用停止
2003/05/15 抹消登録 
時期不詳 日本航空協会が秩父宮記念スポーツ博物館へ寄贈
  国立科学博物館つくば収蔵庫に保管中 詳細はA3031参照

撮影 1959年 小野芳希
三田式1型 JA2017

JA2017の経歴 

  三田式1型 c/n1 
1955/11/16 JA登録 三田航空クラブ 定置場東京都港区
1956/12/05 慶應義塾大学 定置場東京都港区
1958/03 胴体の文字がKAWANISI GO とあり、所有が変わっているものと思われる
  未抹消 

撮影 1959年 小野芳希


JA0001かJA0081か? 

撮影 1959年 小野芳希

 残念ながらJAナンバーを判読しかできませんが、0001かもしれません。もしそうだとすると戦後の再開航空における文字通りのナンバー1の航空機ということになります。さて、皆さんの検証をお願いします。

1 古谷眞之助さんの推測  萩原式H-22B-3複座セカンダリー JA0081ではないか

 あくまで推測です。
 JA0001
とすれば登録リストによれば、「02P1型」となります。ただし、わずかの手持ち資料に当たってみましたが、写真も図面もなく、どんな形なのかわかりません。

  戸田さん撮影の写真を見た時に、最初素直に堀川勲さん設計のH-22だと思いました。私は、ご本人が描かれた同機のイラストを見せていただいたことがあり、強く印象に残っているからです。ただし、JA番号が異なります。

参考 世界の翼 1954年版より

 そこで、JA番号は実はJA0001ではなく、もしかしたらJA00610081ではないかと疑ってみました。最初の3桁は068の可能性があると考えられま4桁目は1でしかないように判断します。

 060106610681080108610881も考えられますが、数字の桁から考えて、こういう番号は無いと思われるので、00610081の二つに絞って良いと思います。

 この前提で登録リストを見ると、0061は伊藤式A-2型 静岡木工梶@1953.06.29. 登録、所有者、静岡木工鰍ニなっています。送られてきた写真は明らかにプライマリーではありません。伊藤式A-2型は「日本グライダー史」によれば、明確にプライマリーとなっていますから、この場合0061ではないことになります。

 ではJA0081はどうか。リストでは、萩原式H-22A-3型 定置場藤沢飛行場、日本航空連盟所有、となっています。藤沢飛行場というのが臭いですね。この機体の登録が1953.12.11となっていますから、時期的にも問題ありません。

 さて、ここで「日本グライダー史」の以下の文章に注目しました。

 滑空機製造会社も続々と名乗りをあげ多くのグライダーが作られた。昭和28年までに作られたものは、戦前の設計によるものでは、鷹7型・・・略・・・戦後の新設計によるものは・・・略・・・02P1型プライマリー、セミ・セカンダリー、萩原式H-22型複座セカンダリー(何れも萩原木材工業)・・・

 つまり02式は萩原木材で作られていたと考えられます。ヒコーキ雲の「航空法施行前のJA記号について」の項で「世界の航空機195211月号読者サロン」の投稿記事の中に「旧美津濃が設計した云々」とありはしますが・・・。

   これらから、写真の機体は、萩原式02P1型 セミ・セカンダリー JA0001というのも考えられなくはありませんが、まず萩原式H-22B-3複座セカンダリー JA0081だと私は考えます。いかがでしょうか。最初の直感から抜け切れておらず、思い込みの強い推測なのですが。

 

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  1958年3月に藤沢市の東洋航空格納庫内で撮影された写真の中に、非常に興味を惹くグライダーがありました。

 


拡大して明度アップ
 

2 川崎雅弘さんの 推測  H-22Bで間違いない

 東洋航空格納庫にあるグライダーはH−22Bで間違いないと思います。前席操縦席の胴体の下のほうに、何か部品が付いていますが、これは、H−22Bが日本で初めて採用したという
曳航ロープをV字型に 左右2本接続するためのフックです。添付した長谷川模型のプラモデルのイラストでよくわかると思います。

拡大して明度アップ
  


  川西市の某氏宅にあるH−22Bと比較しても疑う余地はありません。

  ただ、JAナンバーが0001かどうかというのは、わかりませんが、格納庫の写真ではグライダーが3機分映っていて、なおかつ、グライダーの後方には、H−22Bの胴体を2つに分解して木枠に梱包した胴体も移っていますから、この写真だけで4機のH−22Bが 存在することになりますので、この写真を撮影した時期は、初期の生産時期ではなく、大量生産時期の写真だと思われます。

 そう考えると、機体が完成した順番でJAナンバーを登録 していったとすれば、0001は考えにくいと思います。登録ナンバーの解明にはなりませんが、ただの情報ということで。。。

 

   

 

 

 

 JA0081 写真 と藤沢飛行場の歴史

         

 ヒコキチさんからJA0081の写真を頂きました。 上記で書かれていたグライダーの推測の一助になると思います。
 撮影時期が1964年ということで時期は少しずれていますがキャノピーの形状やペイントが異なっています。 藤沢飛行場の歴史も含めて説明を頂きましたのでそのまま掲載します。

投稿: ヒコキチ

 萩原式 H-22Bセコンダリ― グライダー ひばり号です。JA0081。
1964年、藤沢飛行場の二本あった滑走路のうち、西側の滑空場として使用していた北側末端にて。   (クリックで拡大します)


 当時は、 ウインチ曳航などではなく 大型アメリカ製乗用車による車両曳航でした。
 高度約800フィートに達すると曳航索を離脱し、西側場周経路を まわり 着陸態勢に入るという、パターン周回訓練が主でした。一周約3分。 
 日本飛行連盟の所有機は当時、
 セスナ170B 1機
   JA3014

 パイパー ペーサー
 PA-20 2機
   JA3078
   JA3011

 エアロンカ 7AC 3機
   JA3155
   JA3156
   JA3157

 スチンソンL-5E 2機
   JA3168
   JA3169

 三田式3型ソアラー 1機
   JA2057

 萩原式H-22Bセコンダリ― グライダー 1機
   JA0081

 計10機を保有していました。
 
 藤沢飛行場は、1943年に 国が約18万1800坪もの藤沢カントリー倶楽部というゴルフ場を接収し、翌年に藤沢海軍飛行隊を開設しました。そして、1944年に滑走路を南北に二本造りました。
 
  西側滑走路
   945m×60m
  東側滑走路
   1050m×25m

 当時は、戦争末期で物資が不足しており 滑走路の建設も突貫工事でした。東側滑走路のコンクリートも かなり薄め。西側滑走路は 更に酷く ソイル式工法なので ガタガタでこぼこ状態でした。
 旧海軍が使用していた当時は、西側の幅の広いほうを メイン滑走路として使用していました。
 東側の幅の狭いほうを予備滑走路兼、誘導路兼、エプロンとして使用していました。(当時は淹体壕であり建物の格納庫は、ありませんでした。)
 しかし、双発機などは使い切れなかったらしく、何回か滑走路をオーバーランし、崖下の畑地に落ちたとのことです。

 終戦後は、土地等は旧地主に払い下げられました。
 終戦後、しばらくは 滑走路跡地として 放置状態でした。
 その放置状態のままの飛行場跡地に 東洋航空が目をつけて、1952年に航空機生産組み立て工場(格納庫)を建設しました。
 鉄骨スレート張り
 奥行き100m、横幅25m
 自社製のTT-10及びライセンス生産のフレッチャーFD-25の生産組み立てのために。

 そして、1953年に東洋航空は 正式に飛行場を開設するにあたり 運輸大臣に同年の2月に申請しました。

 旧海軍が残した滑走路とは言え、特に西側はガタガタの砂利道状態で、飛行機にはとうてい使用できず、なので東洋航空は東側の1050m×25mの内、法で定めた着陸帯を確保し、824×25mの部分を供用部として運輸大臣に申請し、同年3月に飛行場開設の認可を取り、東洋航空藤沢飛行場として 正式に供用を開始しました。

 東側も あちこち穴があき 草が生えるなど、程度は良くないですが、でも 西側よりはマシです。

 そういう経緯もあり、当時は、滑走路の末端付近などは、近所農家さんが畑に肥料を運ぶ農道として使用していました。
 この状況は、藤沢飛行場を知る者には、語り継がれています。
 プーンと臭う、天然肥料のくささとかが・・(笑)。

 この石名坂環境事業所のエントツ、昔からあり、風向きを知ったり上昇気流を知ったりと、当時は 大変役にたったとのことです。

 写真は、現在の藤沢飛行場の滑走路跡地です。
 元東側滑走路の南側付近です。


 ちょうど 1959年 9月 24日 15時15分に、"黒いジェット機" U-2が燃料切れのため 藤沢飛行に不時着した場所です。   ヒコキチ

編集から補足写真

藤沢飛行場 終戦当時の写真
1946/08/15 米軍撮影 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより


藤沢飛行場に建築された東洋航空 航空機生産組み立て工場(格納庫)
1961/08/26 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより